「紅蓮の街(長編ファンタジー・完結)」
紅蓮の街・外伝「彼らなりの詩(うた)」(掌編シリーズ・完結)
紅蓮の街・外伝/十六番目の女
十六番目の女
エリカ様のこと?
そりゃ覚えてるわよ。忘れろってほうが無理ね。あんな人、これまでに見たことないわ。
最初に声がかかったときには驚いたわよ。
あたしが泊まっていた、安宿というもおろかな、路地裏にあるおんぼろな宿に、あたしたちの劇団のどんな衣装よりも上等な服を着た男と、それからあたしの知り合いだったガスって男が現れたんだからねえ。
「旅芸人のフィム様とそのご一行でございますな。バルテノーズ公爵家当主、エリカ・バルテノーズ公爵閣下がぜひともフィム様の芸をご覧になりたいとの仰せです。どうか、公爵閣下の家にいらしていただきたいのですが」
あたしはガスにいったわ。
「あんたがイルミールを裏切ってバルテノーズ家に走ったのは知ってるけど、いったいこれはなんの冗談?」
ガスは厳しい表情だったわね。
「言葉を慎んでくれ、フィム。このかたは本物のバルテノーズ公爵家の家令、アクバ様だ。下世話なことだからおれから話すが、三食と、このボロ宿にある薄っぺらい毛布よりもあったかい布団、それと給金は保証する。その気になれば夏まで屋敷にいたっていいぜ」
あのときのガスとアクバさんの背後には、後光がさして見えたねえ。なにせ、あの寒さと雪で、あたしは劇団員が全員凍死するんじゃないかとまで思っていたくらいだからさ。
返事? 団員と相談するまでもないさ。あたしは、即座に、行きますっていったわよ。
それでも半信半疑だったけど、路地を抜けたときはたまげたわね。ほんとうに馬車が待っていたんだもの。
雪のせいでのろのろとしか進めなかったけど、ふかふかの座席に香なんかが焚きこめてあって、あたしはそれだけでびびっちゃった。だって、あたしたち、貧乏な旅芸人よ。こんな馬車に乗れる身分じゃないわよ。
「あの……あたしたち、なにをすればいいんですか?」
あたしはアクバさんに聞いたんだけれど、代わりにガスが答えたわ。
「心配するな。取って食ったりしないよ。あんたらには、この数日間、ぶっ通しであるかたに芝居の稽古をつけてほしいんだ。泥縄でいいから、数日で、あんたの声の半分、いや三分の一でいいから、だだっ広い野っ原の端から端まで届くような声を出せるように特訓してほしい」
「いいけど……誰を特訓するのよ。ガス、あんた?」
「おれじゃない。着けばわかる」
たしかに、着いたときにわかったわ。
はっとするほど美しい人だったわねえ。全身から、威厳が染み出しているかのようだった。それでいて、あたしたちみたいな旅芸人に対して、貴族の賓客みたいに慇懃に接してくれたんだから、人物っていうものは違うわねえ。
「ようこそ、我が邸へ。よろしければあなたの教えを乞いたいのです、ファムさん」
「我が邸って……ま、まさか、まさか、あなたが?」
「終末港公爵、エリカ・バルテノーズです」
こっちはひたすら平伏するばかりよ。
「顔を上げてください。平伏する必要もありません。どうしてもあなたたちの力が必要なのです。狭いですが、邸内にホールがあります。できれば、今すぐにでも教えを請いたいのです。できますか?」
貴族なんて、みんな横柄なくそったれだと思っていたけど、その印象がくるりと変わっちゃったわねえ。あたしは、公爵閣下の……なんていうか、忠臣、いや、大ファンになっちゃったのよ。
海千山千で来たつもりだけれど、あたしは、もしかしたら単純な人間だったのかもねえ。
その日から、あたしは、公爵閣下の特訓に励んだわ。もとから、公爵閣下は才能があったのね。呼吸法のコツさえつかんだら、あとはすぐだったわ。
「ねえ、こんな発声練習なんかして、いったい公爵閣下はなにをしようとしているの?」
あたしはガスに聞いたわ。
「今にわかるさ」
あの男はそう答えた。
たしかにそうだったわねえ。
すぐにあたしは、これまで見た中でも最高の舞台を目にすることになったんだから。
あたしの亭主もいかれっちゃって、「エリカの歌」なんていう脚本を書き始める始末。
それがあんなことになるとはねえ。
神々の王ザースは、ある意味、非情よ。
でもまあ、「エリカの歌」は旅の行く先々で大当たりを取ったし、そのせいで、あたしたちもこうして劇場を持つまでになったんだから、エリカ様の恩寵は、たしかにあったんだろうねえ。
そのうち、「聖エリカ様」と呼ばれてもおかしくないんじゃないかねえ、ほんとの話。もしそう呼ばれたら、あたしは劇団員全員連れて教会にお礼に行くんだけれどねえ……。

エリカ様のこと?
