ささげもの
黄輪さん大長編小説読了記念短編・その4
あまり学があるとはいえないシリン・ミーシャにとって、その本がもたらしたものは、あまりにも大きかった。
『本て……こんなに面白いものやったんやなあ』
シリンにとっては、人生で初めて一冊の本を読み通せた、感動の読書体験であった。それはそうである。田中政志の手になるこの漫画は、一切の台詞や擬音がない、サイレント漫画なのだから。そのうえ、大胆な駒割りと精密な画、そして躍動的な描写により、読むものをまるで映画でも見ているかのような錯覚に陥らせる、日本ならず世界各国でも評価の高い、傑作中の傑作であった。
しかも舞台は、シリンのいた双月世界とはまったく違う世界である。シリンにとっては、初めて体験する、異世界ファンタジーのように見えたのであった。
「ワインをお注ぎしました。それでは、不肖わたしが、乾杯の音頭を。ファーストコンタクトに乾杯!」
「カマンベールチーズどうぞ」
店主や舞のそんな声も、漫画本に夢中のシリンには届かなかった。
『……ああ、この絵物語、面白いなあ。この酒、お菓子みたいに甘いなあ。このなんだかよくわからない食べ物、むちゃくちゃおいしいなあ。まるでうち、天国にいるみたいや……モールはん、あんなこというて、うちをほんまの天国へ連れてきたんとちゃうかなあ』
横ではモールとツイスト博士、それに学生たちが天国とは縁遠い話をしていた。
「……なるほどね。あなたがたのところでは、魔術のかわりに、その……電気を使った機械の文明が発達したのね。この明かりも、あの冷蔵庫とかいうものも、全部電気で動いてるのね。これはすごいね」
「その代償も大きいんです……自然破壊は行くところまで行きつつあるし、こないだなんか、津波で原子力発電所が……」
「それはある意味、こちらも同じね。私に、その『ゲンシリョク』というものがよくわからないのと同様、あなたがたも、私らが抱えている問題はよくわからないだろうからね」
「まったくですね、モールさん」
「それに、気づいたけどね、あなたがたの世界、政治哲学をはじめとする、合理的な哲学思想が、私たちの世界と比べて、深化とはいえないまでも、ものすごく多様化して発展しているね。さっき聞いていたけど、あなたたち、民主主義者ね?」
「えっ、そうですが。普通そうだよなあ?」
「井森、モールさんは別な世界から来たんだ。それを忘れるなよ」
モールは苦い笑みを漏らした。
「そういうことね。私たちの世界、あなたたちの用語では、王制とか、寡頭制にあたる国家が多いね。もし、私の世界に、あなたたちの民主主義を唱える者が来たら……それは過激な危険思想ね」
「昔の哲学者が喝破したように、たがが外れたら無政府状態になってしまいかねない危険をはらんだ思想ですからね。井森君たちも、エジプトのニュースを聞いているだろう?」
「その『エジプト』とかいう国でなにがあったかは知らないけれど、たぶんそれで合ってるね。話を聞いていると理にかなった素晴らしい政治のやりかたに思えるけど、使い方を覚えるまでが、きっとたいへんね。文字通りに、汗と血を滝のように流して、長い時間をかけて、身体に覚えさせないと、きっとひどいことになるね」
狐女はグラスを上げた。
「もう一杯欲しいね。こんな上質なお酒、めったに飲めないね。私たちの世界にも、おいしいお酒あるけれど、持ってこられないのが残念ね」
「ということは、やっぱり帰ってしまわれるのですか」
捻原は、残念そうにいった。
「それがお互い、もっともいいことだと思うね。世界がつながるのが、ちょっと早すぎたね。だって、この世界で私が暮らしたら、下手をしたら一大宗教団体の神として、世界に君臨してしまうかもしれないね。それは、あなたたちも同じね。特に、あなたたちには常識の思想を、わかりやすく相手に説明できる人間が……そう、店主さん、あなたみたいな人がうちの世界に来たら、とんでもないことになりかねないね」
「民主主義や共産主義、それに無政府主義の思想を持ち込んだら、『革命』が起こって大流血の事態になるかもしれないからなあ……それに、本格的なテイラー=フォード主義を持ち込んだら、工業生産量の爆発的な増大で貧富の格差が取り返しのつかないところまで行きかねない」
「そういうことね。私たちの世界がどんな形でこれからの歴史を刻むにしても、そのための手段は私たちが自分で見つけ出さないといけないね」
「これがファーストコンタクトの現実なんですか。とほほほほ、だなあ」
