その他いろいろ
ニーチェという男
ブログ巡回をしていたら、久方ぶりに『ニーチェ』という名前に出会ったのでぼそぼそ書いてみる。
最初にニーチェの思想に出会ったのは中学時代の公民の授業であった。夏休みの課題としてテーマの中から何か調べろ、というものがあり、わたしはなんとなく『実存主義とは何か』というものを選んだ。たぶん腹でも減っていたのだろう。ほんとになにも考えていなかった。それが『哲学』の分野であることすら知らなかったくらいだ。
さて、実存主義についてまずわたしが真っ先にやったのは、『百科事典を引く』ことだった。しかし引いてみてわかったのだが、百科事典にコンパクトにまとめられているその説明をいくら読んでも、なにをいっているのかさっぱりわからない、という事実であった。
それでも若干のキータームは拾えた。いわく『実存は本質に先立つ』。いわく『包括者』。いわく『世界=内=存在』『現存在』。いわく『美的段階』『倫理的段階』『神の前で』。そんな中でひときわ目立ったキータームがある。それがあの有名な『神は死んだ』であり『超人』だった。
中学三年生のわたしの目に映ったニーチェは、だからそういう人だった。「神」に支配されている人間を、言葉ひとつでそのくびきから解き放ち、「人間が人間として生きること」を高らかに宣言した光り輝く英雄。
この人についてもっと知りたい、と考えたのが哲学科を志した大きな原因のひとつなのだが、そのときのわたしはニーチェについて完全に間違っていた。この男は光り輝く英雄ではなかった。恐るべき強大な敵と、全人生をかけて戦って、誰にも理解されない血を吐くような激闘死闘の末に迎えた攻撃の絶好機を目前にして、精神的にボロボロになって倒れた悲劇の英雄だったのだ。
そのことに気づくまで三十年かかった。中学生が理解できる哲学者というものは、少なくとも哲学史のビッグネームの中にはひとりもいないだろう。そういう世界なのである。
ニーチェで有名なフレーズはさっきも挙げた通りに『神は死んだ』であり『超人』であり、それに『永劫回帰』も加わるだろうが、もっと重要なフレーズがある。それが『すべての価値の転倒』と『能動的ニヒリズム』である。
「悪いことを教えた」とニーチェを批判する人がいるが、戦いに役立つのならこの哲学者はもう悪でもなんでも使ったであろう。何しろ相手は『神』よりも始末に悪い強敵なのだ。ニーチェとしては、神と悪魔の全軍を率いて戦っても、勝機があるかどうかすらわからない、という心境だったろう。その敵の名はニヒリズム。
ニーチェが生涯をかけて戦った強敵とは、『神』ではなくこの『ニヒリズム』、虚無主義なのだ。乱暴にいってしまえば、ニーチェとは、人間の行為や価値判断のすべて、例えば『善』と『悪』との区別さえ、本質的には『無意味』であることに気づいて、それを徹底的に考え、なんとか自分なりにそんな無意味でしかない世の中を主体的に生きていく方法を見つけようと孤独な努力をした人なのである。現代思想の扱う問題の少なからぬ部分がニーチェのこの苦闘から生まれているといっても過言ではない。
これについては、19世紀後半の、『世界認識』がどうなっていたかを考える必要がある。当時日の出の勢いで台頭していたのは、人間の理性で解釈できるはずの世界はすべて解釈可能であるとし、その証拠を『科学』に求める考えかただった。蒸気機関とそれがもたらす爆発的な人間の行動領域の拡大は、その『科学万能』思想の土台を形づくっていた。今だってその教えから人間は進歩しちゃいない。人間は自分たちの『行き過ぎた科学至上主義を反省』しているかもしれないが、そんな反省は、『科学至上主義はほぼ、まず99.99パーセント以上は正しい』と無批判に思っている奴からでないと出てくるわけがない。科学至上主義はそれはそれで首尾一貫しているし結構なことなのだが、首尾一貫を貫こうとするとどうにも困った問題にぶち当たる。それがいわゆる『決定論』である。
