「ショートショート」
    その他

    処分された回答

     ←交渉術 →ホラーが書けない夜
    「あなたが悩んでいることはよくわかります。誰かを憎まずにはいられないこともわかります。しかしそれは、問題の真の解決にはなりません……」

     彼は手元にある羊皮紙の切れ端にペンを走らせた。

    「ここでわたしは、なぜ憎んではいけないのか、を説く気はありません。そんなことは人間には不可能だからです。不可能なことをあえてやろうというのは、道理に反しています……」

     彼には時間がなかった。身体からはどんどん力が抜けていくのがわかる。しかし、これだけはやっておかなければならない。今やらなければ、二度と自分にこのような長文は書けないからだ。

    「道理に反しているからといって、それをそのまま認めていれば、人間は動物と同じことになります。たしかに、人間の行動も動物の行動も、必然性に支配されていることでは変わりませんが、人間には外界から受けた刺激を、自己の利益のために変換できる理性が備わっているからです。いいかえれば、雑念にとらわれず、理性の導きのみに従っていれば、人間はたいていのものから利益を引き出せることがわかるでしょう」

     彼は羽根ペンをインク壺に漬けた。壺にインクが残っているかなど、もうよくわからなくなっていた。羽根ペンもナイフで削らなければならなかったはずだが、体力気力の限界に達していた彼には、ペンを削る体力は残っていなかった。

    「人間にとっての利益とはなにかを考えれば、それは自己の幸福です。幸福とは喜びです。利益を得れば得るほど、それは自分の喜びとなり、愉しみとなります。間違えないでほしいのは、この喜びとは物質的なものではないということです。自分の心の喜びであり、同時に自分の身体の喜びです。両者は同じものなのです」

     もう眼など半分以上見えなくなっている。

    「では、理性の目から、この世界はどのように見えるでしょうか。あなたが今日の朝食の粥に、いつもより塩をひとつまみ多く入れたとします。あなたは、それを自らの自由な意思のもとで決めたと考えているでしょうが、それは違います。まず、塩を加えたのは、身体に塩分が足りず、それを求めたという理由が考えられます。同様に、昨日食べた夕食に塩味が足りなかったから、という理由かもしれません。限定はできなくても、ここで納得してもらいたいことは、『すべての物事には原因がある』ということです。その原因も物事のひとつですから、もちろんさらに原因があり、さらにそれには原因があり、と、永遠にさかのぼることができます。それが究極の原因にたどり着くのか、神の無限にたどり着くのか、わたしにははっきりとしたことはわかりませんが、すべてはこの原因と結果の連鎖の中に組み込まれているのです」

     自分は哲学者として、哲学についての知識がある人間とのみ議論をしてきたつもりだった。それでいいと思っていた。だがそれでいいのか。自分が心血を注ぎ、定理と証明でもって築き上げてきた草稿の内容に自信はある。しかし、それでもって、この下宿のおかみさんのささいな悩みすら解決できない、ということになったら、自分の倫理学はいったいなんの役に立ったというのだろうか。

    「すべてが神のもとでの原因と結果のつながりにあり、意思が存在しないのなら、わたしたちの周囲にいるすべての人たちも、原因と結果のつながりの中で意思を持っていない存在だということになります。つまり、わたしたちも、まわりの人も、そうする以外のことは不可能だったのです。なにか、あなたにとってひどいことがなされたとしても、それはなにかの理由で崖の上から岩が転がってきて、あなたの前で道をふさいだようなものです。だからといって、あなたは岩を憎んで復讐しますか。岩を憎んでもしかたがないでしょう。やるべきことは、まず岩をどかして道を開け、岩が転がってこないように崖に柵を作ることです。理性の声はあなたにそう告げるはずです」

     とうに文字は判読不能の殴り書きになっており、ペンはインクを失って紙に擦り付けられているだけだった。彼はそれでもペンを走らせ続けた。手からペンが落ちた。目はすでにつぶられていた。ただその口もとの動きだけが、彼のたどり着いた真実を語っていた。

