「ショートショート」
SF
「それ」
ぼくが、初めて「それ」を見たのは、幼稚園に上がる前だろうか。記憶はおぼろげにしか残っていない。
暑い日だった。太陽がぎらぎら輝いていた。だからたぶん夏の日だったんだろう。ぼくは、草っ原に座り込んでいる。暑い。ほんとうに暑い。しかし暑いのは、太陽のせいばかりではなかった。
ぼくの隣には、「なにか」がいた。それがなんなのか、ぼくにはわからなかった。ただ、その「なにか」からは、熱というか、なにか力を感じたのだ。
その「なにか」について、幼少時の記憶で残っているのは、それだけだ。断片的というもおろかな記憶。
次に、「それ」を見たのは、中学二年生のときだった。このときのことは、はっきりと覚えている。
十一月の末の夜のことだった。ぼくは川沿いの道を歩いていた。堤防の上に道ができており、寒い思いをして、そこを歩いていかなければ帰れない自分が少しばかりみじめだった。
背後に、なにかを感じて、ぼくは振り向いた。
そのとき見たものは……ぼくにはなにを見ているのかわからなかった。身の回りのものを比喩に使って形容することくらいできるだろう、と思うかもしれないが、ぼくにとってそれは、そう、比喩を使って表現すれば、漫画の登場人物が、「原稿の切り取られた部分」を見ているようなもの、といえばいいだろうか。なにかがあるのはわかる。わかるが、そこになにがあるのかを、漫画の登場人物が言葉にすることはできない、そのようなものなのだ。
ただ、そこになにかが、「いる」とも「いない」ともいえない宙ぶらりんの状態で……表現不可能なかたちで……ええい、「力」として現前しているのだけはわかった。
ぼくは、その「力」がなんなのか、確かめようとした。しかし、ひとつのことを除いて「わからない」ということが「わかる」だけだった。
ぼくは、くびすを返すと、逃げ出した。
「それ」が強い、かなり強い「力」を、理解不能な「力」を持っていることだけはわかったからだ。
もしかしたら、幼少時の記憶におぼろげに残る、「あれ」だったのかもしれない、と思い至ったのはそれからしばらくしてである。
次にぼくが「それ」に出くわしたのは、大学入学を間近に控えた、高校を卒業して間もない三月末のうららかな日だった。
そのとき、ぼくは受験勉強中に大っぴらに読めなかった漫画本のシリーズを古本屋で買い、手提げのビニール袋に詰めてもらって、家に帰る前にちょっとだけ読んでやろう、と公園のベンチに腰かけたところだった。
ページを開いて、二、三ページ読み、ふと地面に目を向けたとき、「それ」を認めた。
「それ」は、中学二年のときに見たよりも、強い「力」を持っているようだった。理解不能だったことは変わりないが、それだけに、中学二年のときよりも印象はより強かった。
ぼくは、しばらくの間、身じろぎもせずに「それ」と向かい合っていた。
どのくらい対峙していただろうか。
気がついたときには、「それ」は姿を消していた。ぼくは、額にびっしょり汗を書いている自分に気がついた。
法学部に進むほど処世術に長けておらず、理系の諸学部に進むほど頭がよくなかったぼくが、ドイツ語学科を卒業して、学業の合間にバイトしていた零細というも評価しすぎの旅行会社に、コネに頼ってとはいうものの観光ガイド兼ドイツ語通訳の正社員として就職できたのは、この就職難ではむしろ僥倖に近い、と、ぼくの親と指導教授と友人諸賢は評した。
ぼくも、その評価が正しいことはよく心得ていた。
本式に正社員になって研修を終え、三回目に海外から帰ってきた後、ぼくはちょっとした休暇をもらった。半年の間、日曜すらろくに休めなかったことを考えると、ありがたく貴重なものであった。
ぼくはリュックを背負い、両手持ちのでっかいピッケルをかついで、近所にある小さな山に向かった。家族や会社には、体力作りを兼ねた軽いキャンプだ、と説明しておいた。
山の中腹にいい場所を見つけたぼくは、小学校のころに参加していたボーイスカウトの訓練を思い出しつつ、ビバークできる寝場所を作った。
ぼくは、火を熾し、湯を沸かし、インスタントラーメンで温かい食事を取り、ひたすら待った。
予感がしたからだ。
