映画の感想
「奇跡(御言葉)」見た
「裁かるるジャンヌ」で知られるデンマークの生んだ巨匠、カール・ドライヤー監督の1956年作品。ベネチアで金獅子と、アメリカのゴールデングローブ賞を取っている傑作だそうだ。
オールドファンに名作と呼ばれている「裁かるるジャンヌ」が見たいとかねてより思っていたのだが、戦時中失われたと思われていたフィルムのネガが発見されたのが1985年、DVDが紀伊国屋から出たのが2005年のことだそうだから、レンタル屋に並ぶのはかなり先のことのようである。
で、「宗教映画か?」と思いつつも、図書館で貸し出していたので本作を借りて見たのだが、これがもう、なんというか、静かな映画なのだが後からじわじわ効いてくるタイプの映画だったのだ。今も、自分がこの映画を理解しえたのか自信が持てない。
ストーリーであるが、二十世紀初頭、デンマークの田舎で農園を経営する地主のボーオン一家が主人公である。家長のモーテンは信仰心厚いグルントウィー派のプロテスタントで、三人の息子を抱えている。長男のミッケルは、「神を信じられない」男で、妻のインガーとの間に娘二人がいる。さらにインガーは三人目の子供を身ごもっている。次男のヨハンネスは神童と呼ばれた若者であったが、神学の勉強をしすぎたことと、恋人であった娘を交通事故で失ったことにより精神に異常をきたし、自分を現代に再生したナザレのイエスそのひとだと思い込んで奇矯な言動を繰り返し、いまは軟禁状態で屋敷にいる。三男アナスはそうしたこととは無縁だが、世俗的なグルントウィー派とは対立する原理主義的な内的使命派の信仰を持つ仕立屋ペーターの娘であるアンネと相愛の仲であり、結婚を望んでいる。モーテンにとっては、仕立屋のような職人の娘とは家の格が違うので、結婚など許せない。
そんな日常が続いている中で、インガーが産気づくのであったが……。
この作品において、「裁かるるジャンヌ」などの、他のドライヤー監督作品から、ボーオン家の罪をすべて背負って死に、奇跡によって蘇るインガーがイエスの象徴、という見方があるようだが、わたしにはそれは無条件に納得できない。
インガーが話の中心になっていることは確かである。このたくましい農家の主婦の産褥、これが中心になっていることはいうまでもない。だが、インガーはイエスであるといえるのか。むしろ、この映画は、インガーをめぐってのモーテンとヨハンネスとの間の、「信仰」をめぐる一種の闘争、それが主題となっているのではないか。
わたしはこの映画におけるイエスは、そのままヨハンネスであると考える。戯画化され、「狂人」としての演出はされているものの、この映画においてヨハンネスが口にする言葉はすべて真実である。ヨハンネスの言葉は神の言葉である。
だが、モーテンはそれを信じない。モーテンを始め、ボーオン家を取り巻くほぼすべての人物はヨハンネスを単なる狂人として扱う。
そこがこの映画のもっとも描きたかったところではないのか。信仰に厚く、正しい村の人々が、だれひとりとして「神の言葉」に耳を貸さないのである。神の言葉を語る人間が狂人であるがゆえに、神の言葉は「語るに値しないもの」とみなされ、無視される。
この映画において、監督がやりたかったのは、イエスの受難よりは、むしろ「アブラハムとイサク」の物語ではないのか。
アブラハムに当たるのがモーテンであり、イサクに当たるのが産褥で死ぬインガーであり、神に当たるのがヨハンネスであろう。
モーテンの「常識的な人間」としての思考は、生贄であるインガーを神にささげるのにあたって、神を信じない。アブラハムがイサクに刃を向けたとき、神がそれを止めたのは、イサクに刃が向けられたことからではなく、アブラハムもイサクも神を信じていたからであろう。したがって、モーテンはじめボーオン家の人びとがヨハンネスの口を借りて神が語る言葉を信じない以上、神は生贄を「受け取らざるを得ない」。ここでまず殺されるのがインガーの胎内の胎児である。祝福され、ボーオン家の将来の跡取りとして生まれてくるはずだった男児は、「母体を守るため」に医者にバラバラにされて母体から引きだされる。そのことは聖書の言葉に沿ってヨハンネスの口から語られているにもかかわらず、モーテンたちはまだ信じない。
神はさらに生贄を要求する。次はインガーの生命である。医者は科学と医学に従って最善を尽くし、モーテンはそれを信じる。しかし、神はヨハンネスの口を借りてインガーの生命が奪われることを示し、そしてそれを回避するためには「この言葉を信じよ」と告げる。しかしモーテンはそれを信じない。ヨハンネスの言葉通りに、インガーは産褥で死ぬ。
そこに、ミッケルとインガーの娘である、幼くまだ物事をよく理解できない少女がヨハンネスのもとにやってくる。少女は、「物事をよく理解できないために」ヨハンネスおじさんの言葉を信じてしまう。
神の言葉を何ら疑うことなく信じたのは、なにもわからぬ幼い娘ただひとりだけなのである! ここにわたしはカイ・ムンクの原作を脚色したドライヤーのメッセージの中心を見る。おそらく、ドライヤー監督の頭にあったのは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」の挿話であったのではなかろうか。「地上の教会」すべてから拒絶されるイエスを、まだ信じる人間がいる! この転倒し逆転した世界においては、その「無知なるもの」しか、「信じる」「信仰する」ことが不可能になっているのである。
葬儀の日、棺を覆う直前になって、正気に戻ったヨハンネスと、小さな娘がイエスの名を唱えることにより、死んだはずのインガーは蘇る……のだが、奇跡はそこにはない。医者の目から見れば、これは単なる誤診にすぎず、インガーは昏睡状態から目覚めただけにすぎない。
ではなにが「奇跡」なのか。ここでわれわれは「予定説」的に考える必要がある。
予定説によれば、すべての人間の生死は神によって予定されている。である以上、インガーは誰が何をやろうと、死ぬべき時までは死ねないはずである。
「奇跡」とは、「インガーが死なない」状況を、このボーオン家をはじめとする村の人間たちが、「作り得た」というそのことそのものではないのか?
