ホームズ・パロディ

    小さな勝利

     →探偵エドさん
     一九一二年もはじめのころの、ある冬の日のことであった。
     ロンドンの、高級クラブが入った建物が立ち並ぶ一角で、最近はやりの自動車というやつを降りた私は、ずいぶんと久しぶりに顔なじみの人物と対面した。
    「やあ、何年ぶりだろうかね。変ったようで、変わらないね、君は」
    「ホ……ホ……ホームズ!」
     私はたっぷり三分は、間の抜けた顔をしていたであろう。そこにいたのは、さすがにいくらか老けてはいるが、記憶にあるままの顔をした、わが友人、シャーロック・ホームズその人だったからだ。
    「やはりロンドンに来ると、君の顔を見なくてはおさまらないね、ワトスン君」
     ホームズの言葉に、私もなんとかにやりと笑ってみせた。
    「一介の老町医者にすぎない私がこんなところに呼ばれるのだから、君がらみでないはずがないと思っていたよ」
     私の強がりに、ホームズは笑った。
     握手したり、抱き合ったりなどする必要はなかった。私たちは、私たちだったからだ。
    「それにしても、君はサセックスの田舎で養蜂を営んでいたはずではなかったのかね?」
    「養蜂も、現代の科学の進歩とは無縁ではないさ。実は、昨日、蜜蝋と蜜の品質を向上させるための新手法についての講演があってね。聞きに来たところ、ホテルに呼び出しの電報が届いていたわけだよ。ワトスン君も来るというので、喜び勇んでやってきた次第だ」
     建物の門をくぐりながら、ホームズはステッキで地面を突いた。
    「さて、ワトスン君。偉大なる社会主義者、ハーバート・ジョージ・ウェルズ氏がぼくらを呼びつけたのは、一体なんでだと思うね」
    「さてね。十数年前に君がひっさらった、水晶の卵を返せ、とでもいってくるんじゃないのかね」
     私も調子を合わせた。このジョークは、当時、娯楽読物に新境地を拓いたばかりのウェルズ氏の著作を読んだ折に、私とホームズの間で交わされたものである。
    「それなら、申し開きのしようがないが……」
     ホームズは、そこでふっと真顔になった。
    「ウェルズ氏は、彼がからんだやっかいな犯罪事件の謎を、ぼくたちに捜査させる気なのかもしれないな」
    「それならいうことなしじゃないか。あのころと比べて君の知的能力が落ちたとは、まったく思えないんだがね」
    「知的肉体的能力については、ぼくはそれほど悲観はしていないよ。悲観しているのは、ぼくがロンドンに持っていた情報網のほうさ。ウェルズ氏がらみの事件となれば、かなり大きな犯罪組織が動いている可能性もある。そうなった場合、ぼくは情報的に不利な状況で知的能力を働かせねばならなくなる……あまり面白い事態とも思えないね」
     私はびっくりした。ホームズの気力にかげりが差しているのだろうか。
    「大丈夫さ。君の推理力に、不可能なものはなにもないよ。それに、ウェルズ氏が、犯罪にまつわることで呼んだとは限らないじゃないか」
     適当にこしらえた私のこの台詞は、実は正鵠を射ていたことがはっきりする。
     フェビアン協会の中心人物のひとり、ハーバート・ジョージ・ウェルズ氏は私たちを暖かく迎えてくれた。社会主義に関してうとい人には、あの火星人が地球を侵略するという恐ろしくも娯しい小説「宇宙戦争」の作者といったほうがわかりやすいかもしれない。
    「ようこそ、ホームズさん、ワトスン先生。前に一度、出版社のパーティーでお会いしましたな」
    「そうでしたっけ?」
     ホームズが小声でささやいた。
    「しっかりしてくれよ、ワトスン君。ぼくがライヘンバッハで行方を消してしまう前、君とあのドイルとかいう男にストランドに連れて行かれたことがあったじゃないか。ぼくはよく覚えているよ。その中に、原稿を売り込みに来た、若いウェルズ氏がいた」
    「そうだったっけ?」
    「やりかけの化学実験があったので行きたくないというのを、君に無理に引っ張っていかれたのが強烈な印象だったからね。退屈なパーティーということでも強烈な印象だったよ」
     ウェルズ氏はにこりとした。
    「さすがはホームズさん、素晴らしい記憶力ですね」
    「単刀直入にお聞きします。ぼくらをここに呼んだのは、なぜです? 見たところ、あなたはトラブルに巻き込まれている様子はない。トラブルに巻き込まれているのなら自宅へ呼ぶでしょうからな。また、あなたに関わりのある人がトラブルに巻き込まれているにしては、あなたの態度は余裕たっぷりだ。ぼくに打った電報の文面を読めばすぐにわかる。ここへ来てあなたの態度を観察していると、年代物のワインを開けて、食卓を囲んだ楽しい時間を過ごそうとしているとしか思えない」
     私はびっくりした。
    「なぜわかるんだい、ホームズ!」
     ホームズはウェルズ氏の袖口を示した。
    「あの袖口を見たまえ。蜘蛛の巣のかけらと、ほこりがついているだろう? 電報を打ったということは、ぼくを呼ぶことにしたのは遅くとも昨日ということだ。ぼくを呼び出したことに関わるどんなものを用意するにせよ、引っ張り出してほこりを払っておくには、充分すぎるほどの時間がある。昨日のうちにやっておけばよかったのだからね。ということは、袖口が汚れたのは、それとはまったく違う用件であるということだ。それでは、紳士が紳士に会う直前に、ほこりや蜘蛛の巣と格闘するということはどんなことを意味するか。たったひとつしかない。ワインセラーで、手ずから客人に出すワインを吟味していたということになる」
     ウェルズ氏は感嘆したように首を振った。
    「すばらしいです、ホームズさん。お招きしてよかった」
    「お褒めいただくのは嬉しいですが、ぼくらは決して、談笑して楽しいタイプの人間ではない。教えてください。あなたは、なにを企んでいるんですか?」
     ウェルズ氏は指を一本立てた。
    「お引き合わせしたい人がいるんです」
     私は首をひねった。
    「ホームズと私に? いったい、それは?」
     部屋の扉が開いた。
    「すまない、ウェルズさん。遅くなってしまった。まったく、人間の身体というものは、どうしてこう、知力で統御できない部分が残されているのだ?」
     入ってきた人物を、私はまじまじと見てしまった。それほどまでに強烈な人物だったからだ。ほっそりした、なで肩の身体。きれいに剃刀を当てられた、青白い顔。そして分厚い眼鏡。それだけなら、よくある学者の顔だが、特徴的なのはその黄色い蓬髪を抱いた頭だった。なんとばかでかいのだ! 目分量でも、帽子のサイズは八号だろう。
    「ご紹介しましょう。このかたは」
    「待った」とホームズは遮った。「当ててみましょう。現代のアメリカが誇る大科学者にして、甦った万学の天才、思考機械ことオーガスタス・S・F・X・ヴァン・ドゥーゼン教授だ! 新聞で似顔絵を拝見したことがある」
     思考機械はにこりともしなかった。
    「ということは、あなたがたは高名なシャーロック・ホームズさんとその友人、ジョン・H・ワトスン博士に違いあるまい。なぜなら、失礼ながらあなたがたは学者には見えない。それでもウェルズさんがわたしと引き合わせたいと考えられた以上、その動機はわたしが行ったささいな犯罪捜査を重視なされた結果としか考えられん。このロンドンに、ウェルズさんがわたしと対面させようと考えるだけの知的能力を備えた探偵は、ホームズさん一人しかいない。あなたがたの年齢もそれを裏付けている。二と二を足せば四になるように、ごく当然の帰結だ」
     私は唸った。確かに頭はいいかも知れないが、ものすごい自信の持ち主だ。
    「その前に、皆さん、食事にしましょう。ホームズさんがおっしゃられたように、用意はすでにできております」
     ウェルズ氏の後について、私たちはぞろぞろと移動した。私はホームズにささやきかけた。
    「奴さん、トイレに行ってたな」
    「見ない間に君の推理力も向上したようで嬉しいよ」
     ホームズも小声で答えた。

