趣喜堂茶事奇譚(うんちく小説シリーズ)

    趣喜堂茶事奇譚/熱い太陽、深海魚(その1)

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     ぼくはどきどきしながら、舞ちゃんが本棚の鍵を開けてくれるのを待った。

    「これですよ」

     ぼくは舞ちゃんが渡してくれた本を、押し戴くようにして持った。

     いちおう、手には手袋をはめてある。ページはめくりにくいけれど、何となくこの本に敬意を表したくなったからだ。

     ぼくは、一生拝めないに違いない、と、つい昨年までは思い込んでいた本の表紙を見た。

    『熱い太陽、深海魚』

     絶版のため蒐集家が多いサンリオSF文庫の中でも、特に珍しい、一種の稀覯本である。

     ついに読めるのだ……SFファンを長いことやっているが、今日ほど興奮したときはない。

     ぼくはページを開き、章番号すら打っていないこの小説を読み始めた。

     ミシェル・ジュリ。この人について知っている人はあまりいないだろう。聞いた話では、現実と夢、いや集合的無意識といったほうがいいか。その浸食と混合を描くことでは右に出る者がいない、フランスSFの実力派である。

     この、『熱い太陽、深海魚』は彼の一九七六年の作品だ。

     まあそんなことはどうでもいい。どうせぼくだってほとんど知らないのだから。

     ぼくはひたすら、憑かれたようにページをめくった。



    「舞ちゃんいる?」

     がらんがらんがらん、と鳴った扉の音で、ぼくははっと我に返った。

     我に返りたくなかった。

     ぼくは振り返った。

    「なんだ井森か」

    「なんだとはなんだ。あっ、舞ちゃん、おれココアね」

    「こぼさないでくれよ」

     ぼくの言葉には、棘があったらしい。

    「なんだよ急に。……ああ、ここでまたなにか変なほ……珍しい本を読ませてもらっているのか」

    「そういうことだ。今、アマゾンで買うと七千円する本を読んでいるんだ。だから邪魔しないでくれ」

    「邪魔をするつもりはないけれど……」

     厨房の奥で、横文字の書かれたココアの缶から取り出したココアバターに、砂糖と牛乳で立ち向かっている舞ちゃんの後ろ姿を嬉しそうに見ながら、井森はいった。

    「何を読んでるかくらい教えてくれたっていいだろ」

    「『熱い太陽、深海魚』」

    「なんだいそりゃ? 現代詩の本かなにかか?」

    「SF小説だ」

    「どんな筋なんだよ」

    「どんな筋って……ひとことでは説明しにくいんだが……」

     ぼくはこの、複雑怪奇で幻想的でドロドロしていて淫猥でそれでいてどこか魅力的なディストピアを頭の中で再構成しようとした。

    「えーと……明確な主人公はいないんだ。いるとすれば、作家のヤン・ナクと、精神衛生省の国務長官であるクロード・アトルだが……うーん」

    「登場人物はいいよ。どういう話なんだ」

    「それなんだが、えーと、舞台は二〇三九年だ。そのころ、世界はブレイン・コンタクトといわれる、まあ今でいうコンピュータネットワークとそれの生み出す仮想現実にどっぷり漬かっている。特権階級の人間たちは地図さえも機密事項になった世界で、仮想現実の生み出す一種の性的なゲームに夢中になっている。ヤン・ナクはそのゲームのシナリオライターみたいなものだ」

    「なんか現代日本のダメなパソコンオタクの生活みたいだな」

    「で、その世界では、ふたつの重度な精神病が流行しようとしている。身体中にまだら模様が浮かび上がる『熱い太陽』と、身体に鱗ができてくる『深海魚』だ。これがタイトルの意味なんだが……ぼくもまだ半分しか読んでいないので、これにどういう隠喩があるのかはよくわからん。まあそんな世界で、特権階級は特権階級で権力闘争を、下層階級は下層階級で革命を、人間とすら認めてもらえない、コンピュータネットワーク外の原始的な生活を営んでいるらしい人間は戦争を望んでいる、と」