夜もふけ、うとうととしたころ、ぼくはその「力」を感じた。
「それ」は、ぼくのすぐそばに来ていた。「力」は、高校生のときに感じたよりも、桁違いに強くなっていた。
「存在」といっていいのなら、それは「理解不能な存在」であることではまったく変わりなかった。
ぼくはピッケルをぎゅっと握ると……。
その「理解不能な力」に襲い掛かった。
「理解不能ななにか」を「殺せた」ことに確信がもてたのは、東のほうから曙光が漏れてきたころだった。
昔から、人間は、いや「生物」は、こうだったのだ。
理解不能な「力」に遭遇したら、そいつを殺し、喰らうのだ。
そして、新たな、その「生物」には理解不能な、しかし使用することはできる「力」を得て、より強くなっていく。
ダーウィン風にいえば、それは「進化」であり、聖書風にいえば、「神を打ち負かした」イスラエル、ということになる。日本の記紀神話でいえば、それは稲などの穀物をもたらしたなんとかいう神、ということになるだろう。
しかし、ドイツ語をやっていたぼくは、それよりもっとぴったりした呼び方を知っている。
ぼくは山を降りていくだろう。
ニーチェの説くツァラトストゥラのように。
ぼくは、自分でもわからない、「力」を得て、山を降りていくのだ。
超人としてか。それとも狂人としてか。
いや、ぼくは「子供」として、山を降りていくのだ。自分がなにをしているかもわからない、善悪の彼岸から戻ってきた「子供」として……。
陽が昇る。
暑い日だった。太陽がぎらぎら輝いていた。だからたぶん夏の日だったんだろう。ぼくは、草っ原に座り込んでいる。暑い。ほんとうに暑い。しかし暑いのは、太陽のせいばかりではなかった。
ぼくの隣には、「なにか」がいた。それがなんなのか、ぼくにはわからなかった。ただ、その「なにか」からは、熱というか、なにか力を感じたのだ。
その「なにか」について、幼少時の記憶で残っているのは、それだけだ。断片的というもおろかな記憶。
次に、「それ」を見たのは、中学二年生のときだった。このときのことは、はっきりと覚えている。
十一月の末の夜のことだった。ぼくは川沿いの道を歩いていた。堤防の上に道ができており、寒い思いをして、そこを歩いていかなければ帰れない自分が少しばかりみじめだった。
背後に、なにかを感じて、ぼくは振り向いた。
そのとき見たものは……ぼくにはなにを見ているのかわからなかった。身の回りのものを比喩に使って形容することくらいできるだろう、と思うかもしれないが、ぼくにとってそれは、そう、比喩を使って表現すれば、漫画の登場人物が、「原稿の切り取られた部分」を見ているようなもの、といえばいいだろうか。なにかがあるのはわかる。わかるが、そこになにがあるのかを、漫画の登場人物が言葉にすることはできない、そのようなものなのだ。
ただ、そこになにかが、「いる」とも「いない」ともいえない宙ぶらりんの状態で……表現不可能なかたちで……ええい、「力」として現前しているのだけはわかった。
ぼくは、その「力」がなんなのか、確かめようとした。しかし、ひとつのことを除いて「わからない」ということが「わかる」だけだった。
ぼくは、くびすを返すと、逃げ出した。
「それ」が強い、かなり強い「力」を、理解不能な「力」を持っていることだけはわかったからだ。
もしかしたら、幼少時の記憶におぼろげに残る、「あれ」だったのかもしれない、と思い至ったのはそれからしばらくしてである。
次にぼくが「それ」に出くわしたのは、大学入学を間近に控えた、高校を卒業して間もない三月末のうららかな日だった。
そのとき、ぼくは受験勉強中に大っぴらに読めなかった漫画本のシリーズを古本屋で買い、手提げのビニール袋に詰めてもらって、家に帰る前にちょっとだけ読んでやろう、と公園のベンチに腰かけたところだった。
ページを開いて、二、三ページ読み、ふと地面に目を向けたとき、「それ」を認めた。
「それ」は、中学二年のときに見たよりも、強い「力」を持っているようだった。理解不能だったことは変わりないが、それだけに、中学二年のときよりも印象はより強かった。
ぼくは、しばらくの間、身じろぎもせずに「それ」と向かい合っていた。