決定論というのはなにかといえば、科学の思考の根幹にある『すべての起こったことには原因がある』という考えから必然的に導かれる、『原因がなく起こる物事はない』『起こった物事は他の物事の原因になる』よって『前提条件さえあればすべての物事は原因と結果の連鎖によって必然的に決定される』という考えかただ。いや、これもこれで悪くはない。『人間は自由な意志を持つ自由な存在である』ということを認めなければそれで済むのだから楽な話である。『自由』でなければ、『善』もなければ『悪』もなく、すべての『価値』すら等価である。なにせ自由でないのだから、選択の余地がない。崖の上から自然に石が落ちてきて、その落石に当たって人が死んだとき、人が石に向かって『故意に落ちてきたので懲役十年』とか宣告するだろうか。座りやすい岩と座りにくい岩があった場合、『この岩は座りにくいから岩としては不完全である』とかいうだろうか。
ニーチェにとって、その考えは許しがたいものだった。しかし、その許しがたさを感じるポイントが常人とは少々違っていた。
この、世の中の何にでも噛みつく傾向のある学者は、科学とそれがもたらす決定論の正しさをうすうす理解しながらそれでいて自分が自由な存在であることを疑いもしないような輩、すなわちごく普通に生きている善男善女のキリスト教徒に噛みついて徹底的に批判したのである。
決定論が正しい、ということは、『価値』が存在しないことだから、ひとつのニヒリズムである。だが、『価値は存在しない』というそのニヒリズムが存在しないふりをして目をつぶって生きるというのはもっとひどいニヒリズムではないか。そんな『受動的な』ニヒリズムは欺瞞以外のなにものでもない。人間は、『価値は存在しない』というニヒリズムを受け入れて、いわば『能動的に』ニヒリズムを生きるべきだ! いわゆる『能動的ニヒリズム』である。
当時としては常軌を逸した考え方であったし、今だってそうかもしれない。こんなことをいい出したのはニーチェが最初だった。決定論を精緻に説いたおおもとはスピノザだが、スピノザがさらっと流したことを主体的に受け止め、『価値』の問題と絡め、それと徹底的に格闘しようと考えたのはニーチェが最初だろう。
ニーチェの攻撃は止まらない。そもそもこういう事態を招いたのはなんだ。現実世界とは縁もゆかりもない『倫理』を組み上げてきて、仮想の『天国』なり『善のイデア』なりをこしらえてその価値のなかで生きることを強要してきたキリスト教でありソクラテスでありプラトンではないか! おれはそんなもの認めない。すべての価値観をひっくり返し、生の現実と向き合ってやるぞ! 『すべての価値の転倒』である。
そもそもよく考えてみたら、決定論と科学を内心で受け入れている時点で、ヨーロッパ人はすでに神を自分の中で殺しているじゃねえか! それがどういう口で『神』だの『信仰』だのと口走ってるんだ、バッカじゃねえの? 目を覚ませ、『神は死んだ』!
いや、ニーチェの主張をひとつひとつ思い返すと、彼の文章に一貫して流れる『暴力的なまでの煽動性』に影響されて、ついつい言葉が汚くなってしまう。こういう『怒り狂った文章』を書かせるとニーチェの筆は冴えに冴えるのだが、この特化した文章力は、大衆思想家としてのニーチェにはともかく、哲学者としてのニーチェには不幸なことだったのではないかと思えてならない。
ニーチェがなにかに『意味がない』『価値がない』といったとしたら、『それは悪いことだ』といっているわけではない。虚無主義の前には万物が同様に『意味がなく』『価値がない』のだ。悪いものがあるとしたらその意味がないものに意味があるように見せ、価値がないものに価値があるように見せて、人々の上にアグラをかいている輩である。
そういう意味で、ニーチェは善だとか悪だとかをわいわいいっているこの世界に我慢できない。彼は必死に、そういったこととは無縁の世界、いうならば『善悪の彼岸』というような境地を目指すのだが、そうしていると彼の『良心』がうずいてくる。ニーチェにはその自分の良心がどうしても我慢ならない。そんな良心なんて、『奴隷の道徳』じゃないか!
