その他いろいろ
「批評」について
相互リンクしていただいている歯科医でかつ卓越した翻訳家でいらっしゃるひらやまさんとのコメントのやりとりで、自分にとって「批評すること」とはなにかが、あいまいなままであることに気づいた。
そこを明確にしないでは失礼にあたる。よって、自分にとってではあるが、「批評する」こととは何を意味するのかを明白にしていきたい。
まず、明確なことは、「批評する」ということは、ある対象について発言することである。これについては異存はないだろう。
次に明確なことは、人間ひとりの持つ知識の総量には限界がある。これも異存はないと思う。
ということは、ひとりの人間にとっての「批評する」という行為は、「ひとりの人間の持つある程度の知識の範囲内で、ある対象について発言すること」である。
「ある対象について発言する」とは、どういうことを意味するか。飛躍があるかもしれないが、「ある対象について、それが自分にとってなんなのかを聞き手に対して明確にしようとする行為」であるといえるのではないだろうか。例えば、「巨人は嫌い」というのは、自分にとって「巨人」は「嫌い」なグループに含まれる、ということを明確にする行為であり、「とって」という言葉も、時と場合に応じて、「わたしはそれを取ってほしいです」ということを明確にする行為であったり、「わたしにはそれは取っ手であると認識しています」ということを明確にする行為だったりするだろう。
こう考えていくと、「批評する」という行為は、「一人の人間の持つある程度の知識の範囲内で、ある対象について、それが自分にとってなんなのかを聞き手に対して明確にしようとする行為」と言い換えられる。
「批評する」という行為を行うのがひとりの人間だとした場合、どうしても「それが自分にとって」という要素をカッコに入れることはできない。先にもいったように、人間の知識には限界がある。
批評するという行為は客観的なもののように見えて、主観的なものなのではないだろうか。一種の自己表現といいかえてもいいかもしれない。
では、「事実」との関連性はどうなるのか。
これを考えると、「事実」とはなんなのかを明確にしないといけないだろう。
われわれにとってわれわれが存在しているとはどういうことなのかについて考えた哲学者にハイデガーがいる。彼は人間の存在を「世界=内=存在」と考えた。「世界=内=存在」とはなんであるか、「存在と時間」を読んでもよくわからなかったのだが、「ある存在が世界の中に取り囲まれるように、というか、世界とくっついて存在している様態」とでも表現したらいいだろうか。つまり、われわれが存在するということは、われわれと世界が不可分にくっついていて、歴史や空間といったすべての「世界」をわれわれがあらわれとして了解している、そのありさまが、われわれが存在しているということだというのである。書いていてものすごく歯がゆいが、そうとでもいう以外に表現しようがないのである。
この考え方に立つと、「事実」とは、われわれの前に世界があらわれてくるそのそれぞれの「あらわれ」の総称だといえる。
「知識」は、その「事実」についての認識である、といっていいだろう。
飛躍があることを承知で総合すると、「批評する」とは、「ひとりの人間の前にあらわれてくる世界についての限定された認識のもとで、特定の限定された認識に対して、それがその人間にとっていかなるものであるかを他者に対して明確にしようとする行為」であるといえるのではないだろうか。
この行為は、あくまでも「批評者にとってその批評対象がなんであるか」を明確にする行為であり、「客観的世界でそれがどうであるか」については限定されたものであるといえる。
つまり、「ひとりの人間の前にあらわれてくる対象が、その人間の中でいかなる位置を占めるのか」についての発言であるから、客観的事実と思われるものが見出されたとしても、その結論が変化するということにはつながらないのだ。そこが、科学論文などとは違うところである。
まず、現在ホットな話題として、STAP細胞論争を取り上げてみよう。これについての焦点は、「STAP細胞は小保方氏の方法で作り出せるのか」ということにある。小保方氏は、自分の前にあらわれてくる世界についての限定された認識により、「STAP細胞は簡単な方法で作り出せる」ということを発言した。これに対しての事実性が問われたのである。反論者は、同じく「自分の前にあらわれてくる世界についての限定的な認識に基づき、それとは反対のことが事実ではないかと」発言した。それに対して小保方氏の取る方法はおおまかにいって三つである。第一は、「自分の前にあらわれてくる世界についての限定的な認識」から、その反論に対して再反論することである。第二は、反対者の論を受け入れ、自分が間違ったことを認めることである。第三は、事実性が否定されていることに反論ができないにもかかわらず自分の発言を修正しないことである。科学的な問題に対しては、第三の方法はナンセンスであることはいうまでもない。ウソツキ、といわれて終りである。
