闇は千の目をもつ 8-3

「そのことだけど、桐野先生。あの人、なにをしたの？」
　問われることは覚悟していた。わたしは、静かに答えた。
「死にました」
「……死んだ？」
「ええ。わたしが飲んでいたバーで、ふらふらになって現れて、そしてそのまま、行き倒れです」
「そう……」
　島田春江は、コーヒーカップを手に取った。しかしあいにく、そのカップの中身は空だった。
「妹さんは、道徳氏を嫌いぬいていたようでしたけど」
　島田春江は、複雑な笑みを浮かべた。
「ほら、あの子は、第一線でバリバリ働く男のほうが好きな子だから」
「はあ」
「昔の鈴木さんを知っていたら、あなたもなんで妹が結婚まで考える気になったのかわかるでしょうね」
「どういうことですか」
　わたしが身を乗り出したとき、ウェイトレスが食事を運んできた。
　コーヒーに、サラダに、ゆで卵に、そしてこれは。
「……トーストにあんこ？」
「小倉トーストよ。この店の名物。結構いけるから」
「はあ」
　わたしは半信半疑でその物体を見た。そのまま口に入れそうになってはっと気づく。
「それじゃ島田さん、失礼して。いただきます」
　わたしはトーストにかぶりついた。
　小倉トーストがまずかったかといわれれば、答はノーだ。あんパンというものがあれだけ勢力を伸ばしている以上、あんとパンが合わないわけがない。
　だが、わたしとしては、パンはやはりトーストしたものにバターをこれでもかとばかり塗ったもののほうが好みだ。わたしがウォッカ党なせいかもしれないが。
　腹を減らして料理をほおばっているわたしに、島田春江は柔らかい目を向けていた。
「どこまで話したっけ……そうそう、昔の鈴木さんのことだったわね」
「ふぁひ」
　食い物を口に入れたままわたしは答えた。
「あの人は、才能と情熱にあふれていたわ。今からそうね……何年前かしら？　あたしが結婚したころで、秋子が大学生だったころだから……十年くらい前？」
　そういえば。わたしは島田春江を見直した。そうだ、この人も既婚者だったんだった。
「そのころは、鈴木さんは、秋子の研究室のヒーローのひとりだった。語学が堪能で、テーマも独創的で……だけど、学内での出世には致命的なものが欠けていたわ。政治力よ」