そうこうしているうちに、ニーチェは活路を見いだす。
まず、人間は、どんな心のいかれたような人間でも、今の自分よりはもうちょっとマシな状態になろう、と考えるものであることは認めてもいいのではないだろうか。例えば、その方向性はどうあれ、腹が減ったら飯を食おうとするだろうし、飯を我慢するとしたら、それ相応の、もっと自分を自分にとって好ましい状態に持って行くという理由があるはずだ。これは誰にも否定できないのではないか。
もし、これが正しいとしたら、その『好ましい方向』とはなんだろうか。その人間にとって『美しい』方向ではないのだろうか。そして、なにかを美しいと思う心は、個人個人それぞれ方向的に違ってはいるが、なんらかの形で個人個人に存在する。である以上、より美しく、より強く生きようと常に心掛けること、これだけは人間にとって価値であり目標だといえるのではないか。
ニーチェにはこれが、論理的に最も満足な生き方のように思えたらしい。いわゆる『力への意志』である。
今にして思うのだが、そうしたニーチェ的な生き方を徹底している人間がいるとしたら、『花のプリンセス』という本人以外誰にもわからない目標目指して日夜休まず努力し勉強し鍛錬する、向上心のカタマリというか、向上心だけで生きているような生物である『Go! プリンセスプリキュア』の主人公、キュアフローラこと春野はるかではないかと思う。
ニーチェの考察はさらに進む。人間が、自分よりももっと『美しく生きている』人間を見たら、やるべきことは、その美しく生きている人間を手助けすることか、あるいはそれができなかったらとりあえず邪魔しないように横にどいていることではないだろうか。もし、その美しさを妬んで、妨害したり傷つけたり貶めたりして勝った気になるとしたら、そういう行為は最低の卑怯者のやることではないか。そのような卑劣な発想を、ニーチェは『ルサンチマン』と名づけた。貧しいものは貧しいからこそ普通の人間より尊い、そんな価値観をニーチェの哲学は認めない。貧しいものは貧しい。それだけである。貧しさから脱却するために頑張るという生き方は認める。頑張っても貧しさからは脱け出せないと考えて貧しさにとどまるというのもまあ認めよう。だが、自分が貧しいからという理由ただそれだけで、富んでいる強い人間より自分は偉い、と考えること、それだけは絶対に認められん、とニーチェは考えるのだ。
ニーチェは主著に当たるものを残していない。『ツァラトゥストラ』がそれではないか、と思う向きもあるかもしれないが、あれはあくまでも『入門編』というか『予告編』である。ニーチェは自分の哲学的主張を論理的体系的にまとめた『力への意志』という哲学書を書くために膨大な草稿を書き、まとめる寸前になって発狂して廃人になってしまったのだ。せめてあと三年正気がもってくれれば、と思うと無念としかいいようがない。なぜなら『ツァラトゥストラ』という書物には、ニーチェがぶつかった恐るべきデッドロックと、そこからの突破口と思われる記載があるからだ。
そのデッドロックこそ、『永劫回帰』である。
まず、この宇宙には『有限量の原子』が存在すると仮定する。次に、宇宙の大きさを『有限』であると仮定する。となると、有限量の原子が有限である宇宙の中で構成可能なパターンの数も有限であると結論できる。それを『無限の時間』とつなげると、トランプ遊びを何兆回と繰り返した時と同じように、まったく同じパターンがまったく同じように、それこそ人類史の最初から最後までまったく同じように続く事態が必然的に来るはずだ。なにしろ無量大数と同じ年数が流れたとしても、無限の前にはゼロに等しいのである。そして決定論が正しければ、同一の前提条件のもとでは同一の事態が発生し、同一の展開を見せるのだ。これが永劫回帰である。まったく同じことが、それこそ何度も何度も、無限の回数繰り返され、そして人間は同じ行為を行うのである。なんという無意味。なんという徒労。
そう、また『決定論』と『ニヒリズム』なのである。なんとかしてニーチェは憎むべきこれらの前で自分が主体的に生きる方法を見つけようと涙ぐましい努力を重ねる。そして見つけたらしいのである。
『力への意志』という書物はたしかに存在する。だが、それは先ほど述べたニーチェの遺稿を、権力者に取り入ろうとするニーチェの妹が、自分の好みで好き勝手に、前後の脈絡もなく寄せ集めた、哲学的にまったく意味のない構成物にすぎない。大学生のころ、ちくま文庫の全集で騙されて買いそうになってしまった経験がある人間としては、普通に『遺稿集』として編纂しなおしてほしかったと思えてならぬ。
ニーチェがたどり着いたデッドロック回避の方法とは、『受容する』ことであった。無意味でいいじゃないか! 人間は同じ状態に置かれたら何度でも同じことをすることは明らかでも、笑ってその無意味な行為を楽しもう! 『いざ、もう一度!』