文芸評論ではどうだろうか。探せばたくさんあるだろうが、好例が思いつかないので極端な例として、「吉川英治の『宮本武蔵』は戦後最大のSF小説である」と発言する評者がいたとしよう。それに対し、このような対応を取ることができる。まず、「『宮本武蔵』はSF小説ではないし、戦前の作品だ」と、事実性を問題にするのが普通であろう。それに対し、批評者が取れる態度には以下のものがある。まず、「わたしの知る限り、『宮本武蔵』が戦前に書かれたものである証拠は存在しないし、この小説はSF小説である」と反論することである。事実性としては誤っているが、反論することはできる。次に、反論者の言をそのまま受け入れ、自分の中の『宮本武蔵』の位置を、「戦後最大のSF小説」から、「戦前の作品では最高の剣豪小説」と移動させることもできる。第三の手段は、事実性が否定されていることに反論ができないにもかかわらず自分の発言を修正しないことである。そして四つ目の選択が、「『宮本武蔵』は戦前の作品であることも、SF小説ではないことも認める。だがわたしにとっては、『戦後最大のSF』であることに変わりはない」と主張する、というものである。
「批評」とはひとつの自己表現とも取れる、と書いたことを思い出してほしい。重要なのは事実性そのものよりも、そこで自分がなにを主張したかのほうである、とわたしは考える。文芸批評では、その作品を読み、それが自分にとっての文学史上のどこに位置するかを明確にすることが最重要であり、事実性そのものは付随的なものでしかないと考える。
むろんこれは、事実性を争うということをおろそかにするものではない。「事実を事実と認めたうえで、それでもわたしにとりこの作品はこういうものなんだ」と主張することにも意味がある、といっているのである。その意味は、内的な論理においてその発言者と認識する文学史に重なる部分がある人間以外には誤謬もしくは理解不能としか思えないだろうが、それでも発言する意味はあるのだ。
書いていて歯がゆさに泣きそうになる。形而上学なんて簡単だ、などと誰がいったのだ?
某K氏の論をこれに当てはめると、「事実を事実と認めていない」のならば問題であるが、「事実を事実と認めたうえで、それをわかりながら自分のオリジナルな論を唱えているのなら、一定の価値を認めるべきである」というのがわたしの意見である。
疲れた。寝よう。
そこを明確にしないでは失礼にあたる。よって、自分にとってではあるが、「批評する」こととは何を意味するのかを明白にしていきたい。
まず、明確なことは、「批評する」ということは、ある対象について発言することである。これについては異存はないだろう。
次に明確なことは、人間ひとりの持つ知識の総量には限界がある。これも異存はないと思う。
ということは、ひとりの人間にとっての「批評する」という行為は、「ひとりの人間の持つある程度の知識の範囲内で、ある対象について発言すること」である。
「ある対象について発言する」とは、どういうことを意味するか。飛躍があるかもしれないが、「ある対象について、それが自分にとってなんなのかを聞き手に対して明確にしようとする行為」であるといえるのではないだろうか。例えば、「巨人は嫌い」というのは、自分にとって「巨人」は「嫌い」なグループに含まれる、ということを明確にする行為であり、「とって」という言葉も、時と場合に応じて、「わたしはそれを取ってほしいです」ということを明確にする行為であったり、「わたしにはそれは取っ手であると認識しています」ということを明確にする行為だったりするだろう。
こう考えていくと、「批評する」という行為は、「一人の人間の持つある程度の知識の範囲内で、ある対象について、それが自分にとってなんなのかを聞き手に対して明確にしようとする行為」と言い換えられる。
「批評する」という行為を行うのがひとりの人間だとした場合、どうしても「それが自分にとって」という要素をカッコに入れることはできない。先にもいったように、人間の知識には限界がある。
批評するという行為は客観的なもののように見えて、主観的なものなのではないだろうか。一種の自己表現といいかえてもいいかもしれない。
では、「事実」との関連性はどうなるのか。
これを考えると、「事実」とはなんなのかを明確にしないといけないだろう。
われわれにとってわれわれが存在しているとはどういうことなのかについて考えた哲学者にハイデガーがいる。彼は人間の存在を「世界=内=存在」と考えた。「世界=内=存在」とはなんであるか、「存在と時間」を読んでもよくわからなかったのだが、「ある存在が世界の中に取り囲まれるように、というか、世界とくっついて存在している様態」とでも表現したらいいだろうか。つまり、われわれが存在するということは、われわれと世界が不可分にくっついていて、歴史や空間といったすべての「世界」をわれわれがあらわれとして了解している、そのありさまが、われわれが存在しているということだというのである。書いていてものすごく歯がゆいが、そうとでもいう以外に表現しようがないのである。