「そもそも、どんなきっかけで世界を遮る膜に穴が開いたかはよくわからないけれど、なにか、私も初めて感じる、強力な力が戦った跡があるから、そのせいかもしれないね」
「そんな、こんな平和なところで、戦いなんか起こっちゃいませんよ。なあ?」
はっはっは、と、モールを除く全員が笑った。
「笑うけど、世の中、わからないものね。さて、講釈を続けるけど、この世界の膜に穴が開き続けているのは、そちらの世界に、うちらの世界の物質が入り込んだからと考えて間違いなさそうね。シリンの持ち込んだ金貨ね」
「じゃあ、返すとなると、捻原さん、丸損?」
「いや、代わりに、釣り合いを取るため、そちらのなにかをうちの世界に持っていけばいいね。なにかないかね?」
「うーん」
そこにいた面々は、全七巻の「ゴン」の三巻目に取り組んでいるシリンに目を向けた。
「考えるまでもなさそうね」
こうして、二つの世界に開いた虫食い穴は塞がれ、それぞれの世界は大事になる前に安寧を取り戻した。
シリンが双月世界へ持っていった「ゴン」全七巻は、双月世界の画家、印刷工、その他の芸術家たちに衝撃を与え、大騒動を引き起こすことになるのだが、それにはしばらくの時を待たねばならない。それに、異世界の出版界の話など、読みたい人もいないだろう。
あれだけ虎娘が夢中になっていた漫画だから、きっと面白いに違いないと思い、ネット通販で絶版の「ゴン」を買おうとした井森青年が、第七巻についた三千四百円を超えるプレミアに頭を抱えたことは……これもまた、別に述べる価値もないと思われる。
(この項・終わり)
『本て……こんなに面白いものやったんやなあ』
シリンにとっては、人生で初めて一冊の本を読み通せた、感動の読書体験であった。それはそうである。田中政志の手になるこの漫画は、一切の台詞や擬音がない、サイレント漫画なのだから。そのうえ、大胆な駒割りと精密な画、そして躍動的な描写により、読むものをまるで映画でも見ているかのような錯覚に陥らせる、日本ならず世界各国でも評価の高い、傑作中の傑作であった。
しかも舞台は、シリンのいた双月世界とはまったく違う世界である。シリンにとっては、初めて体験する、異世界ファンタジーのように見えたのであった。
「ワインをお注ぎしました。それでは、不肖わたしが、乾杯の音頭を。ファーストコンタクトに乾杯!」
「カマンベールチーズどうぞ」
店主や舞のそんな声も、漫画本に夢中のシリンには届かなかった。
『……ああ、この絵物語、面白いなあ。この酒、お菓子みたいに甘いなあ。このなんだかよくわからない食べ物、むちゃくちゃおいしいなあ。まるでうち、天国にいるみたいや……モールはん、あんなこというて、うちをほんまの天国へ連れてきたんとちゃうかなあ』
横ではモールとツイスト博士、それに学生たちが天国とは縁遠い話をしていた。
「……なるほどね。あなたがたのところでは、魔術のかわりに、その……電気を使った機械の文明が発達したのね。この明かりも、あの冷蔵庫とかいうものも、全部電気で動いてるのね。これはすごいね」
「その代償も大きいんです……自然破壊は行くところまで行きつつあるし、こないだなんか、津波で原子力発電所が……」
「それはある意味、こちらも同じね。私に、その『ゲンシリョク』というものがよくわからないのと同様、あなたがたも、私らが抱えている問題はよくわからないだろうからね」
「まったくですね、モールさん」
「それに、気づいたけどね、あなたがたの世界、政治哲学をはじめとする、合理的な哲学思想が、私たちの世界と比べて、深化とはいえないまでも、ものすごく多様化して発展しているね。さっき聞いていたけど、あなたたち、民主主義者ね?」
「えっ、そうですが。普通そうだよなあ?」
「井森、モールさんは別な世界から来たんだ。それを忘れるなよ」
モールは苦い笑みを漏らした。
「そういうことね。私たちの世界、あなたたちの用語では、王制とか、寡頭制にあたる国家が多いね。もし、私の世界に、あなたたちの民主主義を唱える者が来たら……それは過激な危険思想ね」
「昔の哲学者が喝破したように、たがが外れたら無政府状態になってしまいかねない危険をはらんだ思想ですからね。井森君たちも、エジプトのニュースを聞いているだろう?」
