「残念な男(二次創作シリーズ)」
残念な男の事件簿(二次創作シリーズ)
残念な男の五月三日
わたしが暮らしているこの日本という国では、五月三日になると面白い見世物が始まる。片方は五千人集めて「少ない」と文句をこぼし、もう片方は五百人集めて「大盛況」といっているのだ。
だが、わたしは……。
…………
一九四五年五月三日。
わたしはシベリアの大地をさまよっていた。雪解けもひと段落したシベリアは、ある意味冬よりもさらに歩きにくい土地になっていた。氷が溶けると水になる。行き場がない水は水たまりを作るのだ。当然、辺りは湿地また湿地である。泥濘に足を取られ、冬眠から目覚めて思うがままに暴れる毒虫の群れは、叩きつけてくる雪や風よりもうっとうしかった。
この戦争が始まってすぐに徴兵され、わたしは満州国、今の中国東北部に飛ばされた。外国人の血が混じっていることは、この状況下ではマイナスにしか働かなかった。帝国陸軍にはふさわしくなき存在、というわけだ。わたしは毎日のように殴られ、殴られ、殴られた。名前を変えながら長生きしているせいで、日清戦争にも日露戦争にも従軍させられた身としては、驚くことではなかったが、軍隊というものに対してシンパシーを抱く気分にはなれなかった。
そして今は、この顔を買われて軍事探偵というわけだ。軍事探偵、すなわちスパイである。捕まったら最後、絞首刑か銃殺か、それとも戦車に踏まれるのかは知らないが、死刑は免れない任務だ。他の同族のように念動力が使えれば、なんということもない任務なのかもしれないが、ちょっとした古武術の技以外に身を守る武器がなにもないわたしには、生きてふたたび日本の地が踏めるかどうかすらわからなかった。
たしかにわたしが、同族に日本軍の最前線での情報を流していたことは認める。しかしまさか、ソ連の国境を越えて最前線の部隊の状況を調べてくるというのは、血族全体にとっても非常に有益であるからがんばって行ってこい、といわれるとは思わなかった。なんでも、帝政ロシアが倒れて共産党がソ連を建国した時に、かつて同族が持っていた人脈と諜報組織が壊滅的な打撃を受け、いまだに再建できていないということらしい。これは、潜入先に支援してくれる同族が誰もいない、ということを意味する。
半世紀生きてきてロシア語がぺらぺらであった自分の無駄な知識欲をこれ以上呪ったことはない。顔を見たこともないふた親もふた親である。外国語に対する耳の良さのかわりに、念動力を授けてくれればよかったのに。
わたしは土民の服を着せられ、銃とわずかな食料とわずかなルーブルを持たされて国境線を越えた。
最前線の様子は、大日本帝国の臣民たるわたしには頭を抱えるしかないさまを呈していた。部隊は隠密裏にだが、活発に活動していた。ドイツの運命が風前の灯だったことはわかっていたが、ベルリン陥落のニュースが、このシベリアまで届いていた。ヨーロッパから部隊が引き抜かれてこの中国戦線にやってくるのだ。竜巻のようにモスクワに迫ったあの無敵のドイツ軍の猛攻に耐えた、鍛え抜かれた精鋭戦車部隊が。ノモンハンでわが軍の誇る重戦車を、生卵のように砕いて潰したあのソ連戦車がやってくる。わが軍の戦車はあれからほとんど進化していないが、補給拠点に一両だけ先に来た敵の最新鋭戦車を見て、わたしは小便をもらしそうになった。なんてばかでかい戦車だ。しかも、なんてばかでかい戦車砲を積んでいるのだ。ソ連の戦前からの冶金技術の高さは貿易商に勤めていたわたしも知っている。そこから考えれば、装甲の厚さは……。
間違いない。満州国どころの騒ぎではない。下手をしたら日本本土にもソ連軍がなだれ込んでくる。アメリカと割譲、などとなったらどうなるかは想像がついた。まだ平和だったころ、わたしよりも長生きしている同族から、そいつのおばあちゃんが十八世紀のポーランド分割について話してくれたことをまた聞きしたからだ。