インガーの死と再生は、「因果的」に考えてはいけないものなのである。「神を信じた」からインガーが再生したのではなく、「インガーが再生できる世界だからこそ人間には神を信じられる」と解釈するべきなのだ。時間性のただなかにある世界では、その一刻一刻が奇跡なのであり、それを担保するものとして、「言葉」があり、「信仰できる人間がいる」のである。
わたしはこの映画をそう解釈したが、正しいという自信はない。やはり、じわじわと効いてくる映画である。多分に思弁的であり、カイ・ムンクの原作の戯曲よりも、ある意味ラディカルに「信仰」とは何か、というところに肉薄している映画のように思えるのである。
オールドファンに名作と呼ばれている「裁かるるジャンヌ」が見たいとかねてより思っていたのだが、戦時中失われたと思われていたフィルムのネガが発見されたのが1985年、DVDが紀伊国屋から出たのが2005年のことだそうだから、レンタル屋に並ぶのはかなり先のことのようである。
で、「宗教映画か?」と思いつつも、図書館で貸し出していたので本作を借りて見たのだが、これがもう、なんというか、静かな映画なのだが後からじわじわ効いてくるタイプの映画だったのだ。今も、自分がこの映画を理解しえたのか自信が持てない。
ストーリーであるが、二十世紀初頭、デンマークの田舎で農園を経営する地主のボーオン一家が主人公である。家長のモーテンは信仰心厚いグルントウィー派のプロテスタントで、三人の息子を抱えている。長男のミッケルは、「神を信じられない」男で、妻のインガーとの間に娘二人がいる。さらにインガーは三人目の子供を身ごもっている。次男のヨハンネスは神童と呼ばれた若者であったが、神学の勉強をしすぎたことと、恋人であった娘を交通事故で失ったことにより精神に異常をきたし、自分を現代に再生したナザレのイエスそのひとだと思い込んで奇矯な言動を繰り返し、いまは軟禁状態で屋敷にいる。三男アナスはそうしたこととは無縁だが、世俗的なグルントウィー派とは対立する原理主義的な内的使命派の信仰を持つ仕立屋ペーターの娘であるアンネと相愛の仲であり、結婚を望んでいる。モーテンにとっては、仕立屋のような職人の娘とは家の格が違うので、結婚など許せない。
そんな日常が続いている中で、インガーが産気づくのであったが……。
この作品において、「裁かるるジャンヌ」などの、他のドライヤー監督作品から、ボーオン家の罪をすべて背負って死に、奇跡によって蘇るインガーがイエスの象徴、という見方があるようだが、わたしにはそれは無条件に納得できない。
インガーが話の中心になっていることは確かである。このたくましい農家の主婦の産褥、これが中心になっていることはいうまでもない。だが、インガーはイエスであるといえるのか。むしろ、この映画は、インガーをめぐってのモーテンとヨハンネスとの間の、「信仰」をめぐる一種の闘争、それが主題となっているのではないか。
わたしはこの映画におけるイエスは、そのままヨハンネスであると考える。戯画化され、「狂人」としての演出はされているものの、この映画においてヨハンネスが口にする言葉はすべて真実である。ヨハンネスの言葉は神の言葉である。
だが、モーテンはそれを信じない。モーテンを始め、ボーオン家を取り巻くほぼすべての人物はヨハンネスを単なる狂人として扱う。
そこがこの映画のもっとも描きたかったところではないのか。信仰に厚く、正しい村の人々が、だれひとりとして「神の言葉」に耳を貸さないのである。神の言葉を語る人間が狂人であるがゆえに、神の言葉は「語るに値しないもの」とみなされ、無視される。
この映画において、監督がやりたかったのは、イエスの受難よりは、むしろ「アブラハムとイサク」の物語ではないのか。
アブラハムに当たるのがモーテンであり、イサクに当たるのが産褥で死ぬインガーであり、神に当たるのがヨハンネスであろう。
