「ショートショート」
その他
幸福
「中原さん、それはなあに?」
同僚の質問に、看護師の中原すみえは抱えた薄い板のような荷物を掲げてみせた。
「レコードよ。ちょうどそこでやっていたフリーマーケットに安い出ものがあったので、買ってきたの」
「安井さんのために?」
「そう。あのおじいさん。もう長くないから、最後の思い出に、ってね」
中原すみえは廊下を歩きながら、笑った。
この、身よりのない末期患者専門の老人ホームにおいて、入所者のひとりである安井老人は、皆に好かれていた。もともとは、プロのピアニスト兼クラシック音楽評論家として鳴らしたらしい人物で、ホームでホコリをかぶっていたおもちゃの電子ピアノを演奏して、周囲を瞠目させた逸話があった。
しかし、安井老人がほんとうに大事にしていたのは、楽器ではなかった。古いレコードプレーヤーがそれだった。かけるレコードもないというのに、捨てずにひたすらがんばっていたのだ。死ぬ前に、天がかけるレコードを持ってきてくれる、というのが老人の口癖だった。その彼も寝たきりになって今日で一週間になる。
同僚もそれを知っていたうえで話していた。
「えらいわね、あなた。でも高かったんでしょう?」
中原すみえは首を振った。
「いいえ、百円。クラシックのレコードとは思えない値段よ。いい買い物でしょ?」
「おい、面白そうな話をしてるじゃないか。それがレコード?」
当番医の宗方が声をかけてきた。彼も頭に白いものが混じっている。
「そうです。先生もご存知ですか?」
「まあ、安井さんの本をちらちらと見ただけだがね。ちょっと、そのレコードのジャケットを見せてくれないか? ……ああ、これは、安井さんには向かないや」
「どうしてです?」
「安井さんの本に書いてあったよ。あの人、けなすときはぼろくそに酷評するからな。このレコードは、第一楽章半ばの三小節だけは飛び切りすばらしいが、あとはクズのかたまりだって」
「でも、せっかく買ってきたんだし、このままじゃ、プレーヤーが無駄になるし……」
「それにしてもだな」
宗方がそういったとき、よたよたと入所者の一人の老婆がやってきた。走ってきたつもりらしい。
「先生……先生、たいへんじゃ。安井さんの様子が……」
「なんだって?」
安井老人には、打つ手がないということだけがよくわかる診察だった。
「集中治療室に入れるのは、昔の安井さんが拒否していたな。このまま、ここで最期のときを迎えたほうがいいだろう。中原さん?」
「はい」
着替えが済んだ中原すみえは、淋しそうに返事をした。
「あのレコードを持ってきてくれないか。安井さんは、いいところあと一時間だ。中身はなんであれ、レコードをかけて送ってあげようじゃないか」
「はい! ……先生、使い方わかるんですか」
「昭和生まれをバカにするもんじゃない」
初めて聞くレコードの音色は美しかった。ある意味CDよりもいいわね、と中原すみえは思った。
よかったわね、安井さん。
「これでクズの集まり、なんていうんだから芸術家はむずかしいな」
宗方も苦笑いした。
「さて、ちょっと来てくれ。今後の仕事なんだが」
二人は部屋を出て行き、中にはベッドの安井老人だけが残された。
中原すみえと宗方医師が戻ってきたとき、レコードにも安井老人にも異変が起こっていた。
「曲が……変ですよ、先生」
宗方は舌打ちをした。
「針飛びだ。レコードの溝から針が飛び出し、同じ部分を何度も繰り返す」
中原すみえは宗方の言葉をろくに聞いていなかった。
「先生! 安井さんが!」
「しまった……最後までついているべきだったか」
すでに息をしていない安井老人の目からは、涙の線が一筋流れていた。
中原すみえも、宗方医師も気づいていなかったが。
針が飛び、レコードが延々と繰り返し続けていたのは、とびきり素晴らしい「第一楽章半ばの三小節」だった。
最期の瞬間、老人は幸福だったのである。
同僚の質問に、看護師の中原すみえは抱えた薄い板のような荷物を掲げてみせた。
「レコードよ。ちょうどそこでやっていたフリーマーケットに安い出ものがあったので、買ってきたの」
「安井さんのために?」
「そう。あのおじいさん。もう長くないから、最後の思い出に、ってね」
中原すみえは廊下を歩きながら、笑った。