先に述べたとおり、軍や陛下に対しての忠誠心などは持ってはいなかったが、一般市民である隣人たちが傷つくのを黙って見過ごすわけにはいかなかった。生きて前線に帰り、軍民挙げての中国からの総撤退と、アメリカやイギリスに対する即時の無条件降伏を進言するのだ。ロシア人の自称共産主義者が噂話をする内容から鑑みれば、まだ資本主義国のほうが降伏対象としてはマシである。
そっと脱け出せればよかったのだが……。
逃げ出す際にわたしはどこかでドジを踏んだらしい。追っ手がかかったのだ。
武術の修行で身体は鍛えていたつもりだったが、それでも飲まず食わず眠らず休まずの逃避行は骨身にこたえた。
五日ののちには方向感覚や精神の安定すらおぼつかなくなっていた。あまりにだだっ広いところをうろつくと、知的生物というものはどこかが壊れるらしい。
夜だった。曇天で、天測ができるわたしも自分がどこにいるか調べる手段がなかった。
このままここで倒れて眠れば……わたしの疲れは回復するだろうが、それはソ連の警邏隊に見つかって拷問のうえで英霊になることを意味した。拷問も英霊もごめんである。
わたしは顔を上げた。ふと、目が、灯りのようなものを認めた。
ソ連軍の前哨線だろうか。民家だろうか。
民家に賭けることにした。ぬかるみに足はもつれたが、わたしはいっしんに灯りを目指した。
賭けの半分は成功した。そこは一軒のあばら家だった。窓から明かりが漏れていたのだ。
ドアを叩いた。この家の主がクレムリンに忠誠を誓う正直なロシア人ではないことを祈るばかりだ。
「誰だい」
中からはロシア語で返事が来た。女のものだったが、そのしゃがれた声からすると、老婆のようだ。
「助けてください。水か食べ物……」
「少数民族にやる食い物はないね」
「少数民族じゃありません」
ドアがわずかに開いた。漏れていた灯りは帯のように広がった。
「たしかに少数民族じゃないね。中国人か日本人か、東洋人の顔をしている。だけど」
わたしは、下腹のあたりに伸びてきた影を認めた。影……それは拳銃だった。見たところ、それはモーゼルによく似ていた。レバーを切り替えると全自動になるあれだ。わたしは両手を上げた。一発でも弾丸が当たれば死にかねないところに、機関銃を持ってくるのは卑怯だ、といいたかった。
しゃがれ声は続けた。
「中国人に用はないよ。日本人にはもっと用がない。黙って逃げたら、中国人なら見逃すが、日本人なら蜂の巣だよ」
「日本人にどんな恨みがあるんですか」
「あたしの何番目になるかわからない連れ合いは、この間の戦争で奉天にいたんだよ」
奉天。日露戦争での決戦が行われた、両軍合わせて二万人以上が死んだ激戦地である。ひどい戦いだった。わたしはその場にいたからよく知っている。
「だからといって、わたしに銃を向けて事態が変わるんですか」
「お前さんはなんのためにここにいる」
「いたくているわけじゃありません。この戦争を始めたやつをぶん殴ろうと思ってヨーロッパに向かう途中、道に迷って帰るところです」
悪い癖が出た。気の利いたことをいいたくなったのだ。
「この戦争を始めたやつとは?」
「ヒトラーを殴ろうと思ったのですが、噂じゃつい先日死んだそうで。だからルーズベルトかチャーチルを殴ることにしたのですが、あいにくと海路がふさがっている。しかもルーズベルトも先日死んで。しかたがないからスターリンを殴りに行ったら道に迷い、こうなったら日本へ帰って石原莞爾か東條英機を殴ろうと」
扉が大きく開いた。腰の曲がった老婆が、モーゼルを握って立っていた。
「こういうときでもユーモア精神を失わない男は好きだよ」
なにが幸いするかわからない。
「日本人だったら、どうせボルシェビキに追われているんだろう? あたしゃ日本人も嫌いだが、ボルシェビキはもっと嫌いでね」
助かった……。
わたしはへたへたとその場にくずおれていた。
気がついたときには、わたしはベッドに寝かされていた。その隣では、老婆がカードを使って何やらやっていた。
「あの……」
「あんた人間じゃないね」
どきっとした。もしかしたらこの老婆は、わたしの知らない血族のひとりか?