哲学者が哲学についてものを書くとき、わざとわかりにくくして書くことはない。わかりにくいのは、できる限り文章に正確さを期するためと、語っている内容について明確に対応する言葉が存在しないからだ。よって、哲学の古典を読むと、哲学者が自分の考えていることをわからせようと使える限りの語彙を使って、ありとあらゆる方法を使って噛み砕いて噛み砕いて説明して、それでも伝わらないことにもどかしさを感じていることがびんびんに感じられて、理解できない自分が申し訳ない気分になってくる。ハイデガーの『存在と時間』なんて、『現象学』というわかりにくい学問を『ごく日常のありきたりのドイツ語』を使って平易に説明しようという労苦の結晶であるし、最後にはハイデガーはその試みを、構想の半分ほど書いたところで投げ出してしまうのだ。あの分厚い『存在と時間』は実は未完の代物なのである。
ニーチェもその例に漏れない。扇動的で過激なヨーロッパ批判も、警句集みたいな書き方も、さらには『ツァラトゥストラ』のような詩のようで物語のような書物も、『自分に今できる範囲ではこれがもっともわかりやすい表現の仕方だ』と考えてのことである。だって、哲学者ってなにをして食っていると思っているのか。スピノザみたいに在野にあってもレンズ研磨ではまさに名人、というような副業を持っていなければ、主に哲学を教えるか、そうでなければ本を売って食っているのだ。わかりやすくなかったら、哲学を学びに来ようという人間はいないし、本を買おうという人間もいないだろう。ショーペンハウアーなんて、自著の序文に「この本を買ってくれ、できれば一冊ではなく二~三冊は買ってくれ、読む以外にも本の使いかたはあるだろう、たとえば飾るとか」などというジョークを堂々と書いているくらいだ。
「ニーチェが努力してることはわかったけれど、結論はどうなの?」という問いは必ず出てくるだろう。そこで難解至極な結論が出てくるかといったら、そういうわけでもない。少なくとも、『ツァラトゥストラ』が「読者にわかってもらおう」ということを念頭において、「ごくそこらへんにいる普通の人」に読んでもらうために書かれていたとするならば、最終的に、ニヒリズムに対抗して生きるためには、「やりたいことをやれ、できれば楽しみながら。どうせそれしかできないんだから。後悔しなければなおよし」という月並みな処世訓が引き出されて終わるだけである。
だが、その月並みな処世訓に至るまでの、困難を極め絶望的で苦しいにもほどがある孤独な戦いを知る、そのために哲学書があり、哲学を学ぶ意味があるのだ。同じ処世訓でも、その戦いを知ったうえで語るのと、そんなことにはまったく無知なまま、軽い気持ちで語るのとでは、同じ言葉でも『重み』が違う。
前にニュースで、「人を殺すことはどうしていけないの?」という質問をした小学生が取り上げられていたが、ニーチェにしてみれば、それだけでは哲学者の問いではないだろう。これがイラクで生を受け、アフガニスタンの内戦を辛くも生きのび、人がばたばた死ぬのを目の前で見るという経験をした小学生の問いだったらば、哲学者の問いとして真摯に答えたと思う。
同じ「いざ、もう一度!」でも、ニーチェの本を読んで理解し、永劫回帰の無意味の中で生きるしかない人間、という絶望的なビジョンを受け入れ、そのうえでニーチェに賛同し、自分のしたことに対し喜びを覚えつつ後悔することなく「いざ、もう一度!」と発言することができる「普通の人」、それがニーチェのいわんとしていた『超人』の最終的な意味であり到達地点ではないか。『再び幼子として生きる』というのはそういう『普通の生活』をできるところに戻ってくる、ということではないのか。同じ日常であり普通の生活でも、ニーチェ的な戦いの後にたどり着いたそこは、戦いの前の世界とは一変した、まったく違う世界ではないのか。
最初に『神は死んだ』に出会ってから三十年。わたしは自分の中で、特別な哲学者としてニーチェをそんなふうにとらえている。これがニーチェの正しいとらえ方であるかどうかはわからないし、だいたいニーチェを人生の手本にしろというのは、『人生の手本』というものを徹底的に嫌って、自分自身で『人生』の新しい見かたを手本なしで切り開いたニーチェに対して失礼千万であろう。わたしにとってニーチェとは、そこに近づくと普段の生活からは考えもつかないような視点を次々と思いつけるが、決して『教師』ではない、魅力的で怖くてかなり危険でもある空間である。
魅力的なことときたら、ちょっと二、三行書くつもりがこんなに長々と書いてしまうほどなのだ。
久しぶりに足を踏み入れてみようかな。
