「ナイトメアハンター桐野(二次創作長編小説シリーズ)」
3 吸血鬼を吊るせ(完結)
吸血鬼を吊るせ 2-16
16
森村探偵事務所の口座に手付金を振り込んでから、診療所に向かった。受付で、島田女史に頭を下げた。つられて、向こうも頭を下げた。目を合わせると、女史はびっくりしたような顔をしていた。
今日もまた例によってマスコミ連中の襲撃を受けたが、数は昨日に比べてもまだ少なかった。この調子で減ってくれることを切に望む次第だ。
島田女史にはこれから山と殺到するであろう電話に対応していただかなくてはならない。わたしが頭を下げるのも当然だった。本来ならばわたしが電話を取るべきなのだが、押しが弱いわたしが対応するといつの間にか仕事を引き受けてしまいかねないのである。
「あの子はもう来てるかい」
あの子とは、この間やって来た高校生のことである。
「いいえ、先生。小野瀬さんは、まだいらっしゃっておりません」
「わたしがあんなことに遭ったから、ここに来る気が失せたのかな」
「単に予約の刻限まで時間が三十分もあるだけです」
わたしは時計を見た。二時半。その通りだった。
「早く着きすぎたかな」
「このくらいが普通ですわ。先生、準備がいろいろとおありなのでは」
「そうだな」
準備といってもほとんどすることはなかった。白衣に着替え、小野瀬君についての資料(この前来てもらったときにこしらえたものだ)をもう一度読むことくらいだ。こんなことになるのであればもっと突っ込んだ話を聞くのだった、と思っても、典型的な後の祭りというやつである。あまり彼に何度もここを訪れさせるのも、今の状況下では精神状態に逆効果であろうから、早急にできるかぎりのことをしなければなるまい。
わたしはカルテが入ったファイル(パソコンの、ではない)を開いて読み始めた。その全ては頭の中に入っているが、また新たな発見があるかもしれない。
小野瀬孝史。十七歳。もうすぐ十八の誕生日を迎える。両親健在。中学二年の妹あり。天文部所属。得意な科目は数学。現在の偏差値の一ランク上の大学を目指して目下勉強中だが、夜な夜な見るという悪夢のために勉強に集中できなくて困っている。どことも知れない街を歩いていると、いつの間にか足元から粘りつく真っ黒な液体がからみついてきて、肩まで来たところで絶叫して目が覚める、という夢だそうだ。
わたしの判断するところでは、受験勉強のしすぎによる一時的な精神の疲れにすぎず、ここでわたしと話をして、胸のうちを打ち明けることがいちばん確実な治療法であろうと思われた。
よくある話だ。
わたしはファイルを閉じた。そろそろ来る時間だ。
「おのせさん、おのせさーん、どうぞ」
島田女史の声とともに入ってきた小野瀬孝史を見て、わたしはショックを受けた。
三日前とは打って変わった、人間世界の暗黒面でも覗いてきたかのような表情をしている。精神に深刻な危機がせまっていることの証だ。
内心の動揺を悟られないよう、自分にできる限りのポーカーフェイスを作った。
「小野瀬さん、どうですか、調子は?」
「よくないです、先生。またあの悪夢を見るんです。毎日毎日、汗をぐっしょりかいて、十五分と眠れずに目が覚めるんです。それを繰り返し、疲労困憊して朝を迎えるんです。なんとかしてください」
言葉どおり疲れ切った様子だった。どうやらハイエナのようなマスコミ連中も、この姿を見て、インタビューを断念したらしい。不幸中の幸いというやつだ。
「まだ、黒い液体が肩まで来るのですか?」
「いえ、もうそんなもんじゃないです。黒い粘液は顔まで這い上がってきて、口から目から鼻の穴から、ぼくの身体に入り込んでこようとするんです」
わたしは心の中で悪態をついた。夢魔のしわざとしたら事態は一刻を争うかもしれない。
「それでは、この三日間に小野瀬さんに起こったことをお話し願えませんか」
「それが、なんの……」
「あらゆる情報が必要になるかもしれないからです。お願いします」
「別段、たいしたことはなかったですよ」
小野瀬孝史は語り出した。確かに、たいしたことはなにも起こっていなかった。
それでも辛抱強くメモを取りながら話を聞いた。情報不足ゆえに夢から帰れなくなってはどうしようもない。
話は十五分で終わった。小野瀬孝史はよくしゃべったほうだと思う。
わたしは表情を崩さずにファイルを閉じた。本来だったらもっと時間をかけて話を聞き、情報面の後背を固めておくところだが、これ以上小野瀬孝史を宙ぶらりんの状態にして不安を与えるのもなんである。
出来る限りの誠実そうな声でいった。
「いいでしょう。夢に入ってみることにしましょう」
「あの……先生」
「なんですか?」
「先生が夢に入って、ぼくは、大丈夫ですか?」
「危険はあります。ですが、わたしは最善を尽くします。信じてください」