「そしてあんたはあたしらの同類でもない」
観念した。
「あなたはどこの血族なんですか」
「血族?」
老婆はにいっと笑った。
「あんたらの同類じゃないっていったろう。あたしはただの、バーバ・ヤガーだよ」
「魔女の婆さん、ですか」
バーバ・ヤガーとは、ロシアの昔話によく出てくる魔女の老婆だ。うすに乗り、片手に持った杵を漕いで宙を飛び、もう片方の手で握った箒で、自分が通った跡をならして消す。
どうやら冗談のようだ。わたしは脱力感を覚えた。
「そしてあんたは、あたしに贈り物を届けに来た、とカードはいっておる」
「贈り物?」
わたしは首をひねった。
老婆はわたしの不信感をあおるように続けた。
「安心しな。代価は払う。お前さんの命でどうかね」
反論しようにも、モーゼル相手ではそれこそ命にかかわる。ままよ。わたしはベッドに寝たまま、頭の後ろで腕を組んだ。
「わたしはなにをすればいいんですか」
老婆は立ち上がった。腰をしゃんと伸ばせば、かなり背は高くなるらしい。老婆にしては、けっこう健康そうな身体の持ち主……。
わたしは目を見開いた。
そこに立っていたのは、妖艶な美女だったのだ。
「バーバ・ヤガー……」
女は微笑んだ。それだけで色気がにじみ出る。
「あたしにはほかの名前もあるのよ。もう誰もその名で呼んでくれる人はいなくなったけれどね。あたしを本当に愛して信じてくれた最後の人は、奉天の会戦で……」
女は着ていたドレスを脱いだ。素晴らしいシルエットが、ろうそくの灯りに浮かび上がった。
「だからあたしは、殺してくれる誰かが必要だったのよ……この世から、きれいさっぱり存在を消してくれる誰かが……」
女はわたしの寝ているベッドに滑り込んできた。
そこから先の記憶はない。
再び気がついたときは、わたしは日本軍の陣地からそう遠くないところに倒れていた。
唇をなめると、灰の味がした。
…………
「なにテレビのニュースを見ながらぼーっとしてるのさ」
ロビンが、あきれたようにいった。
「昔のことを思い出していたんだ」
「昔?」
「大東亜戦争末期のころだ」
「へえ。なにか、友達のためになることしたの?」
「わたしはニーチェのいう通り、能動的ニヒリストになろうとしたんだ。すべての価値を顚倒せよ、ってやつだ」
ロビンは眉根を寄せた。
「それで? 価値は顚倒できたの?」
「ある意味成功した。日本の価値観は、三ヶ月ののちには徹底的な顚倒を遂げる。戦争万歳、大日本帝国万歳、から、平和万歳、日本国憲法万歳、へね」
わたしは唇を噛んだ。そうだ。わたしのしたことは、ある意味で大失敗だったのだ。わたしが持ち帰った、ソ連は戦争をやる気でいっぱいだ、一式中戦車を踏みつぶすような怪物戦車が、すぐそこに迫りつつある、という情報は、上官からの鉄拳で報われたのだ。
スターリンは大人物だ、日本の味方であるソ連がそのようなたわけたことをするわけがない、貴様の目は節穴だ、アカに騙されたとんまの間抜けだ、というのがその答えだった。
その上官は、腹心と集積物資とともに、わたしが営倉に入れられたその日のうちに満州を脱出したそうだ。
同族の救援により、わたしは脱獄し、その場にいた民間人たちにソ連の脅威を説き、一刻も早い脱出をするよううながしたが、鉄道輸送は規制されており、同族の力を使っても、避難させるには限界があった。
わたしはおごそかな声でロビンにいった。
「それでもわたしが行った価値の顚倒は、無駄ではなかったと思う。戦争なんてしでかすやつは、ハーバードを首席で出たとしても、ただの阿呆だ。日本を戦争ができるように改造しようなんていうやつは、頭がいかれてるんだ。そんなやつを規制するために、わたしはあの年の価値の顚倒を全面的に支持する」
「難しい言葉使ってるけどさ」