最初にニーチェの思想に出会ったのは中学時代の公民の授業であった。夏休みの課題としてテーマの中から何か調べろ、というものがあり、わたしはなんとなく『実存主義とは何か』というものを選んだ。たぶん腹でも減っていたのだろう。ほんとになにも考えていなかった。それが『哲学』の分野であることすら知らなかったくらいだ。
さて、実存主義についてまずわたしが真っ先にやったのは、『百科事典を引く』ことだった。しかし引いてみてわかったのだが、百科事典にコンパクトにまとめられているその説明をいくら読んでも、なにをいっているのかさっぱりわからない、という事実であった。
それでも若干のキータームは拾えた。いわく『実存は本質に先立つ』。いわく『包括者』。いわく『世界=内=存在』『現存在』。いわく『美的段階』『倫理的段階』『神の前で』。そんな中でひときわ目立ったキータームがある。それがあの有名な『神は死んだ』であり『超人』だった。
中学三年生のわたしの目に映ったニーチェは、だからそういう人だった。「神」に支配されている人間を、言葉ひとつでそのくびきから解き放ち、「人間が人間として生きること」を高らかに宣言した光り輝く英雄。
この人についてもっと知りたい、と考えたのが哲学科を志した大きな原因のひとつなのだが、そのときのわたしはニーチェについて完全に間違っていた。この男は光り輝く英雄ではなかった。恐るべき強大な敵と、全人生をかけて戦って、誰にも理解されない血を吐くような激闘死闘の末に迎えた攻撃の絶好機を目前にして、精神的にボロボロになって倒れた悲劇の英雄だったのだ。
そのことに気づくまで三十年かかった。中学生が理解できる哲学者というものは、少なくとも哲学史のビッグネームの中にはひとりもいないだろう。そういう世界なのである。
ニーチェで有名なフレーズはさっきも挙げた通りに『神は死んだ』であり『超人』であり、それに『永劫回帰』も加わるだろうが、もっと重要なフレーズがある。それが『すべての価値の転倒』と『能動的ニヒリズム』である。
「悪いことを教えた」とニーチェを批判する人がいるが、戦いに役立つのならこの哲学者はもう悪でもなんでも使ったであろう。何しろ相手は『神』よりも始末に悪い強敵なのだ。ニーチェとしては、神と悪魔の全軍を率いて戦っても、勝機があるかどうかすらわからない、という心境だったろう。その敵の名はニヒリズム。
ニーチェが生涯をかけて戦った強敵とは、『神』ではなくこの『ニヒリズム』、虚無主義なのだ。乱暴にいってしまえば、ニーチェとは、人間の行為や価値判断のすべて、例えば『善』と『悪』との区別さえ、本質的には『無意味』であることに気づいて、それを徹底的に考え、なんとか自分なりにそんな無意味でしかない世の中を主体的に生きていく方法を見つけようと孤独な努力をした人なのである。現代思想の扱う問題の少なからぬ部分がニーチェのこの苦闘から生まれているといっても過言ではない。
これについては、19世紀後半の、『世界認識』がどうなっていたかを考える必要がある。当時日の出の勢いで台頭していたのは、人間の理性で解釈できるはずの世界はすべて解釈可能であるとし、その証拠を『科学』に求める考えかただった。蒸気機関とそれがもたらす爆発的な人間の行動領域の拡大は、その『科学万能』思想の土台を形づくっていた。今だってその教えから人間は進歩しちゃいない。人間は自分たちの『行き過ぎた科学至上主義を反省』しているかもしれないが、そんな反省は、『科学至上主義はほぼ、まず99.99パーセント以上は正しい』と無批判に思っている奴からでないと出てくるわけがない。科学至上主義はそれはそれで首尾一貫しているし結構なことなのだが、首尾一貫を貫こうとするとどうにも困った問題にぶち当たる。それがいわゆる『決定論』である。
決定論というのはなにかといえば、科学の思考の根幹にある『すべての起こったことには原因がある』という考えから必然的に導かれる、『原因がなく起こる物事はない』『起こった物事は他の物事の原因になる』よって『前提条件さえあればすべての物事は原因と結果の連鎖によって必然的に決定される』という考えかただ。いや、これもこれで悪くはない。『人間は自由な意志を持つ自由な存在である』ということを認めなければそれで済むのだから楽な話である。『自由』でなければ、『善』もなければ『悪』もなく、すべての『価値』すら等価である。なにせ自由でないのだから、選択の余地がない。崖の上から自然に石が落ちてきて、その落石に当たって人が死んだとき、人が石に向かって『故意に落ちてきたので懲役十年』とか宣告するだろうか。座りやすい岩と座りにくい岩があった場合、『この岩は座りにくいから岩としては不完全である』とかいうだろうか。
ニーチェにとって、その考えは許しがたいものだった。しかし、その許しがたさを感じるポイントが常人とは少々違っていた。