     食卓では、私とホームズ、それに思考機械ことヴァン・ドゥーゼン教授の前には豪華な食事とワインが置かれたが、ウェルズ氏は粗食をしているようだった。無理もない。氏の食べていたメニューを見ると、糖尿病患者のそれであったからだ。
     思考機械との会話は、私には退屈だったが、ホームズとウェルズ氏には面白いようだった。この教授に、学問の話をさせたのがそもそもの間違いだと思う。こともあろうに、教授は数学の話を始めたのだ。
     思考機械が話に一区切りつけたところで、ホームズがいった。
    「なるほど。教授の考える、数学の他分野への進出と応用というのはなかなか興味をそそられる。現に、物理学の分野では目覚しい効果を上げつつあるしね。今は亡きぼくの強敵、モリアーティー教授も、悪名高き論文の中で、遊星が崩壊して無数の小惑星の群れと化すという仮説の数学的モデルを……」
    「さよう。モリアーティー教授に、数学のセンスが欠けていたということは、幸運でしたな、ホームズさん」
     ホームズの顔に驚きの色が浮かんだ。
    「なにをいうんだね? 教授、モリアーティーはれっきとした数学教授で、その数学的頭脳は犯罪組織の運営に大きく」
     思考機械はかぶりをふった。
    「しょせんはモリアーティーは三流の数学者にすぎん。少なくとも、彼が知的闘争における論理の使い方をまるで知らなかったことは確かだ。いいかね、ホームズさん」
     思考機械はいらいらとしたかのようにいった。
    「知的な争い、ゲームといってもいいだろうかな、それにおける論理の使用法は、いくつかの数学的要素を用いて表すことが可能だ。わたしが考えている、数学の他分野への応用の重要な側面のひとつに、その要素の体系的理論付けの重要性がある。いろいろと研究はしてみているが、実に魅力的な分野だ。仮に、それを『ゲーム理論』と名付けようか。もし仮に、モリアーティー教授がその理論の片鱗でも知っていたとしたら、ホームズさん、あなたは彼の追跡により、半々の確率で、一八九一年四月にヴィクトリア駅で死ぬことになっていただろう」
     それだけでも問題発言なのに、思考機械はさらによけいなことまでいってのけた。
    「わたしがモリアーティーだったら、あなたは確実に死んでいる、ホームズさん。二と二を足せば四になるのと同様に確実な話だ」
     ホームズは必死で怒りをこらえているようだった。
     私は、空気が険悪になるのを恐れて、慌てて割って入った。
    「ゲームといえば、教授が『思考機械』と呼ばれるようになったのも、チェスのゲームがからんでいたそうですな?」
     思考機械がなにか答える前に、口を挟んできたのはホームズだった。
    「ワトスン君、教授は、チェスの国際大会の会場で、論理を働かせさえすれば、チェスをまったく知らない人間でも、世界チャンピオンと戦ってそれを打ち負かすことができる、と断言し、それを証明してしまったんだ。もっとも、その言は自己矛盾しているがね」
     思考機械の眼鏡の奥の目が、きらりと光ったように見えた。
    「どういうことですかな、ホームズさん」
    「なに、論理を心得ていれば、誰にでもわかることですよ、教授。そのときのチェスのチャンピオンは、たまたま論理の使い方がわからない相手だったというだけで、もし、チャンピオンも論理の使い方を心得ていたとしたら、教授がいくら論理を働かせたとしても勝てないだろうことは明白です。先手か後手の必勝手順が解明しない限り、ドローに終わるというのが論理的帰結でしょう」
     思考機械は平静を保っているように見えたが、医者としての長い経験から、その広すぎる額にうっすらと、かすかにうっすらと赤みがかかるのが私にはわかった。
     ホームズはたたみかけた。
    「アメリカ人的合理主義により構築された十三号独房を見事に脱出した手際は、ぼくも新聞で読みましたよ、教授。しかし、残念ながら、外部の協力者を頼んだ点が、画竜に点睛を欠くことになったといっても過言ではないでしょうな。ぼくだったら、同じ状況下に置かれていても、協力者なしで、もっとスマートに脱出して見せますよ。それが紳士のやりかたというものだ」
     思考機械はいらだたしげに眼鏡の位置を直した。
    「ホームズさん、わたしはあの場に置かれていた時点で、すぐにあと二つの脱出方法を考えついたんだがね」
    「ぼくも新聞を読んだ時点で、それくらいは考えつきましたね」
    「じゃあ、方法をいってみてくれないかね、ホームズさん」
    「どういたしまして。ぼくが考えついた方法を、さも自分が前から考えていたかのようにいわれてしまうのが落ちですからね」
    「なるほど」
     思考機械の額はすでに真っ赤だった。
    「アイリーン・アドラー嬢は幸せですな。彼女はあなたがそんな見苦しい文句を吐くのを聞く前に英国を離れることができましたからな」
     ホームズの顔にも、さっと朱が走った。
    「あのひとのことは、あなたにどうこういわれるようなことではない。あのひとには知性があった。真の、だ」
    「ホームズさんよりもね」
     米英を代表する二人の名探偵は、テーブルを挟んでにらみ合った。
    「まあまあ、落ち着いてください」
     ウェルズ氏は、にこにこしながら二人の間に割って入った。この人は、こうなることをはじめから予想していたな、と私は思った。
    「あなたがたの決着をつけるための、いいものを用意してあるんですよ。ちょっと、いらしていただきたい」
     私とホームズ、それにヴァン・ドゥーゼン教授は、お互いに不審そうな顔でウェルズ氏の後についていった。