ロビンはペンを空中で器用に回した。妙なところで念動力を使うやつだ。
「どうせ、また誰か、女のことでも考えてたんじゃないの? 『オスカー・ホモルカを残念な感じにした人みたいね』なんていわれてさ」
「古い役者知ってるな、お前。その歳なら、よほどの映画マニアでもあまり知らないぞその人。でも、あの人が映画を見ていたら、たぶんそんなことを……」
わたしははっと気づいた。
「やっぱり女のことだったんだね」
ロビンは冷酷に指摘した。わたしは返答に窮した。
「え、まあ、その、なんだ、戦争や憲法というものは、非常に難しい、デリケートな存在であって……」
「知らない!」
念動力でクッションが飛んできた。もろに顔面で受け止めたわたしは、しばし口と鼻とに押し付けられたクッションにより、呼吸困難を起こしたのであった。
だが、わたしは……。
…………
一九四五年五月三日。
わたしはシベリアの大地をさまよっていた。雪解けもひと段落したシベリアは、ある意味冬よりもさらに歩きにくい土地になっていた。氷が溶けると水になる。行き場がない水は水たまりを作るのだ。当然、辺りは湿地また湿地である。泥濘に足を取られ、冬眠から目覚めて思うがままに暴れる毒虫の群れは、叩きつけてくる雪や風よりもうっとうしかった。
この戦争が始まってすぐに徴兵され、わたしは満州国、今の中国東北部に飛ばされた。外国人の血が混じっていることは、この状況下ではマイナスにしか働かなかった。帝国陸軍にはふさわしくなき存在、というわけだ。わたしは毎日のように殴られ、殴られ、殴られた。名前を変えながら長生きしているせいで、日清戦争にも日露戦争にも従軍させられた身としては、驚くことではなかったが、軍隊というものに対してシンパシーを抱く気分にはなれなかった。
そして今は、この顔を買われて軍事探偵というわけだ。軍事探偵、すなわちスパイである。捕まったら最後、絞首刑か銃殺か、それとも戦車に踏まれるのかは知らないが、死刑は免れない任務だ。他の同族のように念動力が使えれば、なんということもない任務なのかもしれないが、ちょっとした古武術の技以外に身を守る武器がなにもないわたしには、生きてふたたび日本の地が踏めるかどうかすらわからなかった。
たしかにわたしが、同族に日本軍の最前線での情報を流していたことは認める。しかしまさか、ソ連の国境を越えて最前線の部隊の状況を調べてくるというのは、血族全体にとっても非常に有益であるからがんばって行ってこい、といわれるとは思わなかった。なんでも、帝政ロシアが倒れて共産党がソ連を建国した時に、かつて同族が持っていた人脈と諜報組織が壊滅的な打撃を受け、いまだに再建できていないということらしい。これは、潜入先に支援してくれる同族が誰もいない、ということを意味する。
半世紀生きてきてロシア語がぺらぺらであった自分の無駄な知識欲をこれ以上呪ったことはない。顔を見たこともないふた親もふた親である。外国語に対する耳の良さのかわりに、念動力を授けてくれればよかったのに。
わたしは土民の服を着せられ、銃とわずかな食料とわずかなルーブルを持たされて国境線を越えた。
最前線の様子は、大日本帝国の臣民たるわたしには頭を抱えるしかないさまを呈していた。部隊は隠密裏にだが、活発に活動していた。ドイツの運命が風前の灯だったことはわかっていたが、ベルリン陥落のニュースが、このシベリアまで届いていた。ヨーロッパから部隊が引き抜かれてこの中国戦線にやってくるのだ。竜巻のようにモスクワに迫ったあの無敵のドイツ軍の猛攻に耐えた、鍛え抜かれた精鋭戦車部隊が。ノモンハンでわが軍の誇る重戦車を、生卵のように砕いて潰したあのソ連戦車がやってくる。わが軍の戦車はあれからほとんど進化していないが、補給拠点に一両だけ先に来た敵の最新鋭戦車を見て、わたしは小便をもらしそうになった。なんてばかでかい戦車だ。しかも、なんてばかでかい戦車砲を積んでいるのだ。ソ連の戦前からの冶金技術の高さは貿易商に勤めていたわたしも知っている。そこから考えれば、装甲の厚さは……。
