その他いろいろ
無批評無成熟の時代
とぅぎゃったー http://togetter.com/li/305444 を読む。
読んで暗澹とした気持ちになる。
わたしは遅く生まれすぎてしまったのだ。
少なくとも、「ラノベ」という存在が、「小説のスタイル」でもなければ「商品としてのレッテル」でもなく、もちろん「運動」とはほど遠く、ひとつの「パラダイムシフト」であることに気づかされるくらいには遅く生まれすぎてしまったのだ。
大多数のライトノベルの作者も、読者も、「批評」を望んではいない。少なくとも、既存の文学論の範疇で語られることを望んではいない。それは、新しいムーブメントの最前線にいるものにとっては別に悪いことでも異常なことでもない。
しかし、「どんな形式であれ評論されることを拒む」というこの空気は、他の小説のジャンルに比べて異常なほどに濃いといえる。そこには、自分の耽溺するものに対する絶対的なまでの依存がある。依存するものが評論され固定されることは、その作家なり読者なりに対し、「おのれの社会的位置、おのれの存在理由」そのものを固定化されることを意味する。これは批判的な評に対して顕著である。わずかながらもおのれの創作物に対して否定的な態度を示されると、その場でその作家なり読者なりの存在そのものが否定されたように思い、強烈なまでの敵愾心を抱くようになるのである。
パラダイムシフトと呼ばざるを得ないのは次の点である。
肯定的であれ批判的であれ、「批評」活動それ自体になんらの価値も認めず、単純に自分にとって「好感情が持てるか」「持てないか」という「快=不快」反応だけですべてを片付けてしまうという風潮が、作家個人にとどまらず、読者の大部分をも覆っているという事実である。
すべての批評は「笑いのネタ」にされることで意味を無化され、「快=不快」反応の中に取り込まれてしまう。そのような行為者にとり、評論はなんの意味があるのか。
文芸批評はなんであれ、その作品が、批評者の文学史観の中でいかなる位置を占めるかの発露にほかならない。複数の文学史観の間で交わされるそのコミュニケーションが、双方の文学史観に影響を与え、そして文学自体をより成熟させていくのではなかったか。
それを、ラノベ自体を取り巻く読者や作家自体が拒否するとなれば、それは「成熟」することに対する拒否である。
山本弘が一時キャッチフレーズとして使用していた、「心はいつも十五歳」という台詞を曲解もしくは夜郎自大的に解釈し、「永遠に十五歳でもいいのだ」と錯覚したかのような空気が、アニメ、ラノベを問わず蔓延しているかのごときこの現状は、ひとつの「無成熟」状態といってもいいだろう。すなわちデリダ的にいえば、「成熟している、成熟していないということにかかわらず、成熟という概念自体が無化されてしまった」のだ。
すべての批評を「笑いのネタ」にするということは、作家や読者の精神の安定にはたしかにプラスであろう。だがそれは、一種の麻薬ではないのか。ひとつの文学理論にしがみつく態度が、マルクスのいう「阿片としての宗教」だとすれば、すべての批評を笑うというこの行為は、ハイデガー的な「死の存在可能性から目をそらす」ことではないのか。
ある意味において、この「ラノベ」こそがすべての日本文学を飲み込み、咀嚼する「黙示録の獣」であるといえるかもしれない。だが、その獣が残すのはなんなのか。「神の国」なのか、まったくの無なのか。それともそこから何かの芽が生えていくのか。
その前に戦争を含む何らかの外的要因がこのような議論のすべてを破壊してしまうのかもしれないが。
読んで暗澹とした気持ちになる。
わたしは遅く生まれすぎてしまったのだ。
少なくとも、「ラノベ」という存在が、「小説のスタイル」でもなければ「商品としてのレッテル」でもなく、もちろん「運動」とはほど遠く、ひとつの「パラダイムシフト」であることに気づかされるくらいには遅く生まれすぎてしまったのだ。
大多数のライトノベルの作者も、読者も、「批評」を望んではいない。少なくとも、既存の文学論の範疇で語られることを望んではいない。それは、新しいムーブメントの最前線にいるものにとっては別に悪いことでも異常なことでもない。