この、世の中の何にでも噛みつく傾向のある学者は、科学とそれがもたらす決定論の正しさをうすうす理解しながらそれでいて自分が自由な存在であることを疑いもしないような輩、すなわちごく普通に生きている善男善女のキリスト教徒に噛みついて徹底的に批判したのである。
決定論が正しい、ということは、『価値』が存在しないことだから、ひとつのニヒリズムである。だが、『価値は存在しない』というそのニヒリズムが存在しないふりをして目をつぶって生きるというのはもっとひどいニヒリズムではないか。そんな『受動的な』ニヒリズムは欺瞞以外のなにものでもない。人間は、『価値は存在しない』というニヒリズムを受け入れて、いわば『能動的に』ニヒリズムを生きるべきだ! いわゆる『能動的ニヒリズム』である。
当時としては常軌を逸した考え方であったし、今だってそうかもしれない。こんなことをいい出したのはニーチェが最初だった。決定論を精緻に説いたおおもとはスピノザだが、スピノザがさらっと流したことを主体的に受け止め、『価値』の問題と絡め、それと徹底的に格闘しようと考えたのはニーチェが最初だろう。
ニーチェの攻撃は止まらない。そもそもこういう事態を招いたのはなんだ。現実世界とは縁もゆかりもない『倫理』を組み上げてきて、仮想の『天国』なり『善のイデア』なりをこしらえてその価値のなかで生きることを強要してきたキリスト教でありソクラテスでありプラトンではないか! おれはそんなもの認めない。すべての価値観をひっくり返し、生の現実と向き合ってやるぞ! 『すべての価値の転倒』である。
そもそもよく考えてみたら、決定論と科学を内心で受け入れている時点で、ヨーロッパ人はすでに神を自分の中で殺しているじゃねえか! それがどういう口で『神』だの『信仰』だのと口走ってるんだ、バッカじゃねえの? 目を覚ませ、『神は死んだ』!
いや、ニーチェの主張をひとつひとつ思い返すと、彼の文章に一貫して流れる『暴力的なまでの煽動性』に影響されて、ついつい言葉が汚くなってしまう。こういう『怒り狂った文章』を書かせるとニーチェの筆は冴えに冴えるのだが、この特化した文章力は、大衆思想家としてのニーチェにはともかく、哲学者としてのニーチェには不幸なことだったのではないかと思えてならない。
ニーチェがなにかに『意味がない』『価値がない』といったとしたら、『それは悪いことだ』といっているわけではない。虚無主義の前には万物が同様に『意味がなく』『価値がない』のだ。悪いものがあるとしたらその意味がないものに意味があるように見せ、価値がないものに価値があるように見せて、人々の上にアグラをかいている輩である。
そういう意味で、ニーチェは善だとか悪だとかをわいわいいっているこの世界に我慢できない。彼は必死に、そういったこととは無縁の世界、いうならば『善悪の彼岸』というような境地を目指すのだが、そうしていると彼の『良心』がうずいてくる。ニーチェにはその自分の良心がどうしても我慢ならない。そんな良心なんて、『奴隷の道徳』じゃないか!
そうこうしているうちに、ニーチェは活路を見いだす。
まず、人間は、どんな心のいかれたような人間でも、今の自分よりはもうちょっとマシな状態になろう、と考えるものであることは認めてもいいのではないだろうか。例えば、その方向性はどうあれ、腹が減ったら飯を食おうとするだろうし、飯を我慢するとしたら、それ相応の、もっと自分を自分にとって好ましい状態に持って行くという理由があるはずだ。これは誰にも否定できないのではないか。
もし、これが正しいとしたら、その『好ましい方向』とはなんだろうか。その人間にとって『美しい』方向ではないのだろうか。そして、なにかを美しいと思う心は、個人個人それぞれ方向的に違ってはいるが、なんらかの形で個人個人に存在する。である以上、より美しく、より強く生きようと常に心掛けること、これだけは人間にとって価値であり目標だといえるのではないか。
ニーチェにはこれが、論理的に最も満足な生き方のように思えたらしい。いわゆる『力への意志』である。
今にして思うのだが、そうしたニーチェ的な生き方を徹底している人間がいるとしたら、『花のプリンセス』という本人以外誰にもわからない目標目指して日夜休まず努力し勉強し鍛錬する、向上心のカタマリというか、向上心だけで生きているような生物である『Go! プリンセスプリキュア』の主人公、キュアフローラこと春野はるかではないかと思う。