間違いない。満州国どころの騒ぎではない。下手をしたら日本本土にもソ連軍がなだれ込んでくる。アメリカと割譲、などとなったらどうなるかは想像がついた。まだ平和だったころ、わたしよりも長生きしている同族から、そいつのおばあちゃんが十八世紀のポーランド分割について話してくれたことをまた聞きしたからだ。
先に述べたとおり、軍や陛下に対しての忠誠心などは持ってはいなかったが、一般市民である隣人たちが傷つくのを黙って見過ごすわけにはいかなかった。生きて前線に帰り、軍民挙げての中国からの総撤退と、アメリカやイギリスに対する即時の無条件降伏を進言するのだ。ロシア人の自称共産主義者が噂話をする内容から鑑みれば、まだ資本主義国のほうが降伏対象としてはマシである。
そっと脱け出せればよかったのだが……。
逃げ出す際にわたしはどこかでドジを踏んだらしい。追っ手がかかったのだ。
武術の修行で身体は鍛えていたつもりだったが、それでも飲まず食わず眠らず休まずの逃避行は骨身にこたえた。
五日ののちには方向感覚や精神の安定すらおぼつかなくなっていた。あまりにだだっ広いところをうろつくと、知的生物というものはどこかが壊れるらしい。
夜だった。曇天で、天測ができるわたしも自分がどこにいるか調べる手段がなかった。
このままここで倒れて眠れば……わたしの疲れは回復するだろうが、それはソ連の警邏隊に見つかって拷問のうえで英霊になることを意味した。拷問も英霊もごめんである。
わたしは顔を上げた。ふと、目が、灯りのようなものを認めた。
ソ連軍の前哨線だろうか。民家だろうか。
民家に賭けることにした。ぬかるみに足はもつれたが、わたしはいっしんに灯りを目指した。
賭けの半分は成功した。そこは一軒のあばら家だった。窓から明かりが漏れていたのだ。
ドアを叩いた。この家の主がクレムリンに忠誠を誓う正直なロシア人ではないことを祈るばかりだ。
「誰だい」
中からはロシア語で返事が来た。女のものだったが、そのしゃがれた声からすると、老婆のようだ。
「助けてください。水か食べ物……」
「少数民族にやる食い物はないね」
「少数民族じゃありません」
ドアがわずかに開いた。漏れていた灯りは帯のように広がった。
「たしかに少数民族じゃないね。中国人か日本人か、東洋人の顔をしている。だけど」
わたしは、下腹のあたりに伸びてきた影を認めた。影……それは拳銃だった。見たところ、それはモーゼルによく似ていた。レバーを切り替えると全自動になるあれだ。わたしは両手を上げた。一発でも弾丸が当たれば死にかねないところに、機関銃を持ってくるのは卑怯だ、といいたかった。
しゃがれ声は続けた。
「中国人に用はないよ。日本人にはもっと用がない。黙って逃げたら、中国人なら見逃すが、日本人なら蜂の巣だよ」
「日本人にどんな恨みがあるんですか」
「あたしの何番目になるかわからない連れ合いは、この間の戦争で奉天にいたんだよ」
奉天。日露戦争での決戦が行われた、両軍合わせて二万人以上が死んだ激戦地である。ひどい戦いだった。わたしはその場にいたからよく知っている。
「だからといって、わたしに銃を向けて事態が変わるんですか」
「お前さんはなんのためにここにいる」
「いたくているわけじゃありません。この戦争を始めたやつをぶん殴ろうと思ってヨーロッパに向かう途中、道に迷って帰るところです」
悪い癖が出た。気の利いたことをいいたくなったのだ。
「この戦争を始めたやつとは?」