「でも……先生、難しい表情をしてますから」
顔に出る悪癖は直さなくてはと、わたしは密かに誓った。
「危険があるのは確かです。それを無視することはできません。しかし……」
「やらなければぼくの身体のほうが危険になる、ということですね」
「納得していただけますか」
「はい。先生、ぼくはなにをすればいいんですか」
「とりあえず、そこのベッドに寝てください。眠っていただきたいのです」
「眠れるかな」
「眠っていただかなければ夢には入れません、当り前ですが」
「あの夢を見ることになるんですよね」
「ええ。これが夢魔のしわざだとしたら、やつは絶対にまた現れます。そこを……」
「わかりました。先生、お願いします」
小野瀬孝史は意を決した口調でいった。
わたしは精一杯の厳粛な表情で小野瀬孝史をベッドに寝かせた。風邪をひかないように毛布をかける。
「睡眠薬はいりますか?」
「すみません。ください」
わたしは軽めの睡眠導入剤と、近くの自販機で買っておいたクリスタルガイザーのペットボトルを手渡した。
窓のブラインドを下ろして日光を遮る。まぶしかったら眠りにくいのと、カメラかなにかにのぞかれるのを避けるためだ。
ふつう人間が眠りに落ちるのには三十分ばかりかかる。強力な睡眠導入剤を使えばまた別だが、そんなことをしたら患者のほうにダメージが行きかねない。それに、あれは高価いのである。
わたしはファイルを読みながらただ、待った。
やがて薬が効いてきたのか、小野瀬孝史は目を閉じた。
完全に眠るまで辛抱強く待つ。
見ていると、呼吸が荒くなり、額に汗が浮いてきた。思ったより早い。それだけ、夢魔の力が強い証拠だ。
ぼやぼやしている時間はない。わたしは枕元の椅子に腰かけると、精神を集中して例の六角形を頭に思い描いた。
そのまま夢の中へと……。
森村探偵事務所の口座に手付金を振り込んでから、診療所に向かった。受付で、島田女史に頭を下げた。つられて、向こうも頭を下げた。目を合わせると、女史はびっくりしたような顔をしていた。
今日もまた例によってマスコミ連中の襲撃を受けたが、数は昨日に比べてもまだ少なかった。この調子で減ってくれることを切に望む次第だ。
島田女史にはこれから山と殺到するであろう電話に対応していただかなくてはならない。わたしが頭を下げるのも当然だった。本来ならばわたしが電話を取るべきなのだが、押しが弱いわたしが対応するといつの間にか仕事を引き受けてしまいかねないのである。
「あの子はもう来てるかい」
あの子とは、この間やって来た高校生のことである。
「いいえ、先生。小野瀬さんは、まだいらっしゃっておりません」
「わたしがあんなことに遭ったから、ここに来る気が失せたのかな」
「単に予約の刻限まで時間が三十分もあるだけです」
わたしは時計を見た。二時半。その通りだった。
「早く着きすぎたかな」
「このくらいが普通ですわ。先生、準備がいろいろとおありなのでは」
「そうだな」
準備といってもほとんどすることはなかった。白衣に着替え、小野瀬君についての資料(この前来てもらったときにこしらえたものだ)をもう一度読むことくらいだ。こんなことになるのであればもっと突っ込んだ話を聞くのだった、と思っても、典型的な後の祭りというやつである。あまり彼に何度もここを訪れさせるのも、今の状況下では精神状態に逆効果であろうから、早急にできるかぎりのことをしなければなるまい。
わたしはカルテが入ったファイル(パソコンの、ではない)を開いて読み始めた。その全ては頭の中に入っているが、また新たな発見があるかもしれない。
小野瀬孝史。十七歳。もうすぐ十八の誕生日を迎える。両親健在。中学二年の妹あり。天文部所属。得意な科目は数学。現在の偏差値の一ランク上の大学を目指して目下勉強中だが、夜な夜な見るという悪夢のために勉強に集中できなくて困っている。どことも知れない街を歩いていると、いつの間にか足元から粘りつく真っ黒な液体がからみついてきて、肩まで来たところで絶叫して目が覚める、という夢だそうだ。
わたしの判断するところでは、受験勉強のしすぎによる一時的な精神の疲れにすぎず、ここでわたしと話をして、胸のうちを打ち明けることがいちばん確実な治療法であろうと思われた。
よくある話だ。
わたしはファイルを閉じた。そろそろ来る時間だ。
「おのせさん、おのせさーん、どうぞ」
島田女史の声とともに入ってきた小野瀬孝史を見て、わたしはショックを受けた。
三日前とは打って変わった、人間世界の暗黒面でも覗いてきたかのような表情をしている。精神に深刻な危機がせまっていることの証だ。
内心の動揺を悟られないよう、自分にできる限りのポーカーフェイスを作った。
「小野瀬さん、どうですか、調子は?」
