「紅蓮の街(長編ファンタジー・完結)」
紅蓮の街・外伝「彼らなりの詩(うた)」(掌編シリーズ・完結)
紅蓮の街・外伝/二十四番目の女
二十四番目の女
「あなた」
その、ふくよかな、というにはでっぷりしすぎている中年婦人は、大きな声で亭主を呼んだ。
「どうしたのだ、わが愛しの駒鳥よ」
二階から、のんびりとした声が返ってきた。中年婦人は、「愛しの駒鳥」とやらが聞いたら驚愕のあまりひっくり返りそうな体格でありご面相であったが、たしかに、身体全体からにじみ出る愛嬌はあった。
そのうえ、なんと、その婦人は、それを聞いて頬まで染めたのである。
夫婦仲はむつまじいようであった。
しばらく、婦人は大柄な身体をくねくねさせていたが、我に返ると、先ほどよりも大きな声を出した。
「朝ごはんができてますよ」
「わかった。今行く」
婦人は窓から、刈り取りが終わり、落穂ひろいも終わり、農閑期に入った畑を満足げに見た。
身の程をわきまえた財産と、愛する亭主と、そしてほかほかの朝ごはんがあって、他になにがいるだろうか。
婦人は、これまでの生活を思い、しみじみと幸せを噛み締めるのだった。
これまでの生活は、これとはまったく逆だった。息づまるような毎日。命も危うい生活。古人もいっていたが、「安心して生きていける毎日よりも貴重な宝はない」というのはほんとうだったのだ。
二階から、小柄で、どことなく品のよさを感じさせる初老の男が降りてきた。
男の顔は弛緩しきっていた。それだけ幸せなのだろう、と婦人は思った。あの人のこれまでの生活を考えれば、無理はない。
「燕麦の粥かい?」
「今日は、牛乳と砂糖を入れたのよ」
妻の答えに、男は手を打ち鳴らした。
「牛乳と砂糖が入っているとは! なにか、おめでたいことでもあったのかい」
「それがね……あなた」
婦人は頬を染めた。
それだけで、亭主にはわかったようだった。
「それはいい! それはいい! 名前はなんにする?」
婦人はさらに頬を染めると、亭主にいった。
「なんでもいいけれど……」
「けれど?」
「ヴェルクだけはやめておいて」
「誰もつけないさ、そんな名前!」
ヴェルク・ガレーリョス三世が死んだと聞くや否や即座に暇をもらい式を挙げ、こそこそ貯めた財産でオルロス伯領に農園を買った、もとガレーリョス家の奉公人だった婦人は、自らの運の強さを確かめるかのように、テーブルに置かれた燕麦の粥の入った鍋をはさんで向かい合った最愛の夫に甘い声でいった。
「そうよね、バル」
夫は笑った。
「その名前で呼ぶのはよせよ。あの人殺しの主人とつきあわなければならなかった、家令のころを思い出すじゃないか」
ふたりは、顔を見合わせて幸せそうに笑った。
まるで非情な運命も、このふたりだけは避けて通るとでも思っているかのごとく。

「あなた」
その、ふくよかな、というにはでっぷりしすぎている中年婦人は、大きな声で亭主を呼んだ。
「どうしたのだ、わが愛しの駒鳥よ」
二階から、のんびりとした声が返ってきた。中年婦人は、「愛しの駒鳥」とやらが聞いたら驚愕のあまりひっくり返りそうな体格でありご面相であったが、たしかに、身体全体からにじみ出る愛嬌はあった。
そのうえ、なんと、その婦人は、それを聞いて頬まで染めたのである。
夫婦仲はむつまじいようであった。
しばらく、婦人は大柄な身体をくねくねさせていたが、我に返ると、先ほどよりも大きな声を出した。
「朝ごはんができてますよ」
「わかった。今行く」
婦人は窓から、刈り取りが終わり、落穂ひろいも終わり、農閑期に入った畑を満足げに見た。
身の程をわきまえた財産と、愛する亭主と、そしてほかほかの朝ごはんがあって、他になにがいるだろうか。
婦人は、これまでの生活を思い、しみじみと幸せを噛み締めるのだった。
これまでの生活は、これとはまったく逆だった。息づまるような毎日。命も危うい生活。古人もいっていたが、「安心して生きていける毎日よりも貴重な宝はない」というのはほんとうだったのだ。
二階から、小柄で、どことなく品のよさを感じさせる初老の男が降りてきた。
男の顔は弛緩しきっていた。それだけ幸せなのだろう、と婦人は思った。あの人のこれまでの生活を考えれば、無理はない。
「燕麦の粥かい?」
「今日は、牛乳と砂糖を入れたのよ」
妻の答えに、男は手を打ち鳴らした。
「牛乳と砂糖が入っているとは! なにか、おめでたいことでもあったのかい」
「それがね……あなた」
婦人は頬を染めた。
それだけで、亭主にはわかったようだった。
「それはいい! それはいい! 名前はなんにする?」
婦人はさらに頬を染めると、亭主にいった。
「なんでもいいけれど……」
「けれど?」
「ヴェルクだけはやめておいて」
「誰もつけないさ、そんな名前!」
ヴェルク・ガレーリョス三世が死んだと聞くや否や即座に暇をもらい式を挙げ、こそこそ貯めた財産でオルロス伯領に農園を買った、もとガレーリョス家の奉公人だった婦人は、自らの運の強さを確かめるかのように、テーブルに置かれた燕麦の粥の入った鍋をはさんで向かい合った最愛の夫に甘い声でいった。
「そうよね、バル」
夫は笑った。
「その名前で呼ぶのはよせよ。あの人殺しの主人とつきあわなければならなかった、家令のころを思い出すじゃないか」
ふたりは、顔を見合わせて幸せそうに笑った。
まるで非情な運命も、このふたりだけは避けて通るとでも思っているかのごとく。
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Re: 椿さん
ヴェルク三世に仕えるなんて精神の擦り切れるような仕事をした後ですから、暇を貰って命冥加、という道を選ぶことは容易に想像つきました。
これが人治国家の恐ろしさというやつです。主君の気分次第でいつ首が飛ぶかわからない……。