「ヒトラーを殴ろうと思ったのですが、噂じゃつい先日死んだそうで。だからルーズベルトかチャーチルを殴ることにしたのですが、あいにくと海路がふさがっている。しかもルーズベルトも先日死んで。しかたがないからスターリンを殴りに行ったら道に迷い、こうなったら日本へ帰って石原莞爾か東條英機を殴ろうと」
扉が大きく開いた。腰の曲がった老婆が、モーゼルを握って立っていた。
「こういうときでもユーモア精神を失わない男は好きだよ」
なにが幸いするかわからない。
「日本人だったら、どうせボルシェビキに追われているんだろう? あたしゃ日本人も嫌いだが、ボルシェビキはもっと嫌いでね」
助かった……。
わたしはへたへたとその場にくずおれていた。
気がついたときには、わたしはベッドに寝かされていた。その隣では、老婆がカードを使って何やらやっていた。
「あの……」
「あんた人間じゃないね」
どきっとした。もしかしたらこの老婆は、わたしの知らない血族のひとりか?
「そしてあんたはあたしらの同類でもない」
観念した。
「あなたはどこの血族なんですか」
「血族?」
老婆はにいっと笑った。
「あんたらの同類じゃないっていったろう。あたしはただの、バーバ・ヤガーだよ」
「魔女の婆さん、ですか」
バーバ・ヤガーとは、ロシアの昔話によく出てくる魔女の老婆だ。うすに乗り、片手に持った杵を漕いで宙を飛び、もう片方の手で握った箒で、自分が通った跡をならして消す。
どうやら冗談のようだ。わたしは脱力感を覚えた。
「そしてあんたは、あたしに贈り物を届けに来た、とカードはいっておる」
「贈り物?」
わたしは首をひねった。
老婆はわたしの不信感をあおるように続けた。
「安心しな。代価は払う。お前さんの命でどうかね」
反論しようにも、モーゼル相手ではそれこそ命にかかわる。ままよ。わたしはベッドに寝たまま、頭の後ろで腕を組んだ。
「わたしはなにをすればいいんですか」
老婆は立ち上がった。腰をしゃんと伸ばせば、かなり背は高くなるらしい。老婆にしては、けっこう健康そうな身体の持ち主……。
わたしは目を見開いた。
そこに立っていたのは、妖艶な美女だったのだ。
「バーバ・ヤガー……」
女は微笑んだ。それだけで色気がにじみ出る。
「あたしにはほかの名前もあるのよ。もう誰もその名で呼んでくれる人はいなくなったけれどね。あたしを本当に愛して信じてくれた最後の人は、奉天の会戦で……」
女は着ていたドレスを脱いだ。素晴らしいシルエットが、ろうそくの灯りに浮かび上がった。
「だからあたしは、殺してくれる誰かが必要だったのよ……この世から、きれいさっぱり存在を消してくれる誰かが……」
女はわたしの寝ているベッドに滑り込んできた。
そこから先の記憶はない。
再び気がついたときは、わたしは日本軍の陣地からそう遠くないところに倒れていた。
唇をなめると、灰の味がした。
…………
「なにテレビのニュースを見ながらぼーっとしてるのさ」
ロビンが、あきれたようにいった。
「昔のことを思い出していたんだ」
「昔?」
「大東亜戦争末期のころだ」
「へえ。なにか、友達のためになることしたの?」
「わたしはニーチェのいう通り、能動的ニヒリストになろうとしたんだ。すべての価値を顚倒せよ、ってやつだ」
ロビンは眉根を寄せた。
「それで? 価値は顚倒できたの?」
「ある意味成功した。日本の価値観は、三ヶ月ののちには徹底的な顚倒を遂げる。戦争万歳、大日本帝国万歳、から、平和万歳、日本国憲法万歳、へね」
わたしは唇を噛んだ。そうだ。わたしのしたことは、ある意味で大失敗だったのだ。わたしが持ち帰った、ソ連は戦争をやる気でいっぱいだ、一式中戦車を踏みつぶすような怪物戦車が、すぐそこに迫りつつある、という情報は、上官からの鉄拳で報われたのだ。
