ゲーマー!(長編小説・連載中)
閑話休題5
オラフ・ステープルドンというイギリスの作家の作品に「オッド・ジョン」というSF小説がある。その主人公である超人類のひとりオッド・ジョンは、死ぬ前に自分の思索を本にまとめる。読ませてくれという語り手に、オッド・ジョンは、「猫に人間が書いた本が理解できると思うかい?」と笑っていなすのだった。
「論理哲学論考」は、まさにその「オッド・ジョン」が書いた本といってもいいだろう。そこには、「論考」の著者である男が理解した世界の真実が、どこまでも明快に書き記してある。問題は、その明快さが、男と同じような頭脳と、問題意識を兼ね備えた人間でないと、まったく理解できないということなのだ。「天才」が「天才」のために書いた本というか、いいかたを変えれば、「世の中の普通の物の書き方にピンとこない人間」が、同じく「ピンと来ない人間」のために書いた本なのだ。
その書き方のシンプルさたるやすさまじい。
「1 世界は成立していることがらの総体である。
1・1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
1・11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
……」
これが、
「7 語りえないものについては、沈黙しなければならない」
まで、延々とこの調子で続くのだ。
これを読んだ大多数の人間は、「アフォリズム集」だと思った。ひとことで人を啓発する、警句集だと思ったのである。
そして天才的な哲学者であるバートランド・ラッセルは、この本は「理想的な言語とはどうあるべきか」について考察した本だ、と読んだ。ラッセルに影響されて、これを読んだ哲学者の大部分は、「この本は、人間は論理的に生きなければならず、そのために必要なのは哲学、特に形而上学を考えることをやめ、自然科学を学問の中心とすることである」ということを示した本だ、と読んだ。モーリッツ・シュリックやルドルフ・カルナップを中心とした彼らは「論理実証主義者」と呼ばれることになる。
問題は、この「論理哲学論考」を書いた男自身は、そんな論理実証主義者の考えるようなことはわずかも考えていなかった、ということである。この本が売れたのは何と言ってもラッセルがプッシュしたからだが、ラッセルがこの本に付けた序文を読んで男は頭を抱えたらしい。男が残した膨大な遺稿と草稿を収集し、徹底的に分類したフォン・ライトという学者の手によって、「論理哲学論考」が実際のところ何について問題提起していたのかが誰の目にも明らかになったのは、実に1960年代のことであった。
この小説の作者もわかってるのかと問われたら疑問を通り越してさっぱりわからないのであるが、ざっくり書いてみよう。
男にとってまず重要だったのは、世界とはどういうものか、であった。
男は、世界とは「すべての可能な思考」が、「論理記号」による道によって網の目のようにつながれたもの、だと考えた。
可能な思考の例を挙げよう。「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書いた」と考えることは可能である。また、「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書かなかった」と考えることも可能である。その両方が、ウィトゲンシュタインの宇宙には存在し、このふたつの思考は「否定」という論理記号でつながっているのである。「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書かなかった」と考えるのは、「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書いた」という思考から、「否定」という道を通ることと同じなのだ。
「秀吉は江戸城を築いた」から「または」を通って、「秀吉は江戸城または大阪城を築いた」に行き、「ない」を通って「秀吉は江戸城を築かなかったが大阪城を築いた」に移動することができる。
「かつ」「または」「ない」「~ならば~である」といった論理記号で、すべての可能な思考が繋がれ、その総体が宇宙なのだ。
では、その「可能な思考」をするのは誰か。いまここで言語を使い考えている「わたし」である。「わたし」で悪ければ、「考えている存在」だ。「考えているわたし」が、無数の「可能な思考」を論理記号の小道をたどって動く過程こそが、「わたし」が宇宙で生きていることなのだ。つまり、言語はある意味「わたしの言語」「わたしだけの言語」である。