ニーチェの考察はさらに進む。人間が、自分よりももっと『美しく生きている』人間を見たら、やるべきことは、その美しく生きている人間を手助けすることか、あるいはそれができなかったらとりあえず邪魔しないように横にどいていることではないだろうか。もし、その美しさを妬んで、妨害したり傷つけたり貶めたりして勝った気になるとしたら、そういう行為は最低の卑怯者のやることではないか。そのような卑劣な発想を、ニーチェは『ルサンチマン』と名づけた。貧しいものは貧しいからこそ普通の人間より尊い、そんな価値観をニーチェの哲学は認めない。貧しいものは貧しい。それだけである。貧しさから脱却するために頑張るという生き方は認める。頑張っても貧しさからは脱け出せないと考えて貧しさにとどまるというのもまあ認めよう。だが、自分が貧しいからという理由ただそれだけで、富んでいる強い人間より自分は偉い、と考えること、それだけは絶対に認められん、とニーチェは考えるのだ。
ニーチェは主著に当たるものを残していない。『ツァラトゥストラ』がそれではないか、と思う向きもあるかもしれないが、あれはあくまでも『入門編』というか『予告編』である。ニーチェは自分の哲学的主張を論理的体系的にまとめた『力への意志』という哲学書を書くために膨大な草稿を書き、まとめる寸前になって発狂して廃人になってしまったのだ。せめてあと三年正気がもってくれれば、と思うと無念としかいいようがない。なぜなら『ツァラトゥストラ』という書物には、ニーチェがぶつかった恐るべきデッドロックと、そこからの突破口と思われる記載があるからだ。
そのデッドロックこそ、『永劫回帰』である。
まず、この宇宙には『有限量の原子』が存在すると仮定する。次に、宇宙の大きさを『有限』であると仮定する。となると、有限量の原子が有限である宇宙の中で構成可能なパターンの数も有限であると結論できる。それを『無限の時間』とつなげると、トランプ遊びを何兆回と繰り返した時と同じように、まったく同じパターンがまったく同じように、それこそ人類史の最初から最後までまったく同じように続く事態が必然的に来るはずだ。なにしろ無量大数と同じ年数が流れたとしても、無限の前にはゼロに等しいのである。そして決定論が正しければ、同一の前提条件のもとでは同一の事態が発生し、同一の展開を見せるのだ。これが永劫回帰である。まったく同じことが、それこそ何度も何度も、無限の回数繰り返され、そして人間は同じ行為を行うのである。なんという無意味。なんという徒労。
そう、また『決定論』と『ニヒリズム』なのである。なんとかしてニーチェは憎むべきこれらの前で自分が主体的に生きる方法を見つけようと涙ぐましい努力を重ねる。そして見つけたらしいのである。
『力への意志』という書物はたしかに存在する。だが、それは先ほど述べたニーチェの遺稿を、権力者に取り入ろうとするニーチェの妹が、自分の好みで好き勝手に、前後の脈絡もなく寄せ集めた、哲学的にまったく意味のない構成物にすぎない。大学生のころ、ちくま文庫の全集で騙されて買いそうになってしまった経験がある人間としては、普通に『遺稿集』として編纂しなおしてほしかったと思えてならぬ。
ニーチェがたどり着いたデッドロック回避の方法とは、『受容する』ことであった。無意味でいいじゃないか! 人間は同じ状態に置かれたら何度でも同じことをすることは明らかでも、笑ってその無意味な行為を楽しもう! 『いざ、もう一度!』
哲学者が哲学についてものを書くとき、わざとわかりにくくして書くことはない。わかりにくいのは、できる限り文章に正確さを期するためと、語っている内容について明確に対応する言葉が存在しないからだ。よって、哲学の古典を読むと、哲学者が自分の考えていることをわからせようと使える限りの語彙を使って、ありとあらゆる方法を使って噛み砕いて噛み砕いて説明して、それでも伝わらないことにもどかしさを感じていることがびんびんに感じられて、理解できない自分が申し訳ない気分になってくる。ハイデガーの『存在と時間』なんて、『現象学』というわかりにくい学問を『ごく日常のありきたりのドイツ語』を使って平易に説明しようという労苦の結晶であるし、最後にはハイデガーはその試みを、構想の半分ほど書いたところで投げ出してしまうのだ。あの分厚い『存在と時間』は実は未完の代物なのである。
ニーチェもその例に漏れない。扇動的で過激なヨーロッパ批判も、警句集みたいな書き方も、さらには『ツァラトゥストラ』のような詩のようで物語のような書物も、『自分に今できる範囲ではこれがもっともわかりやすい表現の仕方だ』と考えてのことである。だって、哲学者ってなにをして食っていると思っているのか。スピノザみたいに在野にあってもレンズ研磨ではまさに名人、というような副業を持っていなければ、主に哲学を教えるか、そうでなければ本を売って食っているのだ。わかりやすくなかったら、哲学を学びに来ようという人間はいないし、本を買おうという人間もいないだろう。ショーペンハウアーなんて、自著の序文に「この本を買ってくれ、できれば一冊ではなく二~三冊は買ってくれ、読む以外にも本の使いかたはあるだろう、たとえば飾るとか」などというジョークを堂々と書いているくらいだ。