    「なんです、これは」
     私は案内された部屋にあったものを見て、一杯食わされた人間のような声を出した。おそらくはホームズも思考機械も同じ気持ちだったろう。
     部屋の中央にあったのは、かなりの大きさのテーブルだった。その一面を、ところどころに丘があったり木々が生えたりした、のどかな田園地帯の模型が覆っていた。そしてその中央を横切るように、変な形でカーテンのレールが。
     しかし、私たちを絶句させたのはそれではなかった。
    「ウェルズさん、失礼だが、これはなにかな?」
     思考機械が、テーブルの隅に整然と並べられたものを見て、問いかけた。ホームズが答えた。
    「ふむ。ぼくには、おもちゃの兵隊人形のように見えるな、教授」
    「その通りです。おもちゃの兵隊人形ですよ。歩兵百六十人、騎兵六十騎、そして大砲六門。この大砲を見てください。ばね仕掛けで、実際に砲弾が放てるんです。砲弾といってもチョークですけどね」
     ウェルズ氏は嬉しそうに嬉しそうにいった。
     私は、ぽかんとしてテーブルの箱庭、ウェルズ氏の顔、そしておもちゃの人形を見ていたが、やがて意図を飲み込むと、怒りがこみあげてきた。
    「ウェルズさん! あなたは、ホームズに、戦争ごっこをやらせようというんですか!」
     ホームズが私を制した。
    「まあ落ち着きたまえ、ワトスン君。ウェルズさん、いったい、これは?」
    「わたしがこしらえた、まったく新しいゲームの舞台装置ですよ。クラブの連中と戦うために、ちょっとがんばってみたんですがね」
     どういうことだ?
     ウェルズ氏は、椅子のひとつに腰を下ろすと、私たちにも椅子をすすめた。
    「あなたがたも、子供のころ、こういった人形を使って戦争ごっこに興じたことはないですかな? 謹厳な教授も、一度はあるはずだ。しかしですな、この齢になって、私はこう考えたのです。おもちゃの兵隊でやる戦争ごっこに、チェスのような明確なルールを与えられないものか? と」
     ウェルズ氏は愛おしそうに兵隊を眺めた。
    「最初のころは、ルール作りなど簡単にできると思ったのですが、これがなかなか難しかった。まあ、その苦労は今はくだくだ申しますまい。それについては、現在執筆中の本に詳しく書くつもりですからな。しかし、これが果たしてゲームとして上出来なものとなっているかについては、充分な知的能力の持ち主に試してもらわねばならないことはおわかりでしょう」
    「それなら、軍人にやらせればいいではないですか。なにもホームズや教授を引っ張り出さなくたって」
     私が抗議すると、ウェルズ氏は首を振った。
    「いや、このゲームを作った目的は、軍人だけではなく、軍略などなにも知らない一般の人から、そうとう知的なかたがたにまで、わけへだてなく楽しく遊んでもらうためですからな。そのためにも、充分に知的で、相手の思考を読むことにたけ、それでいて軍略にはまったくの素人というかたがたが必要だったのですよ。そんな人間がはたしているか、と考えたとき、偶然に、新大陸から『思考機械』と異名を取る、学問だけではなく、犯罪捜査においても高名な教授が、当協会を尋ねて来られた。そのときにひらめいたのが、ホームズさんだ。知的で、分析力と洞察力にすぐれ、それでいて軍事には素人。これ以上にぴったりした人物は、英国広しといえども二人といないでしょう。しかも現在は引退しておられるから、犯罪者を利することもない。教授は、アメリカに戻られるまでまだ時間がありますし」
    「なるほど、ぼくたちは本の宣伝のために呼び集められたのか」
     ホームズは辛辣な調子でそういったが、私が見たところ、どうやら面白がっているらしかった。久しぶりに、思う存分頭を働かせられるということで興奮しているのだろう。
    「ルールを説明してほしいですな」
     思考機械が冷静な口調でいった。
    「論理の使い方を知っている者どうしが直接ぶつかったら、いったいいかなることが起こるのかをわたしも知りたいのでね」

