「ショートショート」
SF
愛を……
「もう長くないのですね」
ハンカチで目元を押さえながらその老婦人はつぶやいた。
「お気の毒ですが」
医者は、深刻な顔でうなずいた。
「彼は偉大な政治家であり、芸術家であり、歴史家でした。史上、彼に比することができるのは、ひとり、かのユリウス・カエサルその人だけでしょう」
「それでも、あの人は、こうしてベッドで死ねるのですね」
「それも、彼が長年にわたり心血を注いで構築したこの平和ゆえですよ」
医者はきっぱりといった。
「彼の晩節を汚すような真似は、絶対にこのわれわれがさせません」
「それがいいことなのか……」
老婦人はすすり泣きながら、それでいてその言葉だけはしっかりといった。
機械は、ガラスを隔てた病室で横たわる老人の心拍をしっかりとモニタに映していた。
「先生、知っていますか? あの人、私生活では、とてもユーモア精神にあふれていたかただったのですよ」
「もちろん知っています。死の床にあっても、彼は諧謔精神を忘れなかった。すごい人です」
「あの人のジョークを聞くことも、もうできないのですね」
「おそらくは」
医者は目を伏せた。
「あの人は偉大な人です。偉大な人にふさわしい言葉を残してくれるでしょう。われわれに。遺言として」
「おお……」
老婦人は、激しく嗚咽した。医者は、その身体を支えた。
「大丈夫です。われわれが見ています。彼の言葉は、きちんとモニターされています。ささやきひとつでさえ、逃しはしません」
そのとき、ふたりの目の前で、機械の波形が乱れた。
「そのときがきたのかもしれん。準備を整えろ!」
医者は機械を操作するスタッフに命じた。
「あなた! あなた……!」
老婦人のその声が届いたのか、ベッドの老人は、目をかっと見開いて、いった。
マイクから、声が響いた。
『愛を……』
「よし!」
老人の身体に刺されていた注射器が、安楽死のための薬剤を注入した。老人の心拍を映していたモニタは、平坦なものになった。
「亡くなったのですか? あの人が? ほんとうに、ここまでする必要があったのですか?」
「どうしても必要でした。彼は、比類なき人物です。比類なき人物には、比類なき言葉を遺言として残してもらわなければなりません。死の床で、くだらないジョークなどを遺言として残されては困るのです。心配なさらないでも、彼の遺言は『愛を……』だったと、歴史書には残されることでしょう。あなたは、歴史が始まる瞬間を見たのです」
「歴史が終わる瞬間ですわ」
老婦人は感情を押し殺してそう答え、「あの人」を思って静かに涙を流すのだった。
ハンカチで目元を押さえながらその老婦人はつぶやいた。
「お気の毒ですが」
医者は、深刻な顔でうなずいた。
「彼は偉大な政治家であり、芸術家であり、歴史家でした。史上、彼に比することができるのは、ひとり、かのユリウス・カエサルその人だけでしょう」
「それでも、あの人は、こうしてベッドで死ねるのですね」
「それも、彼が長年にわたり心血を注いで構築したこの平和ゆえですよ」
医者はきっぱりといった。
「彼の晩節を汚すような真似は、絶対にこのわれわれがさせません」
「それがいいことなのか……」
老婦人はすすり泣きながら、それでいてその言葉だけはしっかりといった。
機械は、ガラスを隔てた病室で横たわる老人の心拍をしっかりとモニタに映していた。
「先生、知っていますか? あの人、私生活では、とてもユーモア精神にあふれていたかただったのですよ」
「もちろん知っています。死の床にあっても、彼は諧謔精神を忘れなかった。すごい人です」
「あの人のジョークを聞くことも、もうできないのですね」
「おそらくは」
医者は目を伏せた。
「あの人は偉大な人です。偉大な人にふさわしい言葉を残してくれるでしょう。われわれに。遺言として」
「おお……」
老婦人は、激しく嗚咽した。医者は、その身体を支えた。
「大丈夫です。われわれが見ています。彼の言葉は、きちんとモニターされています。ささやきひとつでさえ、逃しはしません」
そのとき、ふたりの目の前で、機械の波形が乱れた。
「そのときがきたのかもしれん。準備を整えろ!」
医者は機械を操作するスタッフに命じた。
「あなた! あなた……!」
老婦人のその声が届いたのか、ベッドの老人は、目をかっと見開いて、いった。
マイクから、声が響いた。
『愛を……』
「よし!」
老人の身体に刺されていた注射器が、安楽死のための薬剤を注入した。老人の心拍を映していたモニタは、平坦なものになった。
「亡くなったのですか? あの人が? ほんとうに、ここまでする必要があったのですか?」
「どうしても必要でした。彼は、比類なき人物です。比類なき人物には、比類なき言葉を遺言として残してもらわなければなりません。死の床で、くだらないジョークなどを遺言として残されては困るのです。心配なさらないでも、彼の遺言は『愛を……』だったと、歴史書には残されることでしょう。あなたは、歴史が始まる瞬間を見たのです」
「歴史が終わる瞬間ですわ」
老婦人は感情を押し殺してそう答え、「あの人」を思って静かに涙を流すのだった。
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~ Comment ~
人の死に際って本当に多様で言葉では表せられない悲しみがありますね。
我々、人間は言語を獲得しているのに全ての思いを言葉で表す事が出来ないのは何とも歯痒いです。
我々、人間は言語を獲得しているのに全ての思いを言葉で表す事が出来ないのは何とも歯痒いです。
- #10201 小説と軽小説の人
- URL
- 2013.04/06 22:38
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Re: 小説と軽小説の人さん
このショートショートはブラック・ジョークのつもりで書いたんですけど(汗)