「ニーチェが努力してることはわかったけれど、結論はどうなの?」という問いは必ず出てくるだろう。そこで難解至極な結論が出てくるかといったら、そういうわけでもない。少なくとも、『ツァラトゥストラ』が「読者にわかってもらおう」ということを念頭において、「ごくそこらへんにいる普通の人」に読んでもらうために書かれていたとするならば、最終的に、ニヒリズムに対抗して生きるためには、「やりたいことをやれ、できれば楽しみながら。どうせそれしかできないんだから。後悔しなければなおよし」という月並みな処世訓が引き出されて終わるだけである。
だが、その月並みな処世訓に至るまでの、困難を極め絶望的で苦しいにもほどがある孤独な戦いを知る、そのために哲学書があり、哲学を学ぶ意味があるのだ。同じ処世訓でも、その戦いを知ったうえで語るのと、そんなことにはまったく無知なまま、軽い気持ちで語るのとでは、同じ言葉でも『重み』が違う。
前にニュースで、「人を殺すことはどうしていけないの?」という質問をした小学生が取り上げられていたが、ニーチェにしてみれば、それだけでは哲学者の問いではないだろう。これがイラクで生を受け、アフガニスタンの内戦を辛くも生きのび、人がばたばた死ぬのを目の前で見るという経験をした小学生の問いだったらば、哲学者の問いとして真摯に答えたと思う。
同じ「いざ、もう一度!」でも、ニーチェの本を読んで理解し、永劫回帰の無意味の中で生きるしかない人間、という絶望的なビジョンを受け入れ、そのうえでニーチェに賛同し、自分のしたことに対し喜びを覚えつつ後悔することなく「いざ、もう一度!」と発言することができる「普通の人」、それがニーチェのいわんとしていた『超人』の最終的な意味であり到達地点ではないか。『再び幼子として生きる』というのはそういう『普通の生活』をできるところに戻ってくる、ということではないのか。同じ日常であり普通の生活でも、ニーチェ的な戦いの後にたどり着いたそこは、戦いの前の世界とは一変した、まったく違う世界ではないのか。
最初に『神は死んだ』に出会ってから三十年。わたしは自分の中で、特別な哲学者としてニーチェをそんなふうにとらえている。これがニーチェの正しいとらえ方であるかどうかはわからないし、だいたいニーチェを人生の手本にしろというのは、『人生の手本』というものを徹底的に嫌って、自分自身で『人生』の新しい見かたを手本なしで切り開いたニーチェに対して失礼千万であろう。わたしにとってニーチェとは、そこに近づくと普段の生活からは考えもつかないような視点を次々と思いつけるが、決して『教師』ではない、魅力的で怖くてかなり危険でもある空間である。
魅力的なことときたら、ちょっと二、三行書くつもりがこんなに長々と書いてしまうほどなのだ。
久しぶりに足を踏み入れてみようかな。
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私はニーチェのことは
「人々がマリオネットでしかない、という現実を容赦なく突き付けたものの、自身の主張もマリオネットを超えられず、おそらく本人もそのことに気づいていたため、頭がおかしくなった人」
と考えています
ニーチェの前半は私も賛成ですが、後半は明らかにおかしいです
価値がないなら「ルサンチマンを持つべきではない」とは言えないはずですし
そもそも自由意思がないなら「超人のように生きるべき」という主張も何の意味も持ちません
人生は無意味(決定論的)だけど楽しもう(非決定論を前提とした感情を呼び起こそう)
という決定的な矛盾が存在していると思います
「人々がマリオネットでしかない、という現実を容赦なく突き付けたものの、自身の主張もマリオネットを超えられず、おそらく本人もそのことに気づいていたため、頭がおかしくなった人」
と考えています
ニーチェの前半は私も賛成ですが、後半は明らかにおかしいです
価値がないなら「ルサンチマンを持つべきではない」とは言えないはずですし
そもそも自由意思がないなら「超人のように生きるべき」という主張も何の意味も持ちません
人生は無意味(決定論的)だけど楽しもう(非決定論を前提とした感情を呼び起こそう)
という決定的な矛盾が存在していると思います
- #18198 ムイミ
- URL
- 2016.12/18 10:32
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Re: ムイミさん
それでもわれわれは日々生活しなければならないし、楽しい時は楽しいし、悲しい時は悲しいのも事実です。このような体感している現実と、「無意味」という論理的な帰結が対立していること、それこそが決定的な矛盾なわけであります。
ニヒリズムはやはり人間が突破できるようなものではないのかもしれません。