    「やだなそんな生活。でも今のおれたちの世界みたいだな」

    「書かれたのが一九七六年だから、それを考えるとわかるようなわからんような、社会風刺の側面もあるんだろうな」

    「世界はそれでいいとして、どういうストーリーなんだ?」

    「それを簡単に説明しろというのは、はっきりいって無理だ。この本のストーリーは、要約しようがない。だからといってつまらないわけじゃない。この本を読んでいると、まさにそういう世界で生きているような気分になる。そういうタイプの小説だ。というか、要約しようにもわけがわからない」

    「そこをあえて要約してみろよ」

    「難しいことをいうなお前。そもそもぼくは途中までしか読んでいないといってるだろ」

     それでも、ぼくは考えた。

    「うーん……『夢オチ』以外のオチが考えられないような、悪夢のど真ん中にいるような小説だ」

     舞ちゃんが湯気の立つココアのトレーを持ってやってきた。

    「ココアできました」

     井森はぼくのことなど忘れたように、舞ちゃんとおしゃべりを始めた。

     ぼくはゆったりした気持ちで小説に戻った。

    (この項続く)



    ※ ※ ※ ※ ※



     実は、わたしも今まさにこの本を読みながら原稿を書いている。あまりの稀覯本なので、古本屋で手に入れることはおろか、ネット通販でさえ貧乏人にはおいそれと手が出せないのだ。

     そういうわけで、公立図書館のつながりを通し、ついに先週、相互貸借でこの茨城の図書館まで送ってもらったのだが、どこの本なのかを見てのけぞってしまった。

    『石川県立図書館』!

     もうわたしは石川県には足を向けて寝られない。すみません石川県立図書館さん、茨城のビンボーなオタクの願いを聞いてくださって。ありがとうございます。
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    ~ Comment ~

    Re: しのぶもじずりさん

    あったあった(笑)

    あのままマニア向けのニッチな作品で攻めていたら、と思わないでもないですが、大手出版社がなにもしなくても自然に潰れたと思います。

    合掌。
    • #8098 ポール・ブリッツ 
    • URL 
    • 2012.05/23 05:42 
    •  ▲EntryTop 

    サンリオが撤退した時、大手出版社の陰謀説が流れましたっけね。

    コアなファンが付いてました。
    合掌。

    Re: limeさん

    フィリップ・K・ディックからサイバーパンクへ至る過渡期のような作品です。それをちょっと悪趣味かつえっちにした感じ。

    サンリオSF文庫がある、ではなくて、あった、です。なにせ撤退しちまって本が全部絶版なので。

    わたしも図書館や古本で読んだだけですが、面白い本はむちゃくちゃ先鋭的でおもしろいけれど、つまらない本はひたすらにつまらないという性格の文庫でした。というか、ロン・ハバードの「バトルフィールド・アース」を全巻翻訳出版するなんて、勝負を投げたとしか思えません(^^;) 作者紹介文までやけくそ感が漂っていたもんなあ。とてもピンチョンの「競売ナンバー49の叫び」を出したレーベルとは思えん。

    Re: 綾瀬さん

    なんたって訳者が詩人の松浦寿輝で解説が鈴木晶という、これだけでもハンパな現代詩好きの仏文科の学生ならひれ伏してしまうところであるうえに、ほとんど売れなかったためかなりの部数が断裁。その結果、文庫のくせにアマゾンで7000円。一時期は万の単位の値段がついてました。

    こんなに面白いのになぜ……というやつですが、サンリオSF文庫自体が文庫で売るにはちとマーケティング的に見通しが甘かったんでしょうねえ。

    ちなみに、わたしがSFの面白さに目覚めたときにはすでに絶版だったらしいという……。(^^;)

    サンリオSF文庫っていうのがあるんですね。
    と、そんなところにまず目が行ってしまいました。

    大変なご苦労の末、手元に引き寄せた本なんですね。
    そんなに高値がついているなんて、どんな本・・・?
    ポールさんの解説を、イマジネーションを膨らませて読みたいと思います。
    夢オチでないことを祈ります。

    読みたい!
    電子書籍化プリーズ! あっと、フランス人作家でしたね?
    電子書籍化シルブプレ!

    Re: ルルさん

    面白いけれどかなりの難物ですよ(^^;)

    読むには覚悟が必要です(^^;)

    近い!
    借りてみたい!
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