「ショートショート」
その他
修行僧
「かような山寺へようこそいらっしゃられた」
その僧侶はそういってわたしに白湯を勧めた。この暑いのに白湯か、と思ったが、飲んでみると絶妙な温度で、疲れて水分を求める身体にじんわりと染み込んでくるのがわかった。
「おいしいお湯ですね」
「それを入れるのも修行のひとつです。過剰な快楽とも過剰な苦痛とも縁のない、いや、仏道にあるものとして縁がないというのはなんでしたな、快楽からも苦痛からも自由になった世界に足を踏み入れると、自然と白湯ひとつ入れるのにもそれなりの境地が見えてくるのです」
「アタラクシアというやつですか」
わたしの間の抜けた応答に、僧侶は微笑んだ。
「ギリシアの哲人については話を聞くだけですが、さような境地に達したいものですな。しかし、いずれにしろ、そこに至るまでの修行は並大抵のものではないですぞ」
わたしが白湯を飲み終わるのを待ち、僧侶は立ち上がった。
「ついていらっしゃい」
僧侶の後について寺の奥に進んでいくと、僧房のひとつの前で立ち止まらされた。
扉を開けたわたしは、はっと息を呑んだ。
そこでは、ひとりの年若い修行僧が、僧衣を着て結跏趺坐の状態でいるのだった。
わたしに息を呑ませたのは、その顔だった。まさに無念無想。どこか透明感のある表情は、国宝の弥勒菩薩像をほうふつとさせた。
「修行は厳しいものです。快楽と苦痛、その双方から自由にならねばなりませんからな」
「……ははあ。すると、このかたは、かなりの修行をお積みになられたのですね」
「なに」
僧侶は苦笑した。
「まだまだ修行が必要な若造ですよ」
「でも、なににも動じないような顔をしていますよ」
「そうですかな。お客人、ちょっとこれを、やつの服に入れてやってください」
「なんですかこれ?」
それは、釣りに使う、なんの変哲もない毛針だった。針の部分は取り除いてあるようだ。
「こんなものをどうするんですか?」
「いいから服に入れてやってください」
わたしはその瞑想中の修行僧に軽く頭を下げ、その毛針を僧服の袖から入れた。
そのとたん。
「かゆいーっかゆいかゆいかゆいーっかゆいーっ」
修行僧は猛然と、七転八倒して身体をかきむしり始めた。
呆然とした顔のわたしの前で、僧侶はその修行僧を叱り飛ばした。
「この馬鹿もの。早く寺を出て病院へ向かえ。病を治してからまた来い」
「あの……なにがどうなっているんですか?」
「この男はひどいじんましんの持病があるのですよ。それを自分でひっかかないようにするため、こうしてずっと座禅を組んでいるのです。どこでこの寺の教義を間違えたのか。仏道にとって乗り越えるべき苦痛と快楽は、そのようなものではないのに。まあ……修行をするものにとって、修行のひとつひとつが、この男のような苦痛と邪な快楽との境を縫うようなものであることも確かですがな」
わたしは身体をかきむしりながら恍惚の笑みを浮かべるその修行僧を、案内してくれた僧侶を、この寺全体を、なにか、不気味なものを見るような目で眺めることしかできなかった。
その僧侶はそういってわたしに白湯を勧めた。この暑いのに白湯か、と思ったが、飲んでみると絶妙な温度で、疲れて水分を求める身体にじんわりと染み込んでくるのがわかった。
「おいしいお湯ですね」
「それを入れるのも修行のひとつです。過剰な快楽とも過剰な苦痛とも縁のない、いや、仏道にあるものとして縁がないというのはなんでしたな、快楽からも苦痛からも自由になった世界に足を踏み入れると、自然と白湯ひとつ入れるのにもそれなりの境地が見えてくるのです」
「アタラクシアというやつですか」
わたしの間の抜けた応答に、僧侶は微笑んだ。
「ギリシアの哲人については話を聞くだけですが、さような境地に達したいものですな。しかし、いずれにしろ、そこに至るまでの修行は並大抵のものではないですぞ」