「よくないです、先生。またあの悪夢を見るんです。毎日毎日、汗をぐっしょりかいて、十五分と眠れずに目が覚めるんです。それを繰り返し、疲労困憊して朝を迎えるんです。なんとかしてください」
言葉どおり疲れ切った様子だった。どうやらハイエナのようなマスコミ連中も、この姿を見て、インタビューを断念したらしい。不幸中の幸いというやつだ。
「まだ、黒い液体が肩まで来るのですか?」
「いえ、もうそんなもんじゃないです。黒い粘液は顔まで這い上がってきて、口から目から鼻の穴から、ぼくの身体に入り込んでこようとするんです」
わたしは心の中で悪態をついた。夢魔のしわざとしたら事態は一刻を争うかもしれない。
「それでは、この三日間に小野瀬さんに起こったことをお話し願えませんか」
「それが、なんの……」
「あらゆる情報が必要になるかもしれないからです。お願いします」
「別段、たいしたことはなかったですよ」
小野瀬孝史は語り出した。確かに、たいしたことはなにも起こっていなかった。
それでも辛抱強くメモを取りながら話を聞いた。情報不足ゆえに夢から帰れなくなってはどうしようもない。
話は十五分で終わった。小野瀬孝史はよくしゃべったほうだと思う。
わたしは表情を崩さずにファイルを閉じた。本来だったらもっと時間をかけて話を聞き、情報面の後背を固めておくところだが、これ以上小野瀬孝史を宙ぶらりんの状態にして不安を与えるのもなんである。
出来る限りの誠実そうな声でいった。
「いいでしょう。夢に入ってみることにしましょう」
「あの……先生」
「なんですか?」
「先生が夢に入って、ぼくは、大丈夫ですか?」
「危険はあります。ですが、わたしは最善を尽くします。信じてください」
「でも……先生、難しい表情をしてますから」
顔に出る悪癖は直さなくてはと、わたしは密かに誓った。
「危険があるのは確かです。それを無視することはできません。しかし……」
「やらなければぼくの身体のほうが危険になる、ということですね」
「納得していただけますか」
「はい。先生、ぼくはなにをすればいいんですか」
「とりあえず、そこのベッドに寝てください。眠っていただきたいのです」
「眠れるかな」
「眠っていただかなければ夢には入れません、当り前ですが」
「あの夢を見ることになるんですよね」
「ええ。これが夢魔のしわざだとしたら、やつは絶対にまた現れます。そこを……」
「わかりました。先生、お願いします」
小野瀬孝史は意を決した口調でいった。
わたしは精一杯の厳粛な表情で小野瀬孝史をベッドに寝かせた。風邪をひかないように毛布をかける。
「睡眠薬はいりますか?」
「すみません。ください」
わたしは軽めの睡眠導入剤と、近くの自販機で買っておいたクリスタルガイザーのペットボトルを手渡した。
窓のブラインドを下ろして日光を遮る。まぶしかったら眠りにくいのと、カメラかなにかにのぞかれるのを避けるためだ。
ふつう人間が眠りに落ちるのには三十分ばかりかかる。強力な睡眠導入剤を使えばまた別だが、そんなことをしたら患者のほうにダメージが行きかねない。それに、あれは高価いのである。
わたしはファイルを読みながらただ、待った。
やがて薬が効いてきたのか、小野瀬孝史は目を閉じた。
完全に眠るまで辛抱強く待つ。
見ていると、呼吸が荒くなり、額に汗が浮いてきた。思ったより早い。それだけ、夢魔の力が強い証拠だ。
ぼやぼやしている時間はない。わたしは枕元の椅子に腰かけると、精神を集中して例の六角形を頭に思い描いた。
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~ Comment ~
>ネミエルさん
詳しく調べもせずにわたしも勝手なこと書いてます(^^;)
でもよほど疲れてでもいないかぎり、普通30分くらいかかるんじゃないですかねえ。あまりに眠れないようなときは、医者へ行って睡眠導入剤をもらってくるべきですけれど。
詳しく調べもせずにわたしも勝手なこと書いてます(^^;)
でもよほど疲れてでもいないかぎり、普通30分くらいかかるんじゃないですかねえ。あまりに眠れないようなときは、医者へ行って睡眠導入剤をもらってくるべきですけれど。
そうなんですか。
30分ぐらいもきもきしないと眠れない・・・
ってことは、別に僕が寝るのが下手って事じゃないんですね!
よかった・・・
30分ぐらいもきもきしないと眠れない・・・
ってことは、別に僕が寝るのが下手って事じゃないんですね!
よかった・・・
- #502 ネミエル
- URL
- 2009.11/10 00:11
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夢ですから、いくらでも解釈は可能かと。
桐野くんがそれを逆用してどのような行動をしたかについては次回以降をごらんください。