ゲーマー!(長編小説・連載中)

    閑話休題4

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    閑話休題

     トルストイの「要約福音書」を手に入れた男は、それからというもの、猛烈に「祈る」ようになる。その祈りは、「明日も無事でいられますように」とかいった尋常なものではなかったらしい。祈ることは生きることであり、生きることは祈ることであった。男には、周囲の人間がこの明瞭な事実に気づかないことが不思議でたまらなかったようである。誰彼かまわずことあるごとに人をつかまえては「福音書」についてアツく語ってしまうこの男に、周囲の兵士は辟易させられたらしい。つけられたあだ名が「福音書の男」。

     それはともかく、「祈る」ことで男は「自分が生きている」ことをリアルな意味で実感した。これはゴプラナ号を離れ、砲兵連隊の一員として東部戦線に配属され、ロシア軍との戦いが激しくなるにしたがって、相互作用のように強くなっていった。残されている男の日記には、この辺りから前向きな言葉が次々と出てくるようになる。「善く生きることは難しいけれど、善く生きることは美しいことだったんだ」(1916年4月)とか。

     何を能天気な、というのはたやすいが、男は男なりにまじめなのである。まじめすぎるほどまじめなのである。

     男は、自ら志願して、偵察兵としての任務に就いた。まあつまり、監視塔での「見張り」だが、撃った砲弾がどこに落ちたかの確認もしなくてはならない重要な任務である。当然、ロシア軍は夜に攻めてくる可能性もあるわけで、夜中も見張りはしなくてはいけない。当然、レーダーなどというものが存在しない第一次世界大戦では、「明かり」をつけないと敵が来るかどうかも見えないし、砲弾がどこに落ちたかもわからない。そして明かりをつけると相手からも場所がまるわかりになるわけで、当然、砲弾に狙われたくないロシア軍はまず最初に監視塔から潰しにかかってくるわけだ。命がいくらあっても足りない危険な仕事である。

     当時のオーストリア軍の実力というものがどの程度のものだったかだが、SPIという会社が作った「第一次世界大戦」というシミュレーションゲームがある。そこでは各国の軍隊の戦略単位ごとの能力がわかりやすい形でデータ化されている。「攻撃力/防御力」で、ドイツ軍は「4/6」、フランス軍は「4/3」とか。ではロシア軍はどうだったのかというと、「3/3」であり、我らがオーストリア軍は「2/3」である。お世辞抜きでいって、同程度の規模の兵力で戦おうという場合においてはヨーロッパ列強中「最弱」の軍隊であった。国力的には比較にならないほどの小国セルビアを相手にしても苦戦してしまうレベルなのである。口の悪い人間にいわせると、「飛行機が飛び機関銃がうなり毒ガスが荒れ狂い果ては戦車まで登場しようかという戦場で、ナポレオン時代の戦争をしようとでもいうかのようなオーストリア軍を見ていると涙ぐましくなってくる」そうだが、妥当な評価かどうかはおいておく。

     1916年6月4日。西部戦線での英仏を主体とした連合軍によるドイツ軍への反撃を戦略的に援護するため、圧倒的な数を揃えたロシア軍は、ガリシア地方に展開する弱体なオーストリア軍に対して大攻勢をかけた。俗に「ブルシーロフ攻勢」といわれるこの一連の戦いで、オーストリア軍はたまらず潰走した。わずか2週間の戦いで捕虜にされたオーストリア兵は20万人ともいわれる。その後、ドイツ軍が援軍として到着したことと、ロシア軍が撤退の時期を見誤ったことにより、戦線は泥沼の状態になった。2カ月後、攻勢が終わった時、戦場には50万人のロシア兵の死体と、100万人のオーストリア兵の死体と、35万人のドイツ兵の死体が残された。

     この間、男は偵察兵として勇敢に任務をこなし、避難命令さえ拒否して戦場にとどまり、勲章を受けて伍長に昇進した。よくも100万人のひとりにならずに生きのびたものである。

     ブルシーロフ攻勢には戦争の行方を左右する大きな意味があった。ドイツ兵35万人の死傷は西部戦線の危機を救い、オーストリア兵100万人の死傷はオーストリアの継戦能力を奪うに足るものだった。ロシア軍にとっての第一次世界大戦で最大の勝利であり軍事的な頂点を示すものであったが、同時にロシア兵50万人の死傷はあまりにも多大すぎるものであった。そしてここからロシアの国内情勢は坂を転げ落ちるように悪化し、1917年10月、わずか1年ののちにロシア革命を迎えることになる。

     ロシアの国内の混乱により東部戦線はいささか平穏になった。1918年に少尉に昇進してから男はイタリア方面へ派遣され、そこでも勇敢な戦いぶりを見せ二度目の勲章を受ける。

     だがもう、オーストリアを取り巻く状況は絶望的になっていた。極東の島国であったらこの男みたいなやつは万歳突撃というヤケクソじみた国を挙げての総自殺に喜んで参加するところであるが、オーストリアはやはり文化というものが違う。

     男は休暇を与えられ、ザルツブルグの叔父の家で休養し、これまでの人生経験のすべてをぶち込んだ一冊の本を書くべく執筆を開始した。論理学、言語、生きること、祈ること、神、世界の成り立ち、書かなければならないことは山ほどあった。イギリスでのバートランド・ラッセルたちとの対話、ノルウェーでの孤独な生活、トルストイの福音書の衝撃、戦場での過酷な毎日という尋常ではない人生を経てきた男には、そうした哲学が扱う雑多な諸問題への解答が、クリアな形で見えていた。男は考える力がある人間ならば誰にでもわかるように、扱う言葉の一語一語を吟味したうえで配置し、構成し、組み合わせた。

     ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン著「論理哲学論考」、脱稿。序文にいわく「これによりすべての哲学の問題は解決された」。

     お前何様だ。
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    ~ Comment ~

    Re: LandMさん

    機関銃の時代に騎兵突撃とかやっていたらふつうは負けますわな(^^;)

    もとから軍事的には開明的でない国でしたしオーストリア。

    開明的な軍人、たとえばナポレオン時代におけるカルル大公のような人が現れたら全力でつぶしにかかる、そういう困った伝統がある国なのです。

    平和といっちゃ平和でありますが。

    NoTitle

    まあ、確かに時代は変わってますよね。
    兵器開発。それを扱う兵士の習熟度が鍵ですからね。
    昔みたいに武器持って戦う時代でもないですからね。
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