    「だから、苦難に襲われても、あなたがカード遊びをしているときのように、与えられた状況のもとで、自分の手にある手札を使って、できるかぎり得点を、喜びを得ようと努めることです。そうすれば、相手を憎むことは、悲しくなるだけで、得点を得る機会を失うだけであることがわかるでしょう。代わりに、得点を取れば取るほど、あなたの心には喜びがあふれてくるはずです。理性の声に耳を澄まし、喜びと利益を取りなさい。これが、死にゆくわたしがあなたにかける最後の言葉です」

     羊皮紙の切れ端には、削り落とそうとして削り落とせなかった名前がうっすらと読めた。

    「なによりも哲学者として、バルフ・デ・スピノザ」
    関連記事
    スポンサーサイト



     関連もくじ一覧 ▼ 
    総もくじ 3kaku_s_L.png ほら吹き大探偵の冒険(児童文学)
    総もくじ 3kaku_s_L.png 夢逐人(オリジナル長編小説)
    総もくじ 3kaku_s_L.png 残念な男(二次創作シリーズ)
    総もくじ 3kaku_s_L.png ショートショート
    総もくじ 3kaku_s_L.png 紅探偵事務所事件ファイル
    総もくじ 3kaku_s_L.png 銀河農耕伝説(リレー小説)
    総もくじ 3kaku_s_L.png 剣と魔法の国の伝説
    もくじ  3kaku_s_L.png 鋼鉄少女伝説
    総もくじ  3kaku_s_L.png ほら吹き大探偵の冒険(児童文学)
    総もくじ  3kaku_s_L.png 夢逐人(オリジナル長編小説)
    総もくじ  3kaku_s_L.png 残念な男(二次創作シリーズ)
    総もくじ  3kaku_s_L.png ショートショート
    総もくじ  3kaku_s_L.png 紅探偵事務所事件ファイル
    総もくじ  3kaku_s_L.png 銀河農耕伝説(リレー小説)
    もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
    もくじ  3kaku_s_L.png リンク先紹介
    もくじ  3kaku_s_L.png いただきもの
    もくじ  3kaku_s_L.png ささげもの
    もくじ  3kaku_s_L.png その他いろいろ
    もくじ  3kaku_s_L.png SF狂歌
    総もくじ  3kaku_s_L.png 剣と魔法の国の伝説
    もくじ  3kaku_s_L.png 映画の感想
    もくじ  3kaku_s_L.png 家(
    もくじ  3kaku_s_L.png 懇願
    もくじ  3kaku_s_L.png TRPG奮戦記
    【交渉術】へ  【ホラーが書けない夜】へ

    ~ Comment ~

    Re: LandMさん

    公理と定理と証明のかたまりですから、とっつきやすい本ではないですが、スピノザという哲学者がどう考えたかをたどれるという意味では、ハマると思い切りハマる本です。読むのに3ヶ月くらいかかる本でもありますが。

    NoTitle

    スピノザのエチカはそういえば読んでないですね。
    う~~む、正月あたりに読んでみてもいいかもしれないなあ。。。
    私やポールさんの年齢で読むのもまた感慨深いものがあると思いますしね。よし、気が向いたら買おう。

    Re: ダメ子さん

    「何をいうのも無駄」ではありません。

    すべては必然でありますが、だからこそ「なにかを発言」せねばならないのです。

    わたしのこのコメントもひとつの外的刺激です。

    それがダメ子さんの理性に何らかの影響を及ぼし、必然としてこの世界にとってプラスの結果をもたらすことをわたしは祈る次第です。

    人間社会というものは、すべてがそうした「外的刺激=原因 → 結果=行動=新たな外的刺激」の連鎖なのでありますから……。

    結果として人類というものが滅亡したとしたら、その時はそれを受け入れるだけであります。

    NoTitle

    理性を使うかどうかも必然の範囲のような気も…
    そうすると憎むかどうかも必然かも…
    となると何を言うのも無駄のような気も…
    そもそもそう考えてる私も必然的なものかも…
    私は操られているんじゃ…あうあうあうあ…
    管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。

    ~ Trackback ~

    卜ラックバックURL


    この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

    • 【交渉術】へ
    • 【ホラーが書けない夜】へ