ノイズ(連作ショートショート)
ぱりん。
ぱりん。
明菜は足元を見た。カクテルグラスがひとつ、砕けて割れていた。
間違って踏んでしまったらしい。
さて、どうしようか。しでかしてしまったことは仕方がない。気持ちを切り替えないといけないのだ。
しでかしてしまったこと、それは、台所の床に倒れていた。割れた額から血がじくじくと染み出していた。義父の死体だった。十分前には、七十にしては健康な肉体を誇っていた男が、こうなってしまったのだ。
明菜は、隠し通せるようなものではないことはわかっていた。警察にはあったことをそのまま話さざるを得ないだろう。問題は、その言葉の説得力だ。特に、夫の一族が金にまかせて雇った優秀な弁護士の前での説得力だ。
夫の実家は総力を挙げて、真実……義父が明菜に対し性行為に及ぼうとし、反射的に明菜は殴ってしまった、という不名誉な真実を捻じ曲げ、抹消しようとかかるに違いない。
ぱりん……。
明菜はびくっとした。そのなにかが割れる、ぱりんという音は、隣の部屋から聞こえてきたのだ。
誰かがいる!
いや。誰もいるはずがない。いたら、義父を殴ってしまった時に、明菜のところへ来るはずだ。あれだけ大きな悲鳴を上げたのだ。分厚い木のまな板をぎゅっと握りしめている明菜のところへやってこないはずがない。
義父があのような行為に及ぼうとしたのも、家に二人以外は誰もいなかったからではなかったか。
明菜はおそるおそる隣の部屋を覗いた。5LDKの家だ。隣はリビングである。
誰もいなかった。割れる音がするような原因も見当たらなかった。
ぱりん。
書斎からだ。
いる。
誰かがいる。
誰かがこの家にいる!
明菜はリビングを出、ゆっくりと、足音を立てないようにして歩き、まな板をしっかり握って、書斎の扉に手をかけ……。
思い切り開け放った。
書斎には誰もいなかった。
明菜はめちゃくちゃに家じゅうのドアを開け、ひとつひとつ部屋を確かめた。風呂場から、トイレまで。残さず。余さず。
がちゃり。
玄関のドアが開く音がした。
明菜は、まな板を盾でもあるかのように構えながら、玄関に向かって駆けていった。
「ただいま」
夫だった。明菜はまな板を放り出し、その胸に取りすがり、泣いた。泣きに泣いた。
「誰かがいる……怖かった……怖かった!」
夫はとまどったようにしばし明菜の髪をなでていたが、はっとしたようにその手を止めた。
「あなた!」
夫の声は。
「明菜……この血の付いたまな板は、どうしたんだ。血……父さん!」
夫は明菜を振り払うと、台所のほうへ走っていった。
明菜はぼんやりとした頭で考えた。
「明菜! お前、父さんに何をした!」
そうだ。この家には義父と自分しかいない。初めからいない。そして扉は鍵がかかっていた。それに、自分が義父を殴ったことは自分が一番よく知っているではないか!
家じゅうの扉を開け、家じゅうの部屋を調べたことは、夫に、いや、警察にどう思われるだろうか。裁判の席で、検事がいうセリフが聞こえてくるような気がした。
「被告人は……自らの犯行を隠すため……いもしない侵入者がいたことを……偽装工作……計画的犯行……」
味方はいないだろう。誰一人としていないだろう。常識で考えれば、自分に罪がない正当防衛であったのなら、誰でも真っ先に警察へ電話をかけるはずなのに、自分はそれをしなかったのだから。
明菜は笑った。力なく笑った。力ない笑いが、けらけらと、けらけらと……。
タクシーの運転手は、地図を見ながら苦笑いした。
「すみませんね、お客さん。近頃はカーナビに頼りっぱなしなもんで、いざ壊れると、まったく手も足も出ないってもので」
黒いコートを着た女は、うっすらと笑った。
「しかたありません。運転手さんの地元から、かなり遠くまで来てしまったんですもの」
運転手は地図を畳んだ。
「でかい屋敷ばかり並んでますから、道を間違えちまったんでしょう。大丈夫です、もうわかりました」
運転手はアクセルを踏み、車はゆっくりと走り始めた。運転手は、わずかに顔をしかめた。
「何か踏んだかな?」
ぱりん……。
明菜は足元を見た。カクテルグラスがひとつ、砕けて割れていた。
間違って踏んでしまったらしい。
さて、どうしようか。しでかしてしまったことは仕方がない。気持ちを切り替えないといけないのだ。
しでかしてしまったこと、それは、台所の床に倒れていた。割れた額から血がじくじくと染み出していた。義父の死体だった。十分前には、七十にしては健康な肉体を誇っていた男が、こうなってしまったのだ。
明菜は、隠し通せるようなものではないことはわかっていた。警察にはあったことをそのまま話さざるを得ないだろう。問題は、その言葉の説得力だ。特に、夫の一族が金にまかせて雇った優秀な弁護士の前での説得力だ。
夫の実家は総力を挙げて、真実……義父が明菜に対し性行為に及ぼうとし、反射的に明菜は殴ってしまった、という不名誉な真実を捻じ曲げ、抹消しようとかかるに違いない。
ぱりん……。
明菜はびくっとした。そのなにかが割れる、ぱりんという音は、隣の部屋から聞こえてきたのだ。
誰かがいる!