しかし、「どんな形式であれ評論されることを拒む」というこの空気は、他の小説のジャンルに比べて異常なほどに濃いといえる。そこには、自分の耽溺するものに対する絶対的なまでの依存がある。依存するものが評論され固定されることは、その作家なり読者なりに対し、「おのれの社会的位置、おのれの存在理由」そのものを固定化されることを意味する。これは批判的な評に対して顕著である。わずかながらもおのれの創作物に対して否定的な態度を示されると、その場でその作家なり読者なりの存在そのものが否定されたように思い、強烈なまでの敵愾心を抱くようになるのである。
パラダイムシフトと呼ばざるを得ないのは次の点である。
肯定的であれ批判的であれ、「批評」活動それ自体になんらの価値も認めず、単純に自分にとって「好感情が持てるか」「持てないか」という「快=不快」反応だけですべてを片付けてしまうという風潮が、作家個人にとどまらず、読者の大部分をも覆っているという事実である。
すべての批評は「笑いのネタ」にされることで意味を無化され、「快=不快」反応の中に取り込まれてしまう。そのような行為者にとり、評論はなんの意味があるのか。
文芸批評はなんであれ、その作品が、批評者の文学史観の中でいかなる位置を占めるかの発露にほかならない。複数の文学史観の間で交わされるそのコミュニケーションが、双方の文学史観に影響を与え、そして文学自体をより成熟させていくのではなかったか。
それを、ラノベ自体を取り巻く読者や作家自体が拒否するとなれば、それは「成熟」することに対する拒否である。
山本弘が一時キャッチフレーズとして使用していた、「心はいつも十五歳」という台詞を曲解もしくは夜郎自大的に解釈し、「永遠に十五歳でもいいのだ」と錯覚したかのような空気が、アニメ、ラノベを問わず蔓延しているかのごときこの現状は、ひとつの「無成熟」状態といってもいいだろう。すなわちデリダ的にいえば、「成熟している、成熟していないということにかかわらず、成熟という概念自体が無化されてしまった」のだ。
すべての批評を「笑いのネタ」にするということは、作家や読者の精神の安定にはたしかにプラスであろう。だがそれは、一種の麻薬ではないのか。ひとつの文学理論にしがみつく態度が、マルクスのいう「阿片としての宗教」だとすれば、すべての批評を笑うというこの行為は、ハイデガー的な「死の存在可能性から目をそらす」ことではないのか。
ある意味において、この「ラノベ」こそがすべての日本文学を飲み込み、咀嚼する「黙示録の獣」であるといえるかもしれない。だが、その獣が残すのはなんなのか。「神の国」なのか、まったくの無なのか。それともそこから何かの芽が生えていくのか。
その前に戦争を含む何らかの外的要因がこのような議論のすべてを破壊してしまうのかもしれないが。
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~ Comment ~
そっか、自分たちの中で線を引いてるのですね。
自分たちの世界だから、ほっといて、という感じなのかな?
中高生を主人公にしても、「さあ、どからでもかかってきなさい。批評でも批判でも、受け入れますよ!」と、言えるものだったら、ラノベとは言われないのかな??
(ちょっと、中高生を主人公にしてみたいとか思った私が、模索してみる)
いや、すでに私の作品って、ラノベに近いのだろうかと、ちょっと思ってたので。ドキドキ。
プロの批評家に批評されるのなら、たとえ酷評でも、聞いてみたいと思います。批評してもらえるレベルまで、行ってみたいなあと、思いますね。
あ、私のコメ欄に、ポールさんあてのメッセージが来ていますよ~。
自分たちの世界だから、ほっといて、という感じなのかな?
中高生を主人公にしても、「さあ、どからでもかかってきなさい。批評でも批判でも、受け入れますよ!」と、言えるものだったら、ラノベとは言われないのかな??
