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    風渡涼一退魔行

    風渡涼一退魔行 第四話 隠れ里

     ←日本ミステリ39位 燃える波濤 森詠 →日本ミステリ40位 弁護側の証人 小泉喜美子
    風渡涼一退魔行

    第四話 隠れ里


     1

    「ちょっと待ってくださいよおー」

     サラサラの髪と華奢な身体と細い顎骨という少女漫画から切り抜いてきたようななりにもかかわらず、こんな山奥までついてきた若造に、おれは憐れみの視線を送った。

    「だからいっただろうが。おれの仕事は、遊びじゃない。深入りしたら、死にかねないってな」

    「だって、どう考えても、遊び、じゃないですか」

     若造、塚原喜八郎は、恨みがましい視線でおれを見た。

    「ヒマラヤとか、アイガーとか、日本アルプスとかだったら、ついて来ようなんて、初めから思いもしませんよ。だけどここ、『高尾山』ですよ。遊びじゃなかったらなんなんですか!」

     おれはポケットから『わかば』を一本引き抜いて、口にくわえた。ジッポのライターをカチリと鳴らし、火をつけて深々と息を吸い込む。

     鼻から煙を吹き出すと、おれはいった。

    「……なんだろうな?」

     ほかになにをいえというのだ。

     高尾山。新宿から京王線で一時間弱のところにある、善良な都民の行楽地である。土日にはハイキング客で列車が満員になることでも知られている。現に、おれたちがやって来たのも、その京王線の満員列車だ。

    「わからないのはですね。高尾山で、どうしてぼくたちはこんな誰もいない山道を徘徊しなくちゃならないのかです!」

     おれは奥歯をカチッと鳴らしてから、笑った。

    「誰も徘徊なんてしてないぜ」

    「え?」

    「わからないのか。おれたちは、『遭難』したんだ。今ごろ、お前の親御さんは大騒ぎしている時分だな。地上でどれだけの時間が経ってるか、わかったもんじゃない」

    「ど、どういうことなんですか?」

    「やれやれ」

     こういうことに向いていないやつに説明するのは骨が折れるんだが。

    「いっただろう、おれは仕事で、桃源郷を探しに行くって。桃源郷でなければシャングリラだ」

    「ええ、聞きました。『ソフィア』で、織江さんにそういってましたね」

    「桃源郷の話を知ってるか」

    「ええと、陶淵明の有名な文章は、高校の授業でやったような、やらなかったような……でも、小学生の時に、児童向けのリライトで読みました」

    「小学生ね。そのころから変だったのかお前」

    「変、ってことはないでしょう。変、ってことは。ぼくは文学好きなことを除けば至って普通の人間で」

    「普通の人間だったらおれみたいなダークサイドの商売人の後なんかにくっついてくるんじゃない。で、桃源郷の話は、どうなる」

    「ええと、漁師が山の中で道に迷って、桃源郷にたどり着いて、よかったな、で終わり」

     おれは戦後日本の児童教育の荒廃ぶりを思い知らされて、頭がくらっとした。

    「それは前半だ。陶淵明の文章では、そこから木々に目印をつけながら人界に返ってきた漁師だが、もう一度そこを訪れようとしてもできなかった、となる。また、その噂を聞いて、桃源郷を目指そうとした、劉子驥という正しい生活をしている正しい心の持ち主も、行こうとしたけれどもその場所を見いだせないまま、老いて病に倒れて死んでしまった、となるんだ」

    「ああ、そういえばそうだったような」

    「おれたちが行こうとしているのはその桃源郷だ。もっといってしまえば、一部の人間たちに桃源郷と思われている、一種の異界だ」

    「異界……?」

    「待て。桃源郷と聞いて、お前は何だと思ったんだ」

    「中華料理店かと……」

    「なんで退魔師が仕事で中華料理店を探さなくちゃならんのだ!」

    「退魔師でも、おなかがすくと思ったので」

     妙なところで図星なことをいってくるやつだ。そう思ったとき、おれの腹の虫が鳴った。

     塚原喜八郎は人が悪い笑みを見せた。

    「ほーら」

    「人の生理的反応に余計なつっ込みを入れるな。とにかく、桃源郷がユートピアなんだかどうかは知らないが、非常にアクセスしにくい場所にあることは、わかるな」

    「はあ」

    「また、ここでおれが出張ってきているのはなぜかも、ここまで話せばわかるだろう」

    「いいところだからですか?」

    「危険だからだよ! 三人のパーティーが桃源郷を、この八王子の標高599メートルしかない山に探しに来て、行方不明になっている。それを探しに来た三人のパーティーも、同様に行方不明になっているんだ。ただのパーティーだったらおれの知ったこっちゃないが、後者のパーティーの成員はいずれもB級でこそあるが、それなりに名の知れた退魔師だった。しかも山岳活動のベテランだ。槍ヶ岳から穂高連峰への縦走なんてものを、裏庭の散歩みたいにやってのける連中だぞ。それが行方不明なんだ。こんな高尾山なんかで!」