     ウェルズ氏が教えてくれたルールを、簡単に書くとこうなる。
     まずは用意されたゲーム盤を見て、どちら側の陣地を自分のものにするかを決める。
     次にカーテンを引いて、相手にわからないようにおもちゃの兵隊を配置する。この場合、用意された人形の半分だから、歩兵八十人と騎兵三十騎、それに三門の大砲が配置されるわけだ。
     全て配置したらカーテンをはずし、ゲーム開始だ。人形を動かすのも、チェスのように交互に行う。面白いのは、ひと手番に動かせる人形の数に上限はないが、制限時間が決まっていることだ。今回のような場合、七分間。
     歩兵は一回の手番に一フィート移動できる。騎兵は二フィート。大砲を動かしたり、砲撃させるには、四体の兵士がついてなければならない。騎兵がついているなら二フィート、歩兵がついているなら一フィート移動できる。
     大砲は、一回の手番には、砲撃一回か、移動かのどちらか一方しか選択できない。
     砲撃は、実際に大砲からチョークを飛ばして行う。チョークが最初に直接ぶつかった兵士は死亡する。その兵士以外の兵士を転倒させたなら、転倒した兵士も死亡する。砲撃ができるのは、ゲーム全体を通じてひとつの大砲につき六回まで。
     移動させることによって人形が接触したら、白兵戦になる。接触した兵士を中心として半径六インチの円を描き、その中にいる兵士が戦うことになる。基本的に、円の内部にいる兵士を一対一の割合で互いに除去し合う。白兵戦において騎兵と歩兵の区別はない。その際、数的に優勢な側は相手を捕獲することもできる。捕獲の条件についてもいろいろあるが、詳しく書くと煩雑なので省略する。
     敵を全滅させるか、または相手陣地の最奥の端まで兵士を進めることができれば勝利。