この考え方に立つと、「事実」とは、われわれの前に世界があらわれてくるそのそれぞれの「あらわれ」の総称だといえる。
「知識」は、その「事実」についての認識である、といっていいだろう。
飛躍があることを承知で総合すると、「批評する」とは、「ひとりの人間の前にあらわれてくる世界についての限定された認識のもとで、特定の限定された認識に対して、それがその人間にとっていかなるものであるかを他者に対して明確にしようとする行為」であるといえるのではないだろうか。
この行為は、あくまでも「批評者にとってその批評対象がなんであるか」を明確にする行為であり、「客観的世界でそれがどうであるか」については限定されたものであるといえる。
つまり、「ひとりの人間の前にあらわれてくる対象が、その人間の中でいかなる位置を占めるのか」についての発言であるから、客観的事実と思われるものが見出されたとしても、その結論が変化するということにはつながらないのだ。そこが、科学論文などとは違うところである。
まず、現在ホットな話題として、STAP細胞論争を取り上げてみよう。これについての焦点は、「STAP細胞は小保方氏の方法で作り出せるのか」ということにある。小保方氏は、自分の前にあらわれてくる世界についての限定された認識により、「STAP細胞は簡単な方法で作り出せる」ということを発言した。これに対しての事実性が問われたのである。反論者は、同じく「自分の前にあらわれてくる世界についての限定的な認識に基づき、それとは反対のことが事実ではないかと」発言した。それに対して小保方氏の取る方法はおおまかにいって三つである。第一は、「自分の前にあらわれてくる世界についての限定的な認識」から、その反論に対して再反論することである。第二は、反対者の論を受け入れ、自分が間違ったことを認めることである。第三は、事実性が否定されていることに反論ができないにもかかわらず自分の発言を修正しないことである。科学的な問題に対しては、第三の方法はナンセンスであることはいうまでもない。ウソツキ、といわれて終りである。
文芸評論ではどうだろうか。探せばたくさんあるだろうが、好例が思いつかないので極端な例として、「吉川英治の『宮本武蔵』は戦後最大のSF小説である」と発言する評者がいたとしよう。それに対し、このような対応を取ることができる。まず、「『宮本武蔵』はSF小説ではないし、戦前の作品だ」と、事実性を問題にするのが普通であろう。それに対し、批評者が取れる態度には以下のものがある。まず、「わたしの知る限り、『宮本武蔵』が戦前に書かれたものである証拠は存在しないし、この小説はSF小説である」と反論することである。事実性としては誤っているが、反論することはできる。次に、反論者の言をそのまま受け入れ、自分の中の『宮本武蔵』の位置を、「戦後最大のSF小説」から、「戦前の作品では最高の剣豪小説」と移動させることもできる。第三の手段は、事実性が否定されていることに反論ができないにもかかわらず自分の発言を修正しないことである。そして四つ目の選択が、「『宮本武蔵』は戦前の作品であることも、SF小説ではないことも認める。だがわたしにとっては、『戦後最大のSF』であることに変わりはない」と主張する、というものである。
「批評」とはひとつの自己表現とも取れる、と書いたことを思い出してほしい。重要なのは事実性そのものよりも、そこで自分がなにを主張したかのほうである、とわたしは考える。文芸批評では、その作品を読み、それが自分にとっての文学史上のどこに位置するかを明確にすることが最重要であり、事実性そのものは付随的なものでしかないと考える。
むろんこれは、事実性を争うということをおろそかにするものではない。「事実を事実と認めたうえで、それでもわたしにとりこの作品はこういうものなんだ」と主張することにも意味がある、といっているのである。その意味は、内的な論理においてその発言者と認識する文学史に重なる部分がある人間以外には誤謬もしくは理解不能としか思えないだろうが、それでも発言する意味はあるのだ。
書いていて歯がゆさに泣きそうになる。形而上学なんて簡単だ、などと誰がいったのだ?
某K氏の論をこれに当てはめると、「事実を事実と認めていない」のならば問題であるが、「事実を事実と認めたうえで、それをわかりながら自分のオリジナルな論を唱えているのなら、一定の価値を認めるべきである」というのがわたしの意見である。
疲れた。寝よう。
スポンサーサイト
もくじ
風渡涼一退魔行