     おれは「わかば」を根元まで吸ってから、携帯灰皿に入れてもみつぶした。

    「とりあえず、何かはいるらしいんだが、それがわからない。おれのやっていることは遊びじゃない。ついてきたのが身の不幸と思え」

    「風渡さんはどうなんですか。山の経験はあるんですか。もしかしたら、報酬につられて、下見に来たつもりが、道に迷ってにっちもさっちもいかなくなってる、とかいうのが本当のところじゃないんですか? だって、風渡さんの荷物、どう見ても、軽装ですよ」

    「変なことにツッコむんじゃない。それじゃまるでおれがドジ踏んだみたいじゃないか」

    「山岳についてはどれだけ経験があるんです」

    「お前よりはあるよ! 現に人からは、山岳部出身だろう、とよくいわれる」

    「いわれるだけですか!」

     この若造、おれの痛いところを突きやがった。

    「いわれてるだけなんですね」

     どうやら顔に出てしまったらしい。

     おれは、人から渥美清とせんだみつおをよく混ぜて、四角い型に流し込んだと形容された自分の顔をぴしゃりと叩いた。

    「顔だけは、山岳部員だといわれてる。谷口ジローが似顔絵を描いたらぴったりだそうだ」


     2

     高尾山に桃源郷があるだなどという、誰が聞いても与太話としか思えないことを、最初に公的な媒体に発表したのは、漫画家の山本貴嗣である。むろんそれは、プレイボーイ誌に連載されたギャグ漫画の中のギャグとしてであり、場所も高尾山ではなく「安尾山口」であった。

     その漫画の単行本は若い頃に古本屋で手に入れて、読んだおれは大いに笑ったが、高尾山桃源郷説、と呼べるものは、当然ながら、それだけで立ち消えになるはずであった。普通ならばそうだ。だがここに、ひとりの奇人が現れる。

     諸星礼二郎。伝奇SFを得意とする漫画家の諸星大二郎と、その作中の人物である「妖怪ハンター」稗田礼二郎の名前を組み合わせて作ったとしか思えない業の深い名前のこの人物は、辣腕を振るった実業家であった。

     口が悪いやつは、実業家といっても、ITバブル期にぼろ儲けした金をそのままホテル事業にぶち込むことに成功しただけだ、などと評しているが、実際に金が儲かっているところを見ると、ビジネスに対する嗅覚はたいしたものであったのは間違いない。特に、不良債権として余り気味だったマンションをバカみたいな安値で買い取り、それを「民泊」として同じくバカみたいに安い公認ホテルとして営業した才覚だけは、貧乏人が嫌でも認めねばならないところであろう。諸星グループが運営する、戸口にゴミさえ出しておけば、サービスマンがゴミ捨て日の集積所へゴミ出しまでやってくれるサービスのついた民泊は、安くトラブルなく日本を観光したいと願う外国人観光客の間に口コミで広まり、業績は順調に拡大中だった。

     この実業家がある日偶然に古書店で手に入れた書物、それが「高尾山隠里考」なる本だった。江戸初期の物に間違いなし、と古書店の主人が太鼓判を押したそれは、この依頼を引き受ける前に現物を見たおれの鑑定では、いくら古くても平成をさかのぼることはないであろう、という幼稚な贋作だったが、これの読解に諸星氏は熱中した。

     学研のオカルト専門誌「ムー」をはるかにしのぐいいかげんなほのめかしと謎かけに満ちたこの本を諸星氏は精読した。しかし、独学で身につけた諸星氏の漢文読解能力は、関東北部にあるI県全域に、俳句に例えれば「季語がなく、五七五を守っておらず、さらには日本語ですらない」と評される漢詩の彫られた石碑を作りまくった企業グループ代表のそれに劣るとも勝らないものであったため、諸星氏の解読作業は困難を極めた。