    「なるほど、簡単だ。チェスよりも遥かにシンプルだ」
     ホームズが顎に手をやった。
    「論理の冴えを見るには適当な舞台装置だな、ホームズさん」
     思考機械とホームズの視線の間に、火花が散るのが見えるような気がした。
    「私はなにをすればいいんだ?」
    「ワトスン博士、あなたはハンディキャップです」
    「ハンディキャップ?」
     ウェルズ氏はうなずいた。
    「そう。ホームズさんのお手伝いをしてあげてほしい。ホームズさんは、博士がいるほうが頭の回転がよくなるらしいので」
    「そんなハンディキャップなんていらんよ」
     とホームズ。
    「でも、そばで見ているだけというのもつまらないね、ホームズ」
    「わたしとしては、一人の敵が二人になったって別段かまわない。問題は、いかに論理を使うかということだから、明らかに論理の使い方を知らない人間が入ったところで、ホームズさんが不利になるだけだ」
     思考機械の言葉に、私は癇癪が破裂しそうになった。
    「ワトスン君。怒るな。君の怒りもわかるが、教授のいっていることも、あながち真理から外れているというわけじゃない」
    「ああいいよ。わかったよ。勝手にやってくれよ、ホームズ」
     私は、むくれた。むくれついでに、ちょっとしたいたずらを思いついた。

