ゲーマー!(長編小説・連載中)

    閑話休題2

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    閑話休題2

     くだんの男と師匠のバートランド・ラッセルとの間にはいろいろと逸話がある。

     その中でも、特にその男が「世界の物事」にピンと来ていなかったことを示している逸話は次のこれだろう。

     ある日、バートランド・ラッセルは、その男と部屋にいるとき、「自明なこと」の例として、「この部屋にカバはいない」と口にした。

     そりゃそうである。なんでケンブリッジ大学の哲学教授の部屋にカバ、動物のカバ、英語でいうとヒポポタマスがおらねばならんのだ。

     男はそれを聞いて答えた。

    「『この部屋にカバはいない』という言葉は必ずしも証明できません」

     ラッセルが天才であってよかったとつくづく思う瞬間である。無礼な若造をたたき出すかわりに、ラッセルは、この珍妙なオーストリア人の妄言につきあうことにしたのだ。

     ラッセルは実際に部屋を探し始めたのである。

     うんざりするような時間、部屋の中でカバを探してみせたラッセルは、弟子にいった。

    「わたしはカバをみつけられなかった。この部屋にカバはいない」

     男は頑として自説を曲げなかった。

    「『この部屋にカバはいない』という事実は必ずしも証明できません」

     その後、男がラッセルとふたりして延々と繰り広げた議論を整理すると、まあだいたいこうなるだろうか。

     『この部屋にカバはいない』とはどういうことだろうか。『この部屋にカバがいる』ということの否定である。すなわち、『この部屋にカバがいる』ということに『いない』という処理をくわえたのが『この部屋にカバはいない』ということだ。そのため、『この部屋にカバがいる』ことが前提されていなければ、『いない』という処理自体をすることができない。だから、『この部屋にカバはいない』といえるためには、『この部屋にカバがいる』ということだけは成立していなければならない。よって、『この部屋にカバはいない』ということ、それだけを取り出して証明することは不可能である。

     あきれるばかりの物わかりの悪さである。

     男には「常識」というものがピンと来ていなかったのだろう。フランスの哲学者ルネ・デカルトは「方法的懐疑」という、「わざとなんでもかんでも、揚げ足取りといわれようと屁理屈だろうとなんだろうと手段を選ばずにとにかく疑うだけ疑ってみて、疑うことすらできないものが残ったら、それは真実に違いない」ということを考えてしかもそれを実行した、はなはだめんどくさい人間だったが、そんな彼にも「わざと」ということは頭にあった。だが、ラッセルと議論をしているこの男には、そんな「わざと」という意識はまったくなかった。人柄からしても、そういう「わざと」なる態度を決して許さない、妙なところで潔癖なところが、この男にはあった。

     男は、『この部屋にカバはいない』という言葉をきいて感じた疑問を、思ったまま口にしただけだったのだ。

     そんな常識がピンと来ていないどこかネジの外れたこの男でも、バートランド・ラッセルや、その弟子にあたるジョージ・エドワード・ムーア、さらには当時ケンブリッジ大学で貨幣論を研究していた、経済学者のジョン・メイナード・ケインズといった、世界史的にもトップクラスの天才たちである理解者に囲まれ、ケンブリッジ大学での研究は順調に進んでいた。普通の人間なら、このような理想的な環境を捨てるわけがない……のだが。

     この男は普通の人間ではなかったのである。

     1913年10月、この男はノルウェーの、しかも住んでいる人間は自分一人しかいないような過疎地帯の山小屋に引きこもってしまった。ときおりケンブリッジに戻ってくることはあったものの、またそそくさとノルウェーに帰ってしまう。そんな生活が、年をまたいだ1914年4月まで、ほぼ半年間続いた。

     男はノルウェーで書き溜めたノートを整理し、これでケンブリッジ大学で哲学の学位はとれないだろうかと打診した。

     答えはノーだった。

     その理由が、学内規定である「論文は、引用があれば引用元をきちんと脚注に明記せねばならない」にひっかかったからだ、と聞いてこの男は激怒した。「なんでそんなくだらん規定があるのだ」「貴様なんか地獄へ落ちろ」とか、もうさんざっぱら、ここには書けないようなことを口走ったらしい。