     だが、強靭な意志力についてだけいえば、諸星氏の意志力と忍耐力は、件のI県の実力者に勝るとも劣らないものであった。経営の傍ら苦労に苦労を重ね、あるときは専門家にバカにされながら、あるときは家族から涙まじりに制止されながら、諸星氏は苦節一年にして、「桃源郷は高尾山にある」ということを書類の上でだが証明することに成功したのである。

     この依頼を引き受ける前にその証明原稿の現物を見たおれの鑑定では、いくらなんでもこれは明らかにアルツハイマーだかドーパミン過敏症だか知らないが、本格的に頭のおかしくなった証拠ではないかと思われたが、本人は至って大真面目に、部下の、もと山岳部という体育会系の社員二人を連れて、意気揚々と高尾山へ向かった。

     結果、行方不明に。当初は高尾山ということでたかをくくっていた家族も、翌日になっても帰ってこないと心配しだし、三日過ぎて帰ってこない時点で会社の経営が傾き始め、一週間経って土俵際まで追い詰められてから、専門の調査員を雇うという話になった。

     専門の調査員として選ばれたのが、おれの知っているB級退魔師である。B級ともなると、退魔師としての仕事だけでは食っていくことは難しく、興信所や探偵事務所の調査員として日々の生活の糧を得ているのが普通だ。

     高尾山のことなら表も裏も知っているリーダーを中心に、山のことなら知らないことがない人間が三人でパーティーを組み、意気揚々と乗り込んでいったのが水曜日。

     その三人もまた行方不明になった。こういう状況での行動のイロハを心得ているはずの退魔師が定時連絡すら送ってよこさない状況に慌てたのは、おれの属する退魔師の組合である。たかだか高尾山で……怪しげな伝説のひとつたりと存在しない、東京都民の憩いの場所で、闇のエリートたる退魔師が行方不明に! これは退魔師のメンツにかかわるだけではない。もし、そのような行方不明スポットが存在するなら、一般市民が高尾山へ観光に行く、ということ自体が危険なことになる。かくして退魔師組合は東京都を恫喝し、東京都は日本政府に懇願し、日本政府はダミーを通じて予算を作り、予算は東京都を通じて、おれのところへ降りてきた。これをトリクルダウンという。その過程でいくらピンハネされたかは、末端労働者のおれの知るところではない。

     どんなときでも基本を忘れないおれは、事前調査として高尾山を訪れた。観光客に紛れるつもりだったから、足まわりも、衣服も、装備も、観光客同様の軽装である。高尾山口駅で、おれが高尾山に向かっていることを「ソフィア」で耳にしたらしい塚原喜八郎の待ち伏せを受けたが、とりあえず観光ルートをたどってだいたいの位置感覚をつかむことが目的だったおれは、やつについてくるに任せた。どうせ観光客に交じって山頂の展望台へ登り、ケーブルカーで降りて帰ってくるだけなのだ。塚原喜八郎は落胆するだろうが、やつには人生の苦みというものを知ってもらうべきであろう。

     ……それがまさか、観光コースを登り始めて一時間でこんな状況になるとは。麻雀でいえば、初巡にキー牌を引いてきたことで、一気にすべての手牌が切りにくくなってしまう状況がたまにあるが、まさにそれである。

     どうしたものか。なにしろ、ここまで道に迷っているのに、手持ちの食料は、水筒に水が2リットルと、当座のサンドイッチとお菓子少々、それに非常用のアルファ化米とレトルトカレーが一食分しかないのだ。


     3

     おれはもう一度腕の自動巻き時計を見た。これまでおれの期待に常に応えてくれていたローレックス社のメカニズムは、どこでひずみを生じたのか、メチャクチャな時間を示していた。ここまでメチャクチャな動きをしているとなると、ゼンマイと歯車を、一度スイスへ送って総点検してもらわないとなるまい。