そりゃ覚えてるわよ。忘れろってほうが無理ね。あんな人、これまでに見たことないわ。
最初に声がかかったときには驚いたわよ。
あたしが泊まっていた、安宿というもおろかな、路地裏にあるおんぼろな宿に、あたしたちの劇団のどんな衣装よりも上等な服を着た男と、それからあたしの知り合いだったガスって男が現れたんだからねえ。
「旅芸人のフィム様とそのご一行でございますな。バルテノーズ公爵家当主、エリカ・バルテノーズ公爵閣下がぜひともフィム様の芸をご覧になりたいとの仰せです。どうか、公爵閣下の家にいらしていただきたいのですが」
あたしはガスにいったわ。
「あんたがイルミールを裏切ってバルテノーズ家に走ったのは知ってるけど、いったいこれはなんの冗談?」
ガスは厳しい表情だったわね。
「言葉を慎んでくれ、フィム。このかたは本物のバルテノーズ公爵家の家令、アクバ様だ。下世話なことだからおれから話すが、三食と、このボロ宿にある薄っぺらい毛布よりもあったかい布団、それと給金は保証する。その気になれば夏まで屋敷にいたっていいぜ」
あのときのガスとアクバさんの背後には、後光がさして見えたねえ。なにせ、あの寒さと雪で、あたしは劇団員が全員凍死するんじゃないかとまで思っていたくらいだからさ。
返事? 団員と相談するまでもないさ。あたしは、即座に、行きますっていったわよ。
それでも半信半疑だったけど、路地を抜けたときはたまげたわね。ほんとうに馬車が待っていたんだもの。
雪のせいでのろのろとしか進めなかったけど、ふかふかの座席に香なんかが焚きこめてあって、あたしはそれだけでびびっちゃった。だって、あたしたち、貧乏な旅芸人よ。こんな馬車に乗れる身分じゃないわよ。
「あの……あたしたち、なにをすればいいんですか?」
あたしはアクバさんに聞いたんだけれど、代わりにガスが答えたわ。
「心配するな。取って食ったりしないよ。あんたらには、この数日間、ぶっ通しであるかたに芝居の稽古をつけてほしいんだ。泥縄でいいから、数日で、あんたの声の半分、いや三分の一でいいから、だだっ広い野っ原の端から端まで届くような声を出せるように特訓してほしい」
「いいけど……誰を特訓するのよ。ガス、あんた?」
「おれじゃない。着けばわかる」
たしかに、着いたときにわかったわ。
はっとするほど美しい人だったわねえ。全身から、威厳が染み出しているかのようだった。それでいて、あたしたちみたいな旅芸人に対して、貴族の賓客みたいに慇懃に接してくれたんだから、人物っていうものは違うわねえ。
「ようこそ、我が邸へ。よろしければあなたの教えを乞いたいのです、ファムさん」
「我が邸って……ま、まさか、まさか、あなたが?」
「終末港公爵、エリカ・バルテノーズです」
こっちはひたすら平伏するばかりよ。
「顔を上げてください。平伏する必要もありません。どうしてもあなたたちの力が必要なのです。狭いですが、邸内にホールがあります。できれば、今すぐにでも教えを請いたいのです。できますか?」
貴族なんて、みんな横柄なくそったれだと思っていたけど、その印象がくるりと変わっちゃったわねえ。あたしは、公爵閣下の……なんていうか、忠臣、いや、大ファンになっちゃったのよ。
海千山千で来たつもりだけれど、あたしは、もしかしたら単純な人間だったのかもねえ。
その日から、あたしは、公爵閣下の特訓に励んだわ。もとから、公爵閣下は才能があったのね。呼吸法のコツさえつかんだら、あとはすぐだったわ。
「ねえ、こんな発声練習なんかして、いったい公爵閣下はなにをしようとしているの?」
あたしはガスに聞いたわ。
「今にわかるさ」
あの男はそう答えた。
たしかにそうだったわねえ。
すぐにあたしは、これまで見た中でも最高の舞台を目にすることになったんだから。
あたしの亭主もいかれっちゃって、「エリカの歌」なんていう脚本を書き始める始末。
それがあんなことになるとはねえ。
神々の王ザースは、ある意味、非情よ。
でもまあ、「エリカの歌」は旅の行く先々で大当たりを取ったし、そのせいで、あたしたちもこうして劇場を持つまでになったんだから、エリカ様の恩寵は、たしかにあったんだろうねえ。
そのうち、「聖エリカ様」と呼ばれてもおかしくないんじゃないかねえ、ほんとの話。もしそう呼ばれたら、あたしは劇団員全員連れて教会にお礼に行くんだけれどねえ……。
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そういえば特訓してたね。
ふむふむ、師匠はこの方なのね。
大演説はすごかったんだろうね。
でもなんかエリカちゃんが出て来ると寂しいね。
彼女に人生があったのかな。
今度生まれ変わったら、ポールみたいな唐変木の所に出てこないで、猫国に来なさいね。
ちゃんと相惚れで結婚して幸せにしてあげるからね。
ふむふむ、師匠はこの方なのね。
大演説はすごかったんだろうね。
でもなんかエリカちゃんが出て来ると寂しいね。
彼女に人生があったのかな。
今度生まれ変わったら、ポールみたいな唐変木の所に出てこないで、猫国に来なさいね。
ちゃんと相惚れで結婚して幸せにしてあげるからね。

- #5170 ぴゆう
- URL
- 2011.09/19 17:19
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Re: ぴゆうさん
猫国行きなんて、そんなことをエリカちゃんを演じてくれたうちの一座の女優にいったら、
「行く行く絶対行く! それでわたしの役はなに?」
と答えると思います。
「紅蓮の街」終了直後の打ち上げパーティー( http://crfragment.blog81.fc2.com/blog-entry-914.html )では、ナミ役の女優と組んでガスを好演してくれた男優をいびってましたからねえ……。
歴史上のエリカ・バルテノーズ公爵閣下はさすがに死んでいるので無理ですが。