この、身よりのない末期患者専門の老人ホームにおいて、入所者のひとりである安井老人は、皆に好かれていた。もともとは、プロのピアニスト兼クラシック音楽評論家として鳴らしたらしい人物で、ホームでホコリをかぶっていたおもちゃの電子ピアノを演奏して、周囲を瞠目させた逸話があった。
しかし、安井老人がほんとうに大事にしていたのは、楽器ではなかった。古いレコードプレーヤーがそれだった。かけるレコードもないというのに、捨てずにひたすらがんばっていたのだ。死ぬ前に、天がかけるレコードを持ってきてくれる、というのが老人の口癖だった。その彼も寝たきりになって今日で一週間になる。
同僚もそれを知っていたうえで話していた。
「えらいわね、あなた。でも高かったんでしょう?」
中原すみえは首を振った。
「いいえ、百円。クラシックのレコードとは思えない値段よ。いい買い物でしょ?」
「おい、面白そうな話をしてるじゃないか。それがレコード?」
当番医の宗方が声をかけてきた。彼も頭に白いものが混じっている。
「そうです。先生もご存知ですか?」
「まあ、安井さんの本をちらちらと見ただけだがね。ちょっと、そのレコードのジャケットを見せてくれないか? ……ああ、これは、安井さんには向かないや」
「どうしてです?」
「安井さんの本に書いてあったよ。あの人、けなすときはぼろくそに酷評するからな。このレコードは、第一楽章半ばの三小節だけは飛び切りすばらしいが、あとはクズのかたまりだって」
「でも、せっかく買ってきたんだし、このままじゃ、プレーヤーが無駄になるし……」
「それにしてもだな」
宗方がそういったとき、よたよたと入所者の一人の老婆がやってきた。走ってきたつもりらしい。
「先生……先生、たいへんじゃ。安井さんの様子が……」
「なんだって?」
安井老人には、打つ手がないということだけがよくわかる診察だった。
「集中治療室に入れるのは、昔の安井さんが拒否していたな。このまま、ここで最期のときを迎えたほうがいいだろう。中原さん?」
「はい」
着替えが済んだ中原すみえは、淋しそうに返事をした。
「あのレコードを持ってきてくれないか。安井さんは、いいところあと一時間だ。中身はなんであれ、レコードをかけて送ってあげようじゃないか」
「はい! ……先生、使い方わかるんですか」
「昭和生まれをバカにするもんじゃない」
初めて聞くレコードの音色は美しかった。ある意味CDよりもいいわね、と中原すみえは思った。
よかったわね、安井さん。
「これでクズの集まり、なんていうんだから芸術家はむずかしいな」
宗方も苦笑いした。
「さて、ちょっと来てくれ。今後の仕事なんだが」
二人は部屋を出て行き、中にはベッドの安井老人だけが残された。
中原すみえと宗方医師が戻ってきたとき、レコードにも安井老人にも異変が起こっていた。
「曲が……変ですよ、先生」
宗方は舌打ちをした。
「針飛びだ。レコードの溝から針が飛び出し、同じ部分を何度も繰り返す」
中原すみえは宗方の言葉をろくに聞いていなかった。
「先生! 安井さんが!」
「しまった……最後までついているべきだったか」
すでに息をしていない安井老人の目からは、涙の線が一筋流れていた。
中原すみえも、宗方医師も気づいていなかったが。
針が飛び、レコードが延々と繰り返し続けていたのは、とびきり素晴らしい「第一楽章半ばの三小節」だった。
最期の瞬間、老人は幸福だったのである。
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~ Comment ~
本当にこういうことがあるんですかね・・・
僕もおばあちゃんがいたんですが・・・
はい。
最後はとうとうボケてしまって・・・
幸せに逝ったんでしょうか僕のおばあちゃんは。
僕もおばあちゃんがいたんですが・・・
はい。
最後はとうとうボケてしまって・・・
幸せに逝ったんでしょうか僕のおばあちゃんは。
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天の配剤というか、人間の防衛機構というかは別として、すべての人間には死の瞬間を幸福に迎えるような能力があるに違いない、とわたしは信じています。
天もそのくらいのことはしてくれてもいいと思います。
だからネミエルさんのお祖母さまも幸せに逝けたに違いありません。
宗教者でないのでこれくらいのことしかいえません。すみません。