「可能な思考」が「論理記号」でしっかりと結びつけられた、その宇宙の外側にあるのは何か。トルストイの福音書に出会った男は、「何もない」とは考えなかった。そこには何かがあるのだが、論理でも言語でも語ることができないなにかなのだ。
その「何か」にすっぽりとくるまれた状態で、男と男にとっての全宇宙があるのである。そういった意味で、男の哲学の結論は、一種の独我論であった。世界に存在するのは、基本的に「わたし」だけで用が足りる哲学である。
男にとって、生きることは、「何か」が存在することを自覚しながら、「祈る」ことによってその「何か」と一体化することであった。「何か」と一体化することにより、人間は幸福感を得るのであり、そして男の倫理学では、何よりも「幸福」であることが重要なのである。
言語では語れない位置にある「何か」と、言語では語れない形で「一体化」するところに、「言葉」は必要がない。「何か」は、可能な思考として「語る」のではなく、ただ言語を超えて「示される」のだ。
言語で語れない 「示される」ものを、言語で「語ること」を目的とした形而上学のほとんどは、問題の立て方自体が誤っているのである。語れないものを語るのは矛盾であるから、哲学、特に形而上学のほとんどは、偽問題としてゴミ箱行きだ。
男はこう信じ、「哲学のすべての問題は解決された」と、本気で自著に記した。
「語りえないものについては、沈黙しなければならない」
男は、沈黙の中、哲学的には幸福であった。もっとも、周囲の余りのこの本に対する無理解と誤読の山を目にすると、時おり自殺を考えたくもなるのは、やはりこの男らしかったが。
かくして、すべての哲学的問題に「偽問題」と引導を渡して解決してみせた男は、哲学の悩みから解放されて、念願の隠遁生活に入ることにした。
第一次大戦が終わり、1920年、男は、小学校教諭としての教員免許を得た。すでに三十路をまわっていた。
こういうのもなんだが、幼少時より有り余る財産に囲まれていると、こういう、生活にピンと来ない男になってしまうらしい。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、オーストリアの山奥のド田舎での勤務を望み、トラッテンバッハ村に赴任する。
やめたほうがいいんじゃないのか。
「論理哲学論考」は、まさにその「オッド・ジョン」が書いた本といってもいいだろう。そこには、「論考」の著者である男が理解した世界の真実が、どこまでも明快に書き記してある。問題は、その明快さが、男と同じような頭脳と、問題意識を兼ね備えた人間でないと、まったく理解できないということなのだ。「天才」が「天才」のために書いた本というか、いいかたを変えれば、「世の中の普通の物の書き方にピンとこない人間」が、同じく「ピンと来ない人間」のために書いた本なのだ。
その書き方のシンプルさたるやすさまじい。
「1 世界は成立していることがらの総体である。
1・1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
1・11 世界は諸事実によって、そしてそれが事実のすべてであることによって、規定されている。
……」
これが、
「7 語りえないものについては、沈黙しなければならない」
まで、延々とこの調子で続くのだ。
これを読んだ大多数の人間は、「アフォリズム集」だと思った。ひとことで人を啓発する、警句集だと思ったのである。
そして天才的な哲学者であるバートランド・ラッセルは、この本は「理想的な言語とはどうあるべきか」について考察した本だ、と読んだ。ラッセルに影響されて、これを読んだ哲学者の大部分は、「この本は、人間は論理的に生きなければならず、そのために必要なのは哲学、特に形而上学を考えることをやめ、自然科学を学問の中心とすることである」ということを示した本だ、と読んだ。モーリッツ・シュリックやルドルフ・カルナップを中心とした彼らは「論理実証主義者」と呼ばれることになる。
問題は、この「論理哲学論考」を書いた男自身は、そんな論理実証主義者の考えるようなことはわずかも考えていなかった、ということである。この本が売れたのは何と言ってもラッセルがプッシュしたからだが、ラッセルがこの本に付けた序文を読んで男は頭を抱えたらしい。男が残した膨大な遺稿と草稿を収集し、徹底的に分類したフォン・ライトという学者の手によって、「論理哲学論考」が実際のところ何について問題提起していたのかが誰の目にも明らかになったのは、実に1960年代のことであった。