もくじ
はじめにお読みください

もくじ
ゲーマー!(長編小説・連載中)

もくじ
5 死霊術師の瞳(連載中)

もくじ
鋼鉄少女伝説

もくじ
ホームズ・パロディ

もくじ
ミステリ・パロディ

もくじ
昔話シリーズ(掌編)

もくじ
カミラ&ヒース緊急治療院

もくじ
未分類

もくじ
リンク先紹介

もくじ
いただきもの

もくじ
ささげもの

もくじ
その他いろいろ

もくじ
自炊日記(ノンフィクション)

もくじ
SF狂歌

もくじ
ウォーゲーム歴史秘話

もくじ
ノイズ(連作ショートショート)

もくじ
不快(壊れた文章)

もくじ
映画の感想

もくじ
旅路より(掌編シリーズ)

もくじ
エンペドクレスかく語りき

もくじ
家(

もくじ
家(長編ホラー小説・不定期連載)

もくじ
懇願

もくじ
私家版 悪魔の手帖

もくじ
紅恵美と語るおすすめの本

もくじ
TRPG奮戦記

もくじ
焼肉屋ジョニィ

もくじ
睡眠時無呼吸日記

もくじ
ご意見など

もくじ
おすすめ小説

もくじ
X氏の日常

もくじ
読書日記

~ Comment ~
NoTitle
前半の客観性の話はその通りではあるとは思いますが
それを前提として成り立っているであろう批評に対して
特別な理由もなくその視点を持ち出すのはやはり不適当と思います
「将棋は他のゲームに比べて価値があるゲームなのか」
という主張がもっともではあるとしても
それを将棋の定跡研究の場で言うものではないようなものだと思います
そして一般的な意味での(もしくは作品批評の場においての)
客観性においては
ホームズは源氏物語よりもミステリ的であるため
源氏物語をミステリと主張する場合は
それ相応の根拠を示すべきと思いますです
それを前提として成り立っているであろう批評に対して
特別な理由もなくその視点を持ち出すのはやはり不適当と思います
「将棋は他のゲームに比べて価値があるゲームなのか」
という主張がもっともではあるとしても
それを将棋の定跡研究の場で言うものではないようなものだと思います
そして一般的な意味での(もしくは作品批評の場においての)
客観性においては
ホームズは源氏物語よりもミステリ的であるため
源氏物語をミステリと主張する場合は
それ相応の根拠を示すべきと思いますです
- #13074 ダメ子
- URL
- 2014.03/23 21:49
- ▲EntryTop
Re: LandMさん
「事実」はこの世界の「あらわれ」であるからまだ信じられますが、「根拠」は「わたしはこう思う」というフィルターを通している恣意的なものであるため信じられなくなっている病的状態であります。
底なしの「無根拠性」というのはまじまじと見つめると病気になるので気をつけたほうがいいです。
「帰納法」も「演繹法」も信じられなくなるのは怖いであります……。
底なしの「無根拠性」というのはまじまじと見つめると病気になるので気をつけたほうがいいです。
「帰納法」も「演繹法」も信じられなくなるのは怖いであります……。
NoTitle
最期の疲れた。寝ようにすべてが集約されているような。。。
まあ、それはともかく。
批評と感想は違いますからね。
感想と見解は違うのか?・・・という命題も論文を書いているときに教授に問われたことがありますね。見解は根拠と事実に基づいた・・・ということから・・・( 一一)。
疲れたから寝ましょうか。
まあ、それはともかく。
批評と感想は違いますからね。
感想と見解は違うのか?・・・という命題も論文を書いているときに教授に問われたことがありますね。見解は根拠と事実に基づいた・・・ということから・・・( 一一)。