(ちょっと、中高生を主人公にしてみたいとか思った私が、模索してみる)
いや、すでに私の作品って、ラノベに近いのだろうかと、ちょっと思ってたので。ドキドキ。
プロの批評家に批評されるのなら、たとえ酷評でも、聞いてみたいと思います。批評してもらえるレベルまで、行ってみたいなあと、思いますね。
あ、私のコメ欄に、ポールさんあてのメッセージが来ていますよ~。
Re: limeさん
小説ですから同じ文壇の中にいることは確実なのです。
それでいて、「文学的にこれこれこういうものだ」と定義されてしまうのがイヤみたいで。
わたしにはそれは未成熟の証にしか思えないのですが……。
それでいて、「文学的にこれこれこういうものだ」と定義されてしまうのがイヤみたいで。
わたしにはそれは未成熟の証にしか思えないのですが……。
ラノベというのは、そこまで他のジャンルとかけ離れて存在してるんですか・・・と、まずはそこからびっくりしてしまいました。
中高生を中心に描くと、ラノベだと言われるわけでは・・・ないのですよね?
う~ん。
(時をかける少女、とか、昔のジュブナイルは、ちゃんと批評に晒されても生きて来ましたよね)
まず、そこら辺から勉強しなければ・・・。
(的外れなコメでごめんなさい)
中高生を中心に描くと、ラノベだと言われるわけでは・・・ないのですよね?
う~ん。
(時をかける少女、とか、昔のジュブナイルは、ちゃんと批評に晒されても生きて来ましたよね)
まず、そこら辺から勉強しなければ・・・。
(的外れなコメでごめんなさい)
Re: 綾瀬さん
それよりも、「肯定的」「否定的」を問わず、「批評」という行為自体をのらりくらりかわすというウナギみたいな態度が見え隠れするのがわたしを苛立たせるのであります。
たまにはわたしだって頭を使いたい(笑)。
たまにはわたしだって頭を使いたい(笑)。
「批評」と「批判」が混同されている状況があるような気がします。両者は別物なのですが。「批判」もまた、「非難」や「否定」と混同されているのではないでしょうか。
考えさせられました。たまにはこういう記事もいいですね。
考えさせられました。たまにはこういう記事もいいですね。
- #8058 綾瀬
- URL
- 2012.05/19 17:09
- ▲EntryTop
Re: 矢端想さん
たいていの場合、投げた石は自分に跳ね返ってきますからねえ。
まあそれを覚悟で石は投げるものですけどうむむむ(^^:)
まあそれを覚悟で石は投げるものですけどうむむむ(^^:)
よろしいですやん、それでも。社会的にマズイことは書いてないし。
投じた一石に共感する人は必ず居るし、みんながそれについて意識し考えるきっかけにもなる。
こういうのが個人ブログの値打ちです。
投じた一石に共感する人は必ず居るし、みんながそれについて意識し考えるきっかけにもなる。
こういうのが個人ブログの値打ちです。
美術の世界ではどんな前衛的な運動でも批評されないことはなかった。そしてそれを経て美術史の中に位置づけられてゆくんですけどね。
そういえば、街角の怪しいギャラリーで売られているような絵画(イルカが跳ねてるやつとかバブル期にポスターがやたら高騰したやつとか)に対する評論って聞いたことがないな。きっとあれらは美術と看做されてないからです。
ということは、ラノベに関わる人々はそれを文学と看做したくないということかな。安もんの大衆娯楽ではあっても文学史に登場することなく消費されてゆくジャンルなのでしょうか。
ポール先生はぜひ、文学やってください。
そういえば、街角の怪しいギャラリーで売られているような絵画(イルカが跳ねてるやつとかバブル期にポスターがやたら高騰したやつとか)に対する評論って聞いたことがないな。きっとあれらは美術と看做されてないからです。
ということは、ラノベに関わる人々はそれを文学と看做したくないということかな。安もんの大衆娯楽ではあっても文学史に登場することなく消費されてゆくジャンルなのでしょうか。
ポール先生はぜひ、文学やってください。
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Re: limeさん
「小難しい理論を振り回す大人なんかにこの世界がわかってたまるか」
というあれですね。
ガンダムというかなんというか。
普通は「文学史的に位置を固定されて」しまうのですが、そうはいかない異質さがラノベにはあると思います。
それはそうと、エリア88は面白いマンガだからぜひ読みませう(^^)