わたしが白湯を飲み終わるのを待ち、僧侶は立ち上がった。
「ついていらっしゃい」
僧侶の後について寺の奥に進んでいくと、僧房のひとつの前で立ち止まらされた。
扉を開けたわたしは、はっと息を呑んだ。
そこでは、ひとりの年若い修行僧が、僧衣を着て結跏趺坐の状態でいるのだった。
わたしに息を呑ませたのは、その顔だった。まさに無念無想。どこか透明感のある表情は、国宝の弥勒菩薩像をほうふつとさせた。
「修行は厳しいものです。快楽と苦痛、その双方から自由にならねばなりませんからな」
「……ははあ。すると、このかたは、かなりの修行をお積みになられたのですね」
「なに」
僧侶は苦笑した。
「まだまだ修行が必要な若造ですよ」
「でも、なににも動じないような顔をしていますよ」
「そうですかな。お客人、ちょっとこれを、やつの服に入れてやってください」
「なんですかこれ?」
それは、釣りに使う、なんの変哲もない毛針だった。針の部分は取り除いてあるようだ。
「こんなものをどうするんですか?」
「いいから服に入れてやってください」
わたしはその瞑想中の修行僧に軽く頭を下げ、その毛針を僧服の袖から入れた。
そのとたん。
「かゆいーっかゆいかゆいかゆいーっかゆいーっ」
修行僧は猛然と、七転八倒して身体をかきむしり始めた。
呆然とした顔のわたしの前で、僧侶はその修行僧を叱り飛ばした。
「この馬鹿もの。早く寺を出て病院へ向かえ。病を治してからまた来い」
「あの……なにがどうなっているんですか?」
「この男はひどいじんましんの持病があるのですよ。それを自分でひっかかないようにするため、こうしてずっと座禅を組んでいるのです。どこでこの寺の教義を間違えたのか。仏道にとって乗り越えるべき苦痛と快楽は、そのようなものではないのに。まあ……修行をするものにとって、修行のひとつひとつが、この男のような苦痛と邪な快楽との境を縫うようなものであることも確かですがな」
わたしは身体をかきむしりながら恍惚の笑みを浮かべるその修行僧を、案内してくれた僧侶を、この寺全体を、なにか、不気味なものを見るような目で眺めることしかできなかった。
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~ Comment ~
これはっ・・・。
小品ながら「ポール・ブリッツ傑作選」に入れても良い名作だと思います!
すげえ。書いた経緯がどうあれww
僕は快楽の方がいいな。この世の快楽は全部体験してやろう、ぐらいに思ってます。
そんなに快楽を追い求めるのは、やっぱり現実が苦痛ばかりのせいなのか・・・orz
小品ながら「ポール・ブリッツ傑作選」に入れても良い名作だと思います!
すげえ。書いた経緯がどうあれww
僕は快楽の方がいいな。この世の快楽は全部体験してやろう、ぐらいに思ってます。
そんなに快楽を追い求めるのは、やっぱり現実が苦痛ばかりのせいなのか・・・orz
Re: ミズマ。さん
医者には行きました。抗アレルギーの錠剤を出してくれました。
ぜんぜん効きません(^^;)
今日は皮膚科が休みなので、明日また行って、今度こそ塗り薬か注射で楽にしてもらいたいものです。かゆい。
ぜんぜん効きません(^^;)
今日は皮膚科が休みなので、明日また行って、今度こそ塗り薬か注射で楽にしてもらいたいものです。かゆい。
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Re: 矢端想さん
どちらかといえば、このネタのもとになったのはプラトンの議論でありまして。
腫れているところをかきむしるのも一種の快楽かと。これ以上語ると話がとんでもない方向に行ってしまうのでやめますが(^^;)