どのくらい対峙していただろうか。
気がついたときには、「それ」は姿を消していた。ぼくは、額にびっしょり汗を書いている自分に気がついた。
法学部に進むほど処世術に長けておらず、理系の諸学部に進むほど頭がよくなかったぼくが、ドイツ語学科を卒業して、学業の合間にバイトしていた零細というも評価しすぎの旅行会社に、コネに頼ってとはいうものの観光ガイド兼ドイツ語通訳の正社員として就職できたのは、この就職難ではむしろ僥倖に近い、と、ぼくの親と指導教授と友人諸賢は評した。
ぼくも、その評価が正しいことはよく心得ていた。
本式に正社員になって研修を終え、三回目に海外から帰ってきた後、ぼくはちょっとした休暇をもらった。半年の間、日曜すらろくに休めなかったことを考えると、ありがたく貴重なものであった。
ぼくはリュックを背負い、両手持ちのでっかいピッケルをかついで、近所にある小さな山に向かった。家族や会社には、体力作りを兼ねた軽いキャンプだ、と説明しておいた。
山の中腹にいい場所を見つけたぼくは、小学校のころに参加していたボーイスカウトの訓練を思い出しつつ、ビバークできる寝場所を作った。
ぼくは、火を熾し、湯を沸かし、インスタントラーメンで温かい食事を取り、ひたすら待った。
予感がしたからだ。
夜もふけ、うとうととしたころ、ぼくはその「力」を感じた。
「それ」は、ぼくのすぐそばに来ていた。「力」は、高校生のときに感じたよりも、桁違いに強くなっていた。
「存在」といっていいのなら、それは「理解不能な存在」であることではまったく変わりなかった。
ぼくはピッケルをぎゅっと握ると……。
その「理解不能な力」に襲い掛かった。
「理解不能ななにか」を「殺せた」ことに確信がもてたのは、東のほうから曙光が漏れてきたころだった。
昔から、人間は、いや「生物」は、こうだったのだ。
理解不能な「力」に遭遇したら、そいつを殺し、喰らうのだ。
そして、新たな、その「生物」には理解不能な、しかし使用することはできる「力」を得て、より強くなっていく。
ダーウィン風にいえば、それは「進化」であり、聖書風にいえば、「神を打ち負かした」イスラエル、ということになる。日本の記紀神話でいえば、それは稲などの穀物をもたらしたなんとかいう神、ということになるだろう。
しかし、ドイツ語をやっていたぼくは、それよりもっとぴったりした呼び方を知っている。
ぼくは山を降りていくだろう。
ニーチェの説くツァラトストゥラのように。
ぼくは、自分でもわからない、「力」を得て、山を降りていくのだ。
超人としてか。それとも狂人としてか。
いや、ぼくは「子供」として、山を降りていくのだ。自分がなにをしているかもわからない、善悪の彼岸から戻ってきた「子供」として……。
陽が昇る。
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~ Comment ~
きっと、「ニジンスキーの手」を読み終えてみないと、
この短編の言いたいことがちゃんと分からないのかもしれませんね。
よし、読んだ後、また来ます!
もしかしたら、私も信者になってるかもしれないし・・・汗。
明日あたり、届くかな?
この短編の言いたいことがちゃんと分からないのかもしれませんね。
よし、読んだ後、また来ます!
もしかしたら、私も信者になってるかもしれないし・・・汗。
明日あたり、届くかな?
覚え書き
この小説は、昨晩、赤江瀑先生の傑作短編、「ニジンスキーの手」を読み、その興奮さめやらぬなかで、熱に浮かされるようにして書いた。
全然関係ないじゃないかっ! といわれても、わたしの中では密接に連関しているからいいのだ。
カルト作家というが、ほんとうに、ツボにはまった読者を信者にするタイプの人だなあ、赤江瀑先生……。
全然関係ないじゃないかっ! といわれても、わたしの中では密接に連関しているからいいのだ。
カルト作家というが、ほんとうに、ツボにはまった読者を信者にするタイプの人だなあ、赤江瀑先生……。
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