     カーテンが開かれると、ホームズと思考機械が、それぞれに合理的と思われる陣を組んだことがわかった。
     ホームズは、騎兵だけをまとめてひとつのグループにし、自陣の後方に置いた。前方には、いくつかのグループにまとめた歩兵が防御を固めている。それに対し、思考機械は、配下の兵士を、隙間を開けてばらばらに配置していた。
    「ホームズ、これはどういうことだい?」
     私は小声で聞いた。ホームズも小声で答えた。
    「戦力は集中させて用うべし、ということだよ。集中していれば、ごくわずかな敵による攻撃に対しては、被害を最小限に抑えるどころか、かえって相手を捕虜にできる可能性も大きくなる。見たまえ、あの思考機械の配置を。散り散りに置いてあるだろう。これじゃあ、兵が互いに助け合うことはできない。思考機械氏といっても、将軍の才能はない、ということだ」
    「いいにくいんだがね」
     私はホームズの注意を引こうとした。
    「曲がりなりにも、相手はチェスの世界チャンピオンを負かした男だぜ。君は、何かを見落としてるんじゃ……」
     いいかけたところで、思考機械がコインを取り上げた。
    「始めようか、ホームズさん。コインを投げて、勝ったほうが先攻だ」
    「ぼくは表にしよう」
    「裏でいい」
     ウェルズ氏が思考機械からコインを受け取り、投げた。
     裏だった。
    「わたしの番ということだな」
     思考機械はそういうと、大砲に手をかけた。
     その瞬間、私はホームズが何を見落としていたのかを悟った。ホームズも同様だったろう。
     三門の大砲からなる一斉射撃が、密集したホームズの騎兵部隊のど真ん中を襲ったのだ。
     ホームズの騎兵にはなすすべがなかった。人形はばたばたと倒れた。
     思考機械は、ひもを使って距離を測りながら、人形を動かしていった。
    「戦闘が始まるまでは、なにも兵士を集結させておく必要はないのだ。適切なときに、適切なところに集まっていればよい。わたしはあらかじめ、大砲の弾丸がどこまで飛ぶものか、試し撃ちをしておいたのだ。意外とよく飛ぶ。後は、相手が部隊を集結して置きたくなるような戦略的要地に向けて、大砲を向けておけばいいだけの話だ。すべては、論理だよ」
     七分が過ぎた。ホームズの番になった。ホームズも大砲を撃ったが、当たったのは一発だけ、倒れたのも一体だけだった。思考機械が離して配置した効果は見事に現れていた。
     わたしは、ひもを持って手持ち無沙汰になりながら、声をかけた。
    「なあ、ホームズ……」
    「黙っていてくれないか、ワトスン君。ぼくは、今、全力を尽くして考えているところなんだ」
     ホームズはひもを手に、一心に人形を動かしていた。これから慌てて部隊を散開させることの愚は、ホームズも承知していた。選んだのは、一斉突撃だった。
     だが、わずか七分間では、多数の人形を素早く動かすのは至難の業である。それでもホームズは、なんとか騎兵部隊を大砲の狙いから外した。
     そう思ったのは早計だった。手番を迎えた思考機械は、ばねをはじく指の力加減をわずかに変え、ホームズの騎兵を狙い撃ちした。またも、少なからぬ数の騎兵が倒れた。
     そして思考機械の歩兵部隊は、ホームズの騎兵の前にじわじわと寄ってきて、いつの間にか壁を作ってしまった。
    「そろそろ戦闘に移りますかな、ホームズさん」
     思考機械は、歩兵をホームズの騎兵にこつり、と当てた。
     すさまじい殺戮戦が始まった。
     私が驚いたことに、思考機械の陣は思ったよりも堅牢だった。離れすぎていると思っていた各人形間の位置関係は、絶妙に按配されており、兵が捕獲されるのを防いでいた。ホームズの騎兵と、思考機械の歩兵が、あれよあれよという間に取り除かれていき、最終的に、壁は崩れ去ったものの、ホームズの騎兵は全滅してしまった。
     こんな呆然とした顔のホームズは初めて見た。
     七分が過ぎ、ホームズの番になった。ホームズはなんとか残余の歩兵部隊をまとめあげ、防御態勢に移った。
     今度は思考機械が攻勢に移る番だった。おびただしい数の歩兵が、ホームズの陣に迫る。もはや、思考機械に奇計をめぐらす必要などなかった。正攻法を貫けば、後は数で押し切れる。
     その後、手番が数回交替した。その戦いぶりをくだくだしくは書かないが、ホームズの陣はぼろぼろだった。敵にほぼ同数の損害を与えはしたものの、中央を押さえられ、いまだ無傷の思考機械の騎兵部隊を食い止めるだけの兵はどこにもいなかった。
    「なあ、ホームズ……」
    「黙っていてくれといっただろう、ワトスン君!」
    「でも、着いちまったぜ」
    「なに?」
     その場にいた全員、ホームズ、ウェルズ氏、思考機械の三人が、私のほうを、まるでウェルズ氏の小説に出てくる透明人間でも見つけたかのような視線で見た。
    「なんてこった……」
     ウェルズ氏がつぶやいた。
    「歩兵が一体、思考機械の陣を突破しているぞ! 盤の端にまで来てしまった!」
    「二と二を加えたら三になってしまった。……いや、五か」
     思考機械も唖然としていた。
     私はなんとなく腹が立った。
    「なにをみんな、変な顔をしているんだ。さっきから私は、ホームズのところからひとつちょろまかした歩兵を、ずっと教授の陣に向かって進めていたんだよ。誰も私のことを見てくれもしなかったのか」
    「チェスタトン氏の『見えない男』だ」
     ウェルズ氏は頭を抱えた。
    「ホームズさん、なんであれ、わたしはあなたに負けた。どうも探偵としても、ゲームプレーヤーとしても、修行が足りなかったようだ。どんなわずかな手がかりも見逃さない、というのが、探偵の鉄則なのだが」
    「ぼくにじゃないよ」
     思考機械の敗北宣言に、まだ、ショックから立ち直れない、とでもいうような声でホームズは答えた。
    「勝ったのは、ワトスン君だ。ぼくも……全然、気づかなかった」
    「困った」
     ウェルズ氏はどうやら突発性の頭痛に襲われたようだった。
    「シャーロック・ホームズ氏と思考機械とを戦わせておきながら、勝ったのはワトスン博士……それもこんながっかりするような勝ち方で。これじゃあ、ちっとも本の宣伝にならない!」
     どうもみんなが落胆する結果になってしまったようだ。