     常識的に考えれば、学内規定は別におかしなことはいっていない。現在の大学でも問題になっているコピペ論文、そういったものの氾濫を防ぐための、ごく当たり前な規定である。だが男にはその当たり前さがピンと来なかった。先にも書いたが実家は超のつくほどの大金持ちである。うまくすれば財力でなんとかなったかもしれない。だが男には、そんな「財力」というものがピンと来なかった。

     この罵倒事件により、男は友人も理解者も学位もすべて失い、ケンブリッジ大学を去ることになった。どこまでも世間というものにピンと来ていない男である。

     幸か不幸か、1914年7月28日、大学も研究もへったくれもあるか、という大事件が勃発する。

     6月に起きた皇太子暗殺事件をきっかけに、オーストリア・ハンガリー帝国がセルビア王国に宣戦布告したのだ。

     第一次世界大戦の始まりである。 

     ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、25歳。彼も含め誰もまだ、この戦争が4年も続くとは思っていない。ヨーロッパが焦土になるなんて、そんなばかな……。
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    ~ Comment ~

    Re: ダメ子さん

    ここではあえて「言葉」としましたが、正確には「命題」です。ウィトゲンシュタインにとって「命題」がなにを意味するのかを説明するのがほんともうややこしくて、事態を混乱させるだけなので端折りました。自分でも正確に理解できてないし(^_^;)

    おっしゃるとおり、ウィトゲンシュタインにとって「朝ご飯をまだ食べていない」という命題はそれだけでは成立していません。「人物Aが朝ご飯を食べる」という命題から、「まだ」という量化詞と「~いない」という論理記号を経てたどり着くのが「朝ご飯をまだ食べていない」なのです。

    ちなみに、この時点のウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」という概念にたどりついていません。(^_^;)

    わたしにも正直、自分がなにを書いているのかさっぱりわからん(^_^;) わかっていたら大学を卒業できたのでしょうが(^_^;)

    Re: カテンベさん

    ウィーンでもいちばんの大富豪の家に生まれただけあって、礼儀作法の面での教養があったからエリートだらけのケンブリッジでも受け入れられたのでしょうね。

    だからこそこの罵倒事件で、ケンブリッジを去らねばならなかったのでしょう。なんたって礼儀にうるさい世界ですから。

    ウィトゲンシュタインが人好きする性格だったとは、逸話を読む限り思えないのですが、妙な誠実さがあったので、そこに惹きつけられる人はいたでしょうね。こんな高度な知性の持ち主としゃべることは、それだけで知的興奮をかきたてられる体験ですから。

    Re: LandMさん

    トンチというよりも、論証をひとつひとつ積み上げていった結果でしょうね。

    たぶんウィトゲンシュタインは「本気でこう考えていた」と思われます。著書を拾い読みすると。

    NoTitle

    そうすると、昨日までカバがいた動物園の檻なら「(今日は)カバがいない」と言えるのかな…
    でも「昨日」「今日」と時間で比較をしていいなら、「カバのいる檻」「この部屋」と空間の比較もしてよさそうだし…やっぱり「カバはいない」とは言えない?
    でもそうすると例えば「今日は朝ご飯を食べていない」とすら言えないことになりそうな…
    「朝ご飯を食べていない」という状態があるんじゃなくて「朝ご飯を食べていない」という言葉を宣言する言語ゲームってことになるのかなあ…一面としては正しいようにも思うけれど…空気読めとか

    そんな彼が「学位が取れない」というのに怒ったって言うのがよくわかりません…「学位が取れない」状態なんて…

    映画の予告編みたい

    何とも惹きつけられてまうわ〜
    天才、て、お近づきになりたいタイプとは限らないんやろけど、そういうのを度外視させる何かを持ってるんやろね

    NoTitle

    なかなかな問題ですよね。
    英語を習っていてもそういうのありますよね。
    「これはペンです。」
    とか。見れば分かるわ!!
    ・・・というのが、あったりしますもんね。
    トンチがきいてますよね。
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