いや。誰もいるはずがない。いたら、義父を殴ってしまった時に、明菜のところへ来るはずだ。あれだけ大きな悲鳴を上げたのだ。分厚い木のまな板をぎゅっと握りしめている明菜のところへやってこないはずがない。
義父があのような行為に及ぼうとしたのも、家に二人以外は誰もいなかったからではなかったか。
明菜はおそるおそる隣の部屋を覗いた。5LDKの家だ。隣はリビングである。
誰もいなかった。割れる音がするような原因も見当たらなかった。
ぱりん。
書斎からだ。
いる。
誰かがいる。
誰かがこの家にいる!
明菜はリビングを出、ゆっくりと、足音を立てないようにして歩き、まな板をしっかり握って、書斎の扉に手をかけ……。
思い切り開け放った。
書斎には誰もいなかった。
明菜はめちゃくちゃに家じゅうのドアを開け、ひとつひとつ部屋を確かめた。風呂場から、トイレまで。残さず。余さず。
がちゃり。
玄関のドアが開く音がした。
明菜は、まな板を盾でもあるかのように構えながら、玄関に向かって駆けていった。
「ただいま」
夫だった。明菜はまな板を放り出し、その胸に取りすがり、泣いた。泣きに泣いた。
「誰かがいる……怖かった……怖かった!」
夫はとまどったようにしばし明菜の髪をなでていたが、はっとしたようにその手を止めた。
「あなた!」
夫の声は。
「明菜……この血の付いたまな板は、どうしたんだ。血……父さん!」
夫は明菜を振り払うと、台所のほうへ走っていった。
明菜はぼんやりとした頭で考えた。
「明菜! お前、父さんに何をした!」
そうだ。この家には義父と自分しかいない。初めからいない。そして扉は鍵がかかっていた。それに、自分が義父を殴ったことは自分が一番よく知っているではないか!
家じゅうの扉を開け、家じゅうの部屋を調べたことは、夫に、いや、警察にどう思われるだろうか。裁判の席で、検事がいうセリフが聞こえてくるような気がした。
「被告人は……自らの犯行を隠すため……いもしない侵入者がいたことを……偽装工作……計画的犯行……」
味方はいないだろう。誰一人としていないだろう。常識で考えれば、自分に罪がない正当防衛であったのなら、誰でも真っ先に警察へ電話をかけるはずなのに、自分はそれをしなかったのだから。
明菜は笑った。力なく笑った。力ない笑いが、けらけらと、けらけらと……。
タクシーの運転手は、地図を見ながら苦笑いした。
「すみませんね、お客さん。近頃はカーナビに頼りっぱなしなもんで、いざ壊れると、まったく手も足も出ないってもので」
黒いコートを着た女は、うっすらと笑った。
「しかたありません。運転手さんの地元から、かなり遠くまで来てしまったんですもの」
運転手は地図を畳んだ。
「でかい屋敷ばかり並んでますから、道を間違えちまったんでしょう。大丈夫です、もうわかりました」
運転手はアクセルを踏み、車はゆっくりと走り始めた。運転手は、わずかに顔をしかめた。
「何か踏んだかな?」
ぱりん……。
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~ Comment ~
明菜は笑った。力なく笑った。力ない笑いが、けらけらと、けらけらと……。
その笑いが響く悲しい空間が見える気がします。
ホラーなんですか?
心理サスペンスというか、狂気の悲しさを描いた悲劇かな~と。
ほんとうは、そこには別の何かがいたのかもな~、となると、やっぱりホラーですかね。
お邪魔いたしました。
ホラーなんですか?
心理サスペンスというか、狂気の悲しさを描いた悲劇かな~と。
ほんとうは、そこには別の何かがいたのかもな~、となると、やっぱりホラーですかね。
お邪魔いたしました。
Re: LandMさん
作者としてはホラーのつもりなんですが、いつも同じネタを使ってたんじゃしかたがないのでいろいろと手を考える必要が出てきて(^_^;)
で、そのたびに「ふくらませようがない」ことに気づく、という……。
本来だったら今ごろはエンディングを迎えていて、満を持してアルファポリスのホラー大賞にエントリー、だったはずなのですが、うむむ。
で、そのたびに「ふくらませようがない」ことに気づく、という……。
本来だったら今ごろはエンディングを迎えていて、満を持してアルファポリスのホラー大賞にエントリー、だったはずなのですが、うむむ。
Re: miss.keyさん
悪魔だなんてそんな。
あくまでも「間が悪い人」ですよ、たぶん……(^-^;
あくまでも「間が悪い人」ですよ、たぶん……(^-^;
NoTitle
ショートショートと言う中でもホラーかな。
サスペンスかな。
怖いとき、あるいは恐慌状態にある中のノイズは確かに心を動かしますよね。私も夜勤をやっているときの物音にはいつも驚かされます。
サスペンスかな。
怖いとき、あるいは恐慌状態にある中のノイズは確かに心を動かしますよね。私も夜勤をやっているときの物音にはいつも驚かされます。
悪魔かな
ワイン好きの悪魔屋さん登場。魅入られたら最後です。
ところで、旦那はやっぱりまな板の餌食?
ところで、旦那はやっぱりまな板の餌食?
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Re: 朱鷺(shuro)さん
この連作集は、畏友limeさんの小説に刺激され、「ホラーサスペンス」を書きたくなって始めたものです。
事件の原因として「黒衣の女」を登場させ、すべてはその超常能力のせい、とするはずだったのですが、話がパターン化してしまい、これ以上にっちもさっちもいかなくなってしまいまして(^^;)
今度ホラーを書くときは、もっと融通の利くシステムにしようと思ってます。
よければ他の作品もお楽しみください!