スターリンは大人物だ、日本の味方であるソ連がそのようなたわけたことをするわけがない、貴様の目は節穴だ、アカに騙されたとんまの間抜けだ、というのがその答えだった。
その上官は、腹心と集積物資とともに、わたしが営倉に入れられたその日のうちに満州を脱出したそうだ。
同族の救援により、わたしは脱獄し、その場にいた民間人たちにソ連の脅威を説き、一刻も早い脱出をするよううながしたが、鉄道輸送は規制されており、同族の力を使っても、避難させるには限界があった。
わたしはおごそかな声でロビンにいった。
「それでもわたしが行った価値の顚倒は、無駄ではなかったと思う。戦争なんてしでかすやつは、ハーバードを首席で出たとしても、ただの阿呆だ。日本を戦争ができるように改造しようなんていうやつは、頭がいかれてるんだ。そんなやつを規制するために、わたしはあの年の価値の顚倒を全面的に支持する」
「難しい言葉使ってるけどさ」
ロビンはペンを空中で器用に回した。妙なところで念動力を使うやつだ。
「どうせ、また誰か、女のことでも考えてたんじゃないの? 『オスカー・ホモルカを残念な感じにした人みたいね』なんていわれてさ」
「古い役者知ってるな、お前。その歳なら、よほどの映画マニアでもあまり知らないぞその人。でも、あの人が映画を見ていたら、たぶんそんなことを……」
わたしははっと気づいた。
「やっぱり女のことだったんだね」
ロビンは冷酷に指摘した。わたしは返答に窮した。
「え、まあ、その、なんだ、戦争や憲法というものは、非常に難しい、デリケートな存在であって……」
「知らない!」
念動力でクッションが飛んできた。もろに顔面で受け止めたわたしは、しばし口と鼻とに押し付けられたクッションにより、呼吸困難を起こしたのであった。
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~ Comment ~
Re: LandMさん
休む前は暗い作品ばっかりでしたからね(^^;)
ちょっとは明るい話を……と思いましたが、やっぱりどこか暗くなってしまうのでした。
世相かなあ(^^;)
ハードボイルド小説のヒーローにはユーモア精神が不可欠だと思います。シリアスに考えると頭がどうかなってしまう現実に単身立ち向かうわけですから……。
ちょっとは明るい話を……と思いましたが、やっぱりどこか暗くなってしまうのでした。
世相かなあ(^^;)
ハードボイルド小説のヒーローにはユーモア精神が不可欠だと思います。シリアスに考えると頭がどうかなってしまう現実に単身立ち向かうわけですから……。
NoTitle
上手く言えないんですけど人間であれば姿かたちが結構変わっちゃうような年月を彼らは一定の姿でその時々の情勢や風俗に合わせて生きてるんだけどやっぱり年月が経ってるっていうのが好きなので、なにが言いたいかというと面白かったです!と!(力強く
バーバ・ヤガーさん切ないなあと思いつつ残念さんとロビンちゃんの組み合わせにほっこり。
バーバ・ヤガーさん切ないなあと思いつつ残念さんとロビンちゃんの組み合わせにほっこり。
NoTitle
ポールさんのユーモア全開で大好きですねえ。
こういう作品は。
日本人はあの時期嫌われる人種でしたからねえ。
( 一一)。
憲法記念日なのは確かに忘れてはいけないことですね。
・・・と最近よく思うようになりました。
こういう作品は。
日本人はあの時期嫌われる人種でしたからねえ。
( 一一)。
憲法記念日なのは確かに忘れてはいけないことですね。
・・・と最近よく思うようになりました。
- #13337 LandM
- URL
- 2014.05/06 21:05
- ▲EntryTop
Re: カテンベさん