     使用人が盤上の駒を片付けた後、私たちは、手にワインの入ったグラスを持ちながら談笑していた。もちろんウェルズ氏は水である。
    「ワトスン君、この騒動、手記にするんだろう?」
    「一応ね」
     私は答えた。こんな、ホームズが笑劇の登場人物になってしまうような事件、発表できるものか、と思いながら。
    「表題はどうなるのですかな?」
     ウェルズ氏が聞いてきた。
    「『小さな敗北』とするつもりです」
     私の答えに、思考機械がかぶりを振った。
    「敗北? 君たちは勝ったではないか。ぜひとも、『勝利』とするべきだ」
    「それはいい」
     私がなにか答える前に、ホームズが叫んだ。
    「ワトスン君、勝ったのは君だ。『勝利』とするべきだよ」
     勝利、なんておこがましいとしか思えなかった。
    「そうかもしれないけど、『小さな』という言葉は入れたいね」
    「それでは、『小さな勝利』というのはどうですか。いい響きのような気がしますが」
     ウェルズ氏のつけたタイトルを、私は二、三度口の中で転がした。
    「君たちがそれでいいのならね、ホームズ」
    「決まりだ」
     ウェルズ氏がうなずいた。
    「実は、今書いている本の表題に悩んでいたのですが、ワトスン博士のおかげで解決しました」
    「ほう、お聞きしたいものですな」
     私は、自分がどんな解決の役に立ったのだろう、と思いつついった。
    「『小さな戦争』というものにすることに決めました」
     わたしの表題よりももっといい思いつきに見えた。
    「ワトスン博士、手記を書き終えたら、わたしの知人に見せてやってくれませんかな」
     思考機械がいった。
    「知人?」
    「ええ、ジャック・フットレルという男です」

     かくして、この手記はフットレル氏に渡されることとなった。なんでも、彼は思考機械の視点からの描写も入れて、この短い手記を一編の小説にするつもりなのだという。出来上がり次第、小説とともにこちらへ送り返してくれるそうだ。
     私としては、こんな手記など大西洋の底に沈んでしまってもどうでもいいのだが、まあそんなことが起こりうるはずもあるまい。フットレル氏が乗る予定のタイタニック号は、近代科学の粋を凝らして作った豪華客船であるのだから……。

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    ~ Comment ~

    Re: 貞治 参さん

    読みましたよ昔、海神の晩餐。

    あのゴージャスな歴史ミステリは若竹先生には向いてない題材だったかなあ、というのが正直な感想です。マンション火災を題材にしたパニックサスペンスの「火天風神」は面白かったですけどね。

    最近あの人の本は読んでないなあ……。

    NoTitle

    拝読いたしました。

    ホームズと思考機械の夢の対決、面白かったです。
    ホームズについては刊行順で『思い出』まで、思考機械は『十三号独房の問題』しか読んでいないのですが、ところどころニヤリとさせられました(ウェルズは読んだことがないのです)。

    創作ノートも読みました。
    当時のことについて詳しく調べられており、感嘆しました。

    他の作品もぜひ読んでみたいと思います。

    (ところで、若竹七海の『海神の晩餐』という作品には、フットレルの未発表短編(!)が載ってます。もちろん若竹氏の創作ですが)

    Re: 面白半分さん

    ついでといってはなんですが、創作ノートもありますので、そちらもぜひごらんいただければ(^^)

    けっこう調べたりして書いたので、うんちくを語りたいというわけで(笑)

    NoTitle

    ホームズ,思考機械,ウェルズとオールスターの中、
    彼がそうきましたか。
    ものすごく面白かったです。
    にわか思考機械ファンとしてはタイタニック号のくだりも良かったです。

    Re: ミズマ。さん

    最近ミステリばかり読んでいたのであっちのほうは忘れていました(汗)。

    宮崎アニメも、今「未来少年コナン」を見ているところなのでいいわけきかないしなあ(汗汗)

    修行して出直してくるであります(汗汗汗)

