趣喜堂茶事奇譚(うんちく小説シリーズ)
趣喜堂茶事奇譚/赤江瀑耽溺週間(その3)
「どうぞ」
ぼくの前にどん、と置かれたのは、厚い文庫本だった。五百五十ページはあるだろう。
印象的なカバーイラストの上に、タイトルだろう「花夜叉殺し」と書いてある。
「『赤江瀑短編傑作選 幻想編』……光文社、こんな本も出してたんですね。読んでいいですか?」
「そのためにお出ししたのですよ」
ぼくはマグカップから濃厚な味のカフェオレをひと口飲んだ。
おもむろにページを繰る。まずは目次の確認だ。
「花夜叉殺し 獣林寺妖変 罪喰い 千夜恋草 刀花の鏡 恋牛賦 光悦殺し 八月の蟹 万葉の甕 正倉院の矢……か。獣林寺妖変以外は読んでないな」
「当たり前ですよ。お客さん、まだ二冊しか赤江作品の本を読んでいないんでしょう?」
舞ちゃんは笑った。
「それもそうか。よし、これからゆっくり読むぞ。隅の席に行っていたほうがいいですか、ツイスト博士?」
「まあ、客が来る店でもないですし、そうお考えにならなくてもいいですが、それで落ち着くならどうぞ。今が朝十時ですから……さすがの学生さんでもお昼までには読み切れないでしょう。なにか、昼食をご用意いたしましょうか?」
「頼みます。おにぎりがいい。あっ、それと、大事なことですが」
「なんでしょうか?」
「博士は握らないでください」
ぼくは巻頭の「花夜叉殺し」を読み始めた。
『一花は血刀をさげて歩いていた。』
出だしの一行目から、つかみは万全だった。
当然、ぼくも身体ごと言葉の魔術にぐいっとつかまれ、作品の異様な幻想世界の中に引きずり込まれていた。
時間なんて頭から吹き飛んでいた。
篠田節子の巻末エッセイを読み、作品解題を読み終えてふっと一息つくと、時計は二時半を回ったところだった。
ぼくの横には、空になったマグカップと、ちょっとした大きさの空っぽの皿があった。
「舞ちゃん」
「なんですか?」
「皿が大きすぎるんじゃないのかい? この皿なら、おにぎりが五個は入るんじゃないかな」
「六個です。全部、ひょいぱくひょいぱくと……」
「ぼくが?」
「はい」
「てことは三合くらい食っちまったのか! うわあ」
「ちゃんとつけときましたから大丈夫ですよ。それよりも、作品のご感想を」
横でチェスの駒を磨いていたツイスト博士がにこにこしていった。
「まず、『花夜叉殺し』。これはすごいですね。ミステリ的な趣向は、ちょっと読み慣れていたものにとってはすぐにわかることですが、この小説がいいのは、むしろその『謎が解けた後』のところから本格的なクライマックスが始まることです」
「小説としての本体はそこにあると?」
「……ええ。次の、この間『ニジンスキーの手』で読んだ『獣林寺妖変』とも関連してきますが、表層的な『トリック』については意外と大技を使ってくるんですよねこの作者は。そしていつも、常に、その『トリック』は人間の愛憎のドラマを隠すためのミスディレクション……じゃないな。引き立て役というか、『演出』というか……」
「いいたいことはわかるような気がします」
「そうした大技が決まりに決まっているのが、この本の中ではさっきの二つのほかには『罪喰い』『千夜恋草』『恋牛賦』でしょうね。ほかの作品でもそれなりに重要な役割を占めていますけれど、この三つに比べれば、添え物みたいなものです」
「添え物ですか」
「……一見したところでは」
「一見?」
ツイスト博士は、面白がるようにぼくを見た。
「この赤江瀑作品は、思ったよりも重層的な構造をしているんじゃないかと、ぼくは思うんです。その前に……」
「その前に?」
「次の本を読ませてください。これ三冊のうちの一冊なんでしょ?」