「その『エジプト』とかいう国でなにがあったかは知らないけれど、たぶんそれで合ってるね。話を聞いていると理にかなった素晴らしい政治のやりかたに思えるけど、使い方を覚えるまでが、きっとたいへんね。文字通りに、汗と血を滝のように流して、長い時間をかけて、身体に覚えさせないと、きっとひどいことになるね」
狐女はグラスを上げた。
「もう一杯欲しいね。こんな上質なお酒、めったに飲めないね。私たちの世界にも、おいしいお酒あるけれど、持ってこられないのが残念ね」
「ということは、やっぱり帰ってしまわれるのですか」
捻原は、残念そうにいった。
「それがお互い、もっともいいことだと思うね。世界がつながるのが、ちょっと早すぎたね。だって、この世界で私が暮らしたら、下手をしたら一大宗教団体の神として、世界に君臨してしまうかもしれないね。それは、あなたたちも同じね。特に、あなたたちには常識の思想を、わかりやすく相手に説明できる人間が……そう、店主さん、あなたみたいな人がうちの世界に来たら、とんでもないことになりかねないね」
「民主主義や共産主義、それに無政府主義の思想を持ち込んだら、『革命』が起こって大流血の事態になるかもしれないからなあ……それに、本格的なテイラー=フォード主義を持ち込んだら、工業生産量の爆発的な増大で貧富の格差が取り返しのつかないところまで行きかねない」
「そういうことね。私たちの世界がどんな形でこれからの歴史を刻むにしても、そのための手段は私たちが自分で見つけ出さないといけないね」
「これがファーストコンタクトの現実なんですか。とほほほほ、だなあ」
「そもそも、どんなきっかけで世界を遮る膜に穴が開いたかはよくわからないけれど、なにか、私も初めて感じる、強力な力が戦った跡があるから、そのせいかもしれないね」
「そんな、こんな平和なところで、戦いなんか起こっちゃいませんよ。なあ?」
はっはっは、と、モールを除く全員が笑った。
「笑うけど、世の中、わからないものね。さて、講釈を続けるけど、この世界の膜に穴が開き続けているのは、そちらの世界に、うちらの世界の物質が入り込んだからと考えて間違いなさそうね。シリンの持ち込んだ金貨ね」
「じゃあ、返すとなると、捻原さん、丸損?」
「いや、代わりに、釣り合いを取るため、そちらのなにかをうちの世界に持っていけばいいね。なにかないかね?」
「うーん」
そこにいた面々は、全七巻の「ゴン」の三巻目に取り組んでいるシリンに目を向けた。
「考えるまでもなさそうね」
こうして、二つの世界に開いた虫食い穴は塞がれ、それぞれの世界は大事になる前に安寧を取り戻した。
シリンが双月世界へ持っていった「ゴン」全七巻は、双月世界の画家、印刷工、その他の芸術家たちに衝撃を与え、大騒動を引き起こすことになるのだが、それにはしばらくの時を待たねばならない。それに、異世界の出版界の話など、読みたい人もいないだろう。
あれだけ虎娘が夢中になっていた漫画だから、きっと面白いに違いないと思い、ネット通販で絶版の「ゴン」を買おうとした井森青年が、第七巻についた三千四百円を超えるプレミアに頭を抱えたことは……これもまた、別に述べる価値もないと思われる。
(この項・終わり)
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~ Comment ~
ふーむ……。
丁度今、「火紅狐」の方で宗教や政治、思想問題に触れている真っ最中なので、この話はとても参考になります。
このお話の補遺も、いずれこちらで書いてみたいですね。
大分先になりそうですが……。
丁度今、「火紅狐」の方で宗教や政治、思想問題に触れている真っ最中なので、この話はとても参考になります。
このお話の補遺も、いずれこちらで書いてみたいですね。
大分先になりそうですが……。
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Re: 黄輪さん
ちなみに、「昔の哲学者」というのは、プラトンの対話編、「国家」を意味しています。
ご存知の通り、プラトンは、古代アテナイで民主制が衆愚制に移行してしまうのをその目でつぶさに見てきた人です。
それだけに、二千年以上過ぎてから、ポパーに「開かれた社会とその敵」でけちょんけちょんになるまで攻撃されてしまうわけでありますが。
わたしは民主主義は、使いこなすのはえらくたいへんな制度だけれど、それ以外に未来はない、と思っております……。
ところで「ゴン」面白いですよ♪ シリンだったら夢中になると思います♪