この小説の作者もわかってるのかと問われたら疑問を通り越してさっぱりわからないのであるが、ざっくり書いてみよう。
男にとってまず重要だったのは、世界とはどういうものか、であった。
男は、世界とは「すべての可能な思考」が、「論理記号」による道によって網の目のようにつながれたもの、だと考えた。
可能な思考の例を挙げよう。「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書いた」と考えることは可能である。また、「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書かなかった」と考えることも可能である。その両方が、ウィトゲンシュタインの宇宙には存在し、このふたつの思考は「否定」という論理記号でつながっているのである。「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書かなかった」と考えるのは、「ウィトゲンシュタインは論理哲学論考を書いた」という思考から、「否定」という道を通ることと同じなのだ。
「秀吉は江戸城を築いた」から「または」を通って、「秀吉は江戸城または大阪城を築いた」に行き、「ない」を通って「秀吉は江戸城を築かなかったが大阪城を築いた」に移動することができる。
「かつ」「または」「ない」「~ならば~である」といった論理記号で、すべての可能な思考が繋がれ、その総体が宇宙なのだ。
では、その「可能な思考」をするのは誰か。いまここで言語を使い考えている「わたし」である。「わたし」で悪ければ、「考えている存在」だ。「考えているわたし」が、無数の「可能な思考」を論理記号の小道をたどって動く過程こそが、「わたし」が宇宙で生きていることなのだ。つまり、言語はある意味「わたしの言語」「わたしだけの言語」である。
「可能な思考」が「論理記号」でしっかりと結びつけられた、その宇宙の外側にあるのは何か。トルストイの福音書に出会った男は、「何もない」とは考えなかった。そこには何かがあるのだが、論理でも言語でも語ることができないなにかなのだ。
その「何か」にすっぽりとくるまれた状態で、男と男にとっての全宇宙があるのである。そういった意味で、男の哲学の結論は、一種の独我論であった。世界に存在するのは、基本的に「わたし」だけで用が足りる哲学である。
男にとって、生きることは、「何か」が存在することを自覚しながら、「祈る」ことによってその「何か」と一体化することであった。「何か」と一体化することにより、人間は幸福感を得るのであり、そして男の倫理学では、何よりも「幸福」であることが重要なのである。
言語では語れない位置にある「何か」と、言語では語れない形で「一体化」するところに、「言葉」は必要がない。「何か」は、可能な思考として「語る」のではなく、ただ言語を超えて「示される」のだ。
言語で語れない 「示される」ものを、言語で「語ること」を目的とした形而上学のほとんどは、問題の立て方自体が誤っているのである。語れないものを語るのは矛盾であるから、哲学、特に形而上学のほとんどは、偽問題としてゴミ箱行きだ。
男はこう信じ、「哲学のすべての問題は解決された」と、本気で自著に記した。
「語りえないものについては、沈黙しなければならない」
男は、沈黙の中、哲学的には幸福であった。もっとも、周囲の余りのこの本に対する無理解と誤読の山を目にすると、時おり自殺を考えたくもなるのは、やはりこの男らしかったが。
かくして、すべての哲学的問題に「偽問題」と引導を渡して解決してみせた男は、哲学の悩みから解放されて、念願の隠遁生活に入ることにした。
第一次大戦が終わり、1920年、男は、小学校教諭としての教員免許を得た。すでに三十路をまわっていた。
こういうのもなんだが、幼少時より有り余る財産に囲まれていると、こういう、生活にピンと来ない男になってしまうらしい。
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、オーストリアの山奥のド田舎での勤務を望み、トラッテンバッハ村に赴任する。
やめたほうがいいんじゃないのか。
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Re: ダメ子さん
これから先の話になりますが、ウィトゲンシュタインは「哲学的考察」「哲学探究」で、この「独我論」と血の吹き出るような格闘をすることになります。
それについて本を読んでますがさっぱりわかりません。なんとかしてください(おい(^^;))。