疲れたから寝ましょうか。
- #13069 LandM
- URL
- 2014.03/23 19:43
- ▲EntryTop
Re: ダメ子さん
他者に「それは一理あるな」と思わせることが、即、客観性につながるとはいえないのではないでしょうか。「一理あるな」と考えるのも、その他者の主観です。
多数の人間で構成される共同体が共有する知識や態度も、「客観性」と呼べるのかについては疑問があります。「多数の人間で構成される共同体」から相手にされなくなる、ということが「客観性の欠如」の証明ならば、その「多数の人間」により作られる真理の基準も、恣意的なものであるといえます。
「世界」にはたらきかけて「世界」から返ってきた反応を吟味することにより、「事実」についてのある程度の「事実性」は担保されるでしょう。そういった意味で、「事実性」については客観性が保証されているといえますが、文学作品にとどまらず、美術や音楽などを「批評」する際は、主観によって自分にとってそれがどういうものかを認識する以外に評価のしようがないのです。
そうして表に出された「発言」には、それぞれに「意味」があります。ないのは「根拠」です。すべての「発言」は、それぞれの話者の設定した恣意的な基準に支えられているだけで、その基準がどうあるべきかについては、客観的な「根拠」はありません。
われわれは「ホームズはミステリだよね」と発言するのと同様、「罪と罰はミステリだよね」と発言できますし、「源氏物語はミステリだよね」と発言することもできます。そしてそれらはすべて、「無根拠」ということで等価なのです。
記事中に挙げた例では、「『宮本武蔵』はSFである」と書いたほうが良かったかもしれません。「宮本武蔵がSFであるとか、SFではないとかいう以前に、宮本武蔵はSFなのだ」と考えている話者ですので。
……なんか書いていて自分の病気がどんどん悪化してきた気がします。今日はゲームやって飯食って早めに寝ます。
多数の人間で構成される共同体が共有する知識や態度も、「客観性」と呼べるのかについては疑問があります。「多数の人間で構成される共同体」から相手にされなくなる、ということが「客観性の欠如」の証明ならば、その「多数の人間」により作られる真理の基準も、恣意的なものであるといえます。
「世界」にはたらきかけて「世界」から返ってきた反応を吟味することにより、「事実」についてのある程度の「事実性」は担保されるでしょう。そういった意味で、「事実性」については客観性が保証されているといえますが、文学作品にとどまらず、美術や音楽などを「批評」する際は、主観によって自分にとってそれがどういうものかを認識する以外に評価のしようがないのです。
そうして表に出された「発言」には、それぞれに「意味」があります。ないのは「根拠」です。すべての「発言」は、それぞれの話者の設定した恣意的な基準に支えられているだけで、その基準がどうあるべきかについては、客観的な「根拠」はありません。
われわれは「ホームズはミステリだよね」と発言するのと同様、「罪と罰はミステリだよね」と発言できますし、「源氏物語はミステリだよね」と発言することもできます。そしてそれらはすべて、「無根拠」ということで等価なのです。
記事中に挙げた例では、「『宮本武蔵』はSF
……なんか書いていて自分の病気がどんどん悪化してきた気がします。今日はゲームやって飯食って早めに寝ます。
Re: 火消茶腕さん