ツイスト博士は苦笑いし、書庫からもう一冊の本を取り出してきた。
「禽獣の門 赤江瀑短編傑作選 情念編」とそれは読めた。
表紙絵は、読んだ人間にはすぐにそれとわかる「禽獣の門」のイメージイラストだった。
寺門孝之か。それにしても幻想的で猥雑な絵を描く人だ。でもこの作家の作品としてはどうだろうか、とぼくは思わずにはいられなかった。
(この項つづく)
ぼくの前にどん、と置かれたのは、厚い文庫本だった。五百五十ページはあるだろう。
印象的なカバーイラストの上に、タイトルだろう「花夜叉殺し」と書いてある。
「『赤江瀑短編傑作選 幻想編』……光文社、こんな本も出してたんですね。読んでいいですか?」
「そのためにお出ししたのですよ」
ぼくはマグカップから濃厚な味のカフェオレをひと口飲んだ。
おもむろにページを繰る。まずは目次の確認だ。
「花夜叉殺し 獣林寺妖変 罪喰い 千夜恋草 刀花の鏡 恋牛賦 光悦殺し 八月の蟹 万葉の甕 正倉院の矢……か。獣林寺妖変以外は読んでないな」
「当たり前ですよ。お客さん、まだ二冊しか赤江作品の本を読んでいないんでしょう?」
舞ちゃんは笑った。
「それもそうか。よし、これからゆっくり読むぞ。隅の席に行っていたほうがいいですか、ツイスト博士?」
「まあ、客が来る店でもないですし、そうお考えにならなくてもいいですが、それで落ち着くならどうぞ。今が朝十時ですから……さすがの学生さんでもお昼までには読み切れないでしょう。なにか、昼食をご用意いたしましょうか?」
「頼みます。おにぎりがいい。あっ、それと、大事なことですが」
「なんでしょうか?」
「博士は握らないでください」
ぼくは巻頭の「花夜叉殺し」を読み始めた。
『一花は血刀をさげて歩いていた。』
出だしの一行目から、つかみは万全だった。
当然、ぼくも身体ごと言葉の魔術にぐいっとつかまれ、作品の異様な幻想世界の中に引きずり込まれていた。
時間なんて頭から吹き飛んでいた。
篠田節子の巻末エッセイを読み、作品解題を読み終えてふっと一息つくと、時計は二時半を回ったところだった。
ぼくの横には、空になったマグカップと、ちょっとした大きさの空っぽの皿があった。
「舞ちゃん」
「なんですか?」
「皿が大きすぎるんじゃないのかい? この皿なら、おにぎりが五個は入るんじゃないかな」
「六個です。全部、ひょいぱくひょいぱくと……」
「ぼくが?」
「はい」
「てことは三合くらい食っちまったのか! うわあ」
「ちゃんとつけときましたから大丈夫ですよ。それよりも、作品のご感想を」
横でチェスの駒を磨いていたツイスト博士がにこにこしていった。
「まず、『花夜叉殺し』。これはすごいですね。ミステリ的な趣向は、ちょっと読み慣れていたものにとってはすぐにわかることですが、この小説がいいのは、むしろその『謎が解けた後』のところから本格的なクライマックスが始まることです」
「小説としての本体はそこにあると?」
「……ええ。次の、この間『ニジンスキーの手』で読んだ『獣林寺妖変』とも関連してきますが、表層的な『トリック』については意外と大技を使ってくるんですよねこの作者は。そしていつも、常に、その『トリック』は人間の愛憎のドラマを隠すためのミスディレクション……じゃないな。引き立て役というか、『演出』というか……」
「いいたいことはわかるような気がします」
「そうした大技が決まりに決まっているのが、この本の中ではさっきの二つのほかには『罪喰い』『千夜恋草』『恋牛賦』でしょうね。ほかの作品でもそれなりに重要な役割を占めていますけれど、この三つに比べれば、添え物みたいなものです」
「添え物ですか」
「……一見したところでは」
「一見?」
ツイスト博士は、面白がるようにぼくを見た。