    NoTitle

    おっと、猫もいましたね! そっちは読みましたよ。
    犬のホームズはあれです。宮崎駿氏が昔テレビアニメでやってたやつです。
    たぶん猫より前か同じぐらいじゃないかなぁ、時代的に^^;

    じゃあちょっと、覚書も読んできますねー。

    Re: ミズマ。さん

    ホームズといったら昔は「三毛猫」だったんですがねえ。最近は犬ですか。時代は変わるものですねえ。

    歴史ものでミステリを書くとたいへんなんですよもう、調べることが多すぎて(^^;) 同時代人とか出さないと面白くないですしねえ。

    覚え書きのほうも読んでいただけたら嬉しいですね。裏話をしているほうが楽しいもので(^^)

    ホームズやヴィクトリア朝時代だったらグラナダTVの傑作TVシリーズ「シャーロック・ホームズの冒険」を見れば、なんとなく雰囲気はつかめますが、違う設定で歴史ものを書いたときには資料がなくて半分泣きながら書きましたわははは。

    また読んでくださいね~♪

    NoTitle

    こんにちは。
    ホームズって言ったら「イヌの?」と応える私ですが、とても楽しく読ませていただきました。

    「一体誰の『勝利』なのかなぁ?」と思っていたので、オチを読んだとき、「おまえかー!」となりました。おもしろかったです。
    ホームズさんとワトソンさんでまた別のお話も読みたいですねぇ。

    Re:ありがとうございます

    >ksbcさん

    ようこそいらっしゃいました♪

    ksbcさんみたいな年季の入ったミステリファンのかたには食い足りないかもしれませんが、気合いを入れて書いた作品をそろえておりますので、どうか楽しんでいっていただければ幸いです。

    これからもよろしくお願いします~♪

    ありがとうございます

    ポール・ブリッツさん、ご訪問・コメントありがとうございます。

    ご自分でお書きになっていらっしゃるなんて素敵ですね。
    これから読ませていただきます。
    またよれせていただきますので、よろしくお願いします。

    管理人のみ閲覧できます

    このコメントは管理人のみ閲覧できます

    がんばります!

    >狼のしっぽさん

    ようこそおいでいただきました!

    がんばって精進し、もっともっと作品を書きたいと思います!

    やるぞぉ~♪

    おめでとうございます!

    ポール・ブリッツ様こんばんは~!
    まずはブログ開設おめでとうござます。
    ブログでこれだけの話が書けるとは凄いです。
    そして面白い!
    これからもどんどん書いてください。

    いらっしゃいませ~

    >t-shinさん

    ようこそいらっしゃいました~♪
    どうぞ遊んでいってくんなまし♪

    おたがいできることをがんばりましょう!

    ご挨拶

    お誘いに甘えて、早速やってきてしまいました。
    とりあえず読んだのはこの「小さな勝利」だけですが…。
    他は次回のお楽しみ、ということで。

    私も執筆活動には大いに興味はあるのですが、何だかんだ理由をつけて何もせず…。
    やはり、こういうものはまずは書いてなんぼですからね。
    今後も頑張ってください。
    私も頑張ります。

    ありがとうございます!

    お祝いのお言葉、ありがとうございます!

    おなら出ちゃっ太さんの創作意欲も戻りますように……!

    ネ兄!ブログ開設!

    ブログ開設、おめでとうございます。
    どんどん世間に作品を発表してくださいね。

    オイラは再び創作する日が来るんだろうか・・・?
    (^^;

    ようこそ!

    >トゥデイさん

    わざわざいらしていただいてどうもありがとうございます!

    できる限り、面白いものを書こうと思っておりますので、どうかこれからもごひいきに!

    祝開設

    こんにちは。
    来てみたっす。
    ブログに関しては「やっとか」って感じでした。
    そしてやっとてんちょさんがいつも絶賛してる話を読めると喜びました。
    やっぱ時代はブログですかね。

    で、話の方は、少し難しかったですが、面白かったです。
    割と好みです。
    まさかの登場人物、まさかの会話、まさかのオチでした。
    今後とも楽しみっす。頑張って下さい。

    No title

    >「ECM設計局」でいいんですよね?

     はい、それでかまいません。

    ありがとうございますッ!

    さっそくこちらからもリンクを張らせていただきますッ!
    「ECM設計局」でいいんですよね?

    リンクさせていただきました。

     うちのサイトから、勝手ながらこちらのサイトをリンクさせていただきました。
     うちのサイトは日に数人しか訪れないサイトですが、ご報告まで。
    管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

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