『批評」と「感想」との違い以前に、人間にできることは「発言」だけであり、それに対して恣意的に「評論」だの「批評」だの「小説」だの「信仰」だの「感想」だのとレッテルを貼っているだけではないのか、とわたしは思っています。そこまでは書きませんでしたが……。
NoTitle
(優れた)批評には客観性が必要だと思います
全面的に賛成はできなくてもそういう面もあるなと思わせるような
「『宮本武蔵』は戦前の作品であることも、SF小説ではないことも認める。だがわたしにとっては、『戦後最大のSF』であることに変わりはない」
はすでに自分で否定している以上
個人の思い込みを越えることはできないので
批評としてはナンセンスだと思います
(比喩的なものならともかく)
こういう批評をすること自体は否定しませんが
(そのような批評を禁止するというのはありえないし)
周りからは「こいつの言うことは無視しよう」
と思われるだけじゃないかと
逆に科学であっても
「私は相対性理論は間違ってると思っている」
と主張をすること自体が禁止されてるわけでもないですし
ただ相手にされてないだけで普通にたくさんいます
全面的に賛成はできなくてもそういう面もあるなと思わせるような
「『宮本武蔵』は戦前の作品であることも、SF小説ではないことも認める。だがわたしにとっては、『戦後最大のSF』であることに変わりはない」
はすでに自分で否定している以上
個人の思い込みを越えることはできないので
批評としてはナンセンスだと思います
(比喩的なものならともかく)
こういう批評をすること自体は否定しませんが
(そのような批評を禁止するというのはありえないし)
周りからは「こいつの言うことは無視しよう」
と思われるだけじゃないかと
逆に科学であっても
「私は相対性理論は間違ってると思っている」
と主張をすること自体が禁止されてるわけでもないですし
ただ相手にされてないだけで普通にたくさんいます
- #13062 ダメ子
- URL
- 2014.03/23 13:25
- ▲EntryTop
NoTitle
興味深く読ませていただきました。
分かりやすかったですが、できれば”感想”との違いをも分かりやすく説明していただけるともっと私がうれしいであろう、と感じました。(感想)
分かりやすかったですが、できれば”感想”との違いをも分かりやすく説明していただけるともっと私がうれしいであろう、と感じました。(感想)
- #13055 火消茶腕
- URL
- 2014.03/23 09:28
- ▲EntryTop
~ Trackback ~
卜ラックバックURL
⇒
⇒この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
Re: ダメ子さん
ホームズのほうが源氏物語よりもミステリ的だ、というのは、ホームズのほうが源氏物語よりもミステリ的である、という内的なルールに従っているからですが、それは源氏物語がホームズよりもミステリ的だ、という内的なルールの存在そのものを排除するものではありません。ルールを使用している集団が大きいか小さいかの違いだけで、どちらのルールも等価であるといえます。ルールの内容がどうであるかについて、それがそうである必然的な根拠はありません。
圧倒的多数が本将棋を指している世界で、「金のコマがそういう動きをするのは認める。だが自分にとっては、金のコマは盤上に振り出すものなんだ!」と叫ぶ人間は集団から排除されますが、だからといってその人間が本将棋を指す人間と等価であることには変わりないのです。
精神的にヤバい状態になってきてるので、明日は医者に診てもらおうと思っています。
ポトフはいい匂いであります。