モーテンの「常識的な人間」としての思考は、生贄であるインガーを神にささげるのにあたって、神を信じない。アブラハムがイサクに刃を向けたとき、神がそれを止めたのは、イサクに刃が向けられたことからではなく、アブラハムもイサクも神を信じていたからであろう。したがって、モーテンはじめボーオン家の人びとがヨハンネスの口を借りて神が語る言葉を信じない以上、神は生贄を「受け取らざるを得ない」。ここでまず殺されるのがインガーの胎内の胎児である。祝福され、ボーオン家の将来の跡取りとして生まれてくるはずだった男児は、「母体を守るため」に医者にバラバラにされて母体から引きだされる。そのことは聖書の言葉に沿ってヨハンネスの口から語られているにもかかわらず、モーテンたちはまだ信じない。
神はさらに生贄を要求する。次はインガーの生命である。医者は科学と医学に従って最善を尽くし、モーテンはそれを信じる。しかし、神はヨハンネスの口を借りてインガーの生命が奪われることを示し、そしてそれを回避するためには「この言葉を信じよ」と告げる。しかしモーテンはそれを信じない。ヨハンネスの言葉通りに、インガーは産褥で死ぬ。
そこに、ミッケルとインガーの娘である、幼くまだ物事をよく理解できない少女がヨハンネスのもとにやってくる。少女は、「物事をよく理解できないために」ヨハンネスおじさんの言葉を信じてしまう。
神の言葉を何ら疑うことなく信じたのは、なにもわからぬ幼い娘ただひとりだけなのである! ここにわたしはカイ・ムンクの原作を脚色したドライヤーのメッセージの中心を見る。おそらく、ドライヤー監督の頭にあったのは、ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」における「大審問官」の挿話であったのではなかろうか。「地上の教会」すべてから拒絶されるイエスを、まだ信じる人間がいる! この転倒し逆転した世界においては、その「無知なるもの」しか、「信じる」「信仰する」ことが不可能になっているのである。
葬儀の日、棺を覆う直前になって、正気に戻ったヨハンネスと、小さな娘がイエスの名を唱えることにより、死んだはずのインガーは蘇る……のだが、奇跡はそこにはない。医者の目から見れば、これは単なる誤診にすぎず、インガーは昏睡状態から目覚めただけにすぎない。
ではなにが「奇跡」なのか。ここでわれわれは「予定説」的に考える必要がある。
予定説によれば、すべての人間の生死は神によって予定されている。である以上、インガーは誰が何をやろうと、死ぬべき時までは死ねないはずである。
「奇跡」とは、「インガーが死なない」状況を、このボーオン家をはじめとする村の人間たちが、「作り得た」というそのことそのものではないのか?
インガーの死と再生は、「因果的」に考えてはいけないものなのである。「神を信じた」からインガーが再生したのではなく、「インガーが再生できる世界だからこそ人間には神を信じられる」と解釈するべきなのだ。時間性のただなかにある世界では、その一刻一刻が奇跡なのであり、それを担保するものとして、「言葉」があり、「信仰できる人間がいる」のである。
わたしはこの映画をそう解釈したが、正しいという自信はない。やはり、じわじわと効いてくる映画である。多分に思弁的であり、カイ・ムンクの原作の戯曲よりも、ある意味ラディカルに「信仰」とは何か、というところに肉薄している映画のように思えるのである。
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なんとはなしに伝えたいことは分かりますね。
普通の感想は産褥に生命の奇跡を感じるのでしょうけど、そういうのではないのですよね。
日本では特に宗教を忌避するところがあるのに、それが狂人だとしたら、胡散臭いを超えて聞く耳を持たないという話しになりますものね。
ポールさん独特の切り口を感じましたね。
(  ̄ー ̄)ノ
普通の感想は産褥に生命の奇跡を感じるのでしょうけど、そういうのではないのですよね。
日本では特に宗教を忌避するところがあるのに、それが狂人だとしたら、胡散臭いを超えて聞く耳を持たないという話しになりますものね。
ポールさん独特の切り口を感じましたね。
(  ̄ー ̄)ノ
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Re: LandMさん
けっこう後からじわじわ効いてきます。
ドライヤー監督の画面構成も見る人が見れば「すごい」となるそうですが、わたしにはそうしたものを評価できる感覚がないので……。