「この赤江瀑作品は、思ったよりも重層的な構造をしているんじゃないかと、ぼくは思うんです。その前に……」
「その前に?」
「次の本を読ませてください。これ三冊のうちの一冊なんでしょ?」
ツイスト博士は苦笑いし、書庫からもう一冊の本を取り出してきた。
「禽獣の門 赤江瀑短編傑作選 情念編」とそれは読めた。
表紙絵は、読んだ人間にはすぐにそれとわかる「禽獣の門」のイメージイラストだった。
寺門孝之か。それにしても幻想的で猥雑な絵を描く人だ。でもこの作家の作品としてはどうだろうか、とぼくは思わずにはいられなかった。
(この項つづく)
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Re: limeさん
わたしには、この巻ではその三つがいちばんおもしろかったであります。明かされる真相のすさまじさ、というミステリ的な、人間ドラマ的な面においては。
ミステリファンなもので(^^;)
limeさんのご趣味においては、「刀花の鏡」のほうがぴたっとくるかもしれません。
とにかく、この三巻本は読んで損はしないお得な本であります。さあアマゾンなり図書館なりへGOだ!(^^)
ちなみに本屋に注文したらまだ売っている……ような気がするのですが……どうだろ。
ミステリファンなもので(^^;)
limeさんのご趣味においては、「刀花の鏡」のほうがぴたっとくるかもしれません。
とにかく、この三巻本は読んで損はしないお得な本であります。さあアマゾンなり図書館なりへGOだ!(^^)
ちなみに本屋に注文したらまだ売っている……ような気がするのですが……どうだろ。
あの、ピンクな表紙の絵ですね?
私は、ちょっと狙いすぎかなあ・・・と感じますが。
「ニジンスキーの手」くらいの感じの表紙絵の方が、好きです。
あれ? 良く見るとあの表紙の鳥は丹頂鶴じゃなくて、カンムリ鶴です・・・。
添え物のようで、そうでない・・・というのが、気になります。
『罪喰い』『千夜恋草』『恋牛賦』は、やはり瀑先生初心者の私には、グッときますか??
『禽獣の門』・・・これも凄まじく印象的な作品でした。
思い返すだけでゾクゾク・・・^^
あの北長門のT島。何度も行きました。
今はもう、めちゃくちゃカッコイイ、車のCMにも使われるほど近代的な橋がかかってて、残念なんですが。
ああ、思い出すだけでゾクゾク。
いい作品でした。
私は、ちょっと狙いすぎかなあ・・・と感じますが。
「ニジンスキーの手」くらいの感じの表紙絵の方が、好きです。
あれ? 良く見るとあの表紙の鳥は丹頂鶴じゃなくて、カンムリ鶴です・・・。
添え物のようで、そうでない・・・というのが、気になります。
『罪喰い』『千夜恋草』『恋牛賦』は、やはり瀑先生初心者の私には、グッときますか??
『禽獣の門』・・・これも凄まじく印象的な作品でした。
思い返すだけでゾクゾク・・・^^
あの北長門のT島。何度も行きました。
今はもう、めちゃくちゃカッコイイ、車のCMにも使われるほど近代的な橋がかかってて、残念なんですが。
ああ、思い出すだけでゾクゾク。
いい作品でした。
Re: るるさん
それだけ本が面白かったということですな。
わたしは本に夢中になって、気がついたらポテトチップスの袋が空になっていたことがあります。
わたしは本に夢中になって、気がついたらポテトチップスの袋が空になっていたことがあります。
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Re: limeさん
高校生のころ古本屋で角川書店版「ドグラ・マグラ」を買ったとき並みに恥ずかしかった(笑)