「正体があんないい女だとわかっていたらもうちょっと対応のしかたもあったのに……」
「そんなことを残念がっているから嫁の来てがないんだよ」
「いわないでくれロビン」
毎回同じパターンでもつまらないと思って変化球を投げてみたわけですが、ワイルドピッチになっちまったようです(^^;) 慣れないナックルは投げるもんじゃない(^^;)
「そんなことを残念がっているから嫁の来てがないんだよ」
「いわないでくれロビン」
毎回同じパターンでもつまらないと思って変化球を投げてみたわけですが、ワイルドピッチになっちまったようです(^^;) 慣れないナックルは投げるもんじゃない(^^;)
なんかわからないけど違和感を感じていたのですが。
何故だか死にたがる女性が寄ってくる残念な男、て
たまたま知り合って惹かれてもーた女性に死を与えてしまう設定かと思てたのですが、今回のはそれほど惹かれてたっぽく思えないの
なのであんまり残念な感じがしなかったんですけど
報告をまともに受け止められなかったのが残念なのですか?
何故だか死にたがる女性が寄ってくる残念な男、て
たまたま知り合って惹かれてもーた女性に死を与えてしまう設定かと思てたのですが、今回のはそれほど惹かれてたっぽく思えないの
なのであんまり残念な感じがしなかったんですけど
報告をまともに受け止められなかったのが残念なのですか?
- #13326 カテンベ
- URL
- 2014.05/06 11:20
- ▲EntryTop
Re: いもかるびさん
少なくとも5月3日が「憲法記念日」だと認識されているうちはまだ大丈夫だと思います。
戦前のような認識になったら……「戦後」を懐かしく思うのでしょうね。
とほほ。
戦前のような認識になったら……「戦後」を懐かしく思うのでしょうね。
とほほ。
NoTitle
一通り読みこんで、5月3日とはなんだったかと暦を見なおし
そうだ、憲法記念日だったんだと気がつきました。
5月5日の柏餅の日くらいしか記憶になかったんですが
つまりそれだけ憲法が作用できているんでしょうか。
そうだ、憲法記念日だったんだと気がつきました。
5月5日の柏餅の日くらいしか記憶になかったんですが
つまりそれだけ憲法が作用できているんでしょうか。
- #13311 いもかるび
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- 2014.05/05 02:07
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Re: 卯月 朔さん
「風俗」……この言葉は使うとはじかれます。じゃあ「風俗」といいたいときはどうするんだ、というのはごもっともですが、「社会の流行」あたりに言い換えておく方が安全です。というより、この言葉を変な意味で使いやがったのは誰だ。とほほ。
「殺」……「殺人事件」以外でこの言葉を使うのはNGです。「命を奪う」「あの世へ行かせる」などの言葉で言い換えをはかりましょう。まさか「黙殺」という言葉まではじかれるとは思ってもいなかったぜ。
「フェラ」……なにをそんなえっちな言葉を、と思われるでしょうが、これが禁止ワードにひっかかっているおかげで、わたしはよそ様のサイトに「吸血鬼ノスフェラトゥ」と書けなかったんだ! とほほほ。
ちなみにこのような、禁止ワードをバリバリ使っているようなコメントでも、ブログ管理者が「迷惑コメント」の欄から、対象となるコメントを「承認」すれば、今回の卯月朔さんのように自分のブログに表示させることも可能です。
……それにしても、今回はちょっとハズしたかのう。うむむ。もうちょっと恋愛シーンを凝ったほうがよかったのかのう。反省……。