    「おい、若造」

    「なんですか」

    「時計はどうなっている?」

    「え?」

     塚原喜八郎は腕に目をやった。

    「あ! 液晶が死んでる」

    「くそ」

     時間の感覚が失われるのはこの状況では致命的だ。森が深くて太陽の位置もよくわからない。

     おれはスマホをチェックした。うっすらと想像していたが、破滅的事態を直視するのを避けていたのだ。

     破滅的事態だった。スマホは時刻表示どころか、完全にオシャカになっていた。

     おれがスマホを眺めていたのに気づいた塚原喜八郎が慌てたように自分のスマホを取り出した。と思ったら、スマホじゃなくてアイフォンだった。

     山道は暗かったが、塚原喜八郎の顔色が紙のように白くなるのがわかった。

    「ど、どうしましょう、ぼくの……ぼくのアイフォンが……」

    「本格的にやつの結界に入ったようだ」

    「結界?」

    「そうだ。時間感覚が狂う。位置感覚が狂う。方向感覚が狂う。そのうちに自分が今いるところが、夢か現かもわからなくなる。たいていの隠れ里話には、この過程が含まれている」

    「隠れ里って、ぼくたちが目指しているのは、桃源郷じゃなかったんですか?」

    「桃源郷も隠れ里話の変形みたいなもんだからな。誰もが知っている昔話の浦島太郎も、そのバリエーションといえるかもしれない」

    「……と、いうことは」

    「せいぜい、向かう先に玉手箱がないことを祈ることだぜ」

     塚原喜八郎は情けない声を上げた。

    「あまりに悲観的にすぎませんかあ?」

    「どうなるにしても、ここで立ち止まっていたら事態は好転しない。昔流行った『チーズはどこへ消えた』精神で前進あるのみだぜ。ほら、立ちな」

     おれたちは再び歩き出した。

     隠れ里でも竜宮城でも桃源郷でもシャングリラでも何でもいいが、とにかく、この状況をもたらしている元凶の場所を見つけないといかんだろう。少なくとも、長時間にわたって腰を落ち着けられる安全な地点を探さないと、この若造の身体が参ってしまいかねない。無事現実世界に帰れたとして、貴重な「ぴゅしす」同人を異界に置き忘れてきたとなったら、織江のやつに何をいわれるかわかったもんじゃない。おれは「ソフィア」で飲んで金を払うだけだが、この塚原喜八郎は飲んで金を払ったうえで、少女小説サークル「ぴゅしす」の原稿を書き、さらにはサークルの会費まで払ってくれるのだ。どちらがありがたい客かはオバマとトランプを比べるくらいに明らかである。

     おれはジャケットの下からグロックを抜いた。

    「どうしたんです、風渡さん?」

    「あれを見ろ」

     おれはあごをしゃくった。

    「ただの道しかありませんけど」

    「よく見ろ。あそこに落ちているあれはなんだ」

    「え?」

     塚原喜八郎はそちらに二、三歩近づいた。

    「えーと、ただの懐中電灯ですよ」

     そういった後で、急に顔をこわばらせてこちらを振り返った。

    「風渡さん、ひどいや。ぼくに偵察をさせましたね。偵察じゃなきゃ、第二次大戦のソ連軍の地雷処理用歩兵だ」

     おれは、塚原喜八郎がその故事を知っていたことにちょっと感心した。ソ連の陸軍は、敵が設置した地雷原を突破するのに、捕虜に徒歩で先行させるという手段を採用したことで知られている。

    「まあいいじゃないか、地雷は爆発しなかったんだから」

    「よくはないですよ。この懐中電灯を調べたいのなら、風渡さん、自分で歩いてきてくださいよ」

     おれはいわれた通り塚原のそばまで丁寧に歩き、懐中電灯を調べた。昨日落としたといってもいいくらいに埃もなにもついてない。専用の取り付け金具に取り付けるタイプの、高級品だ。

    「誰のでしょう」

     おれはかぶりを振った。

    「わからん。先行したパーティーのものだったら、もっと埃とか、夜露の跡とか残りそうだ。もしかしたら、おれたち以外にも、わずかな時間の差で、この異界は獲物を捕らえたのかもしれない」

     塚原がごくりと唾をのんだ。

    「獲物……!」

    「隠れ里でいい目を見たやつが、現世に帰ってきたときリップ・ヴァン・ウィンクルみたいになるのはよくあることだぜ」

    「やですよそんなの!」

    「浦島太郎やリップ・ヴァン・ウィンクルならまだいいほうさ。おれが小学生の時読んだテキストでは、隠れ里から帰ってきた男は、牧師に死没者名簿を読み上げられると、あっという間に髪が白くなってしわだらけになって骸骨になって、そのまま塵芥になって風に吹かれて消えてしまいましたとさ、というオチだったからな」

     おれは懐中電灯を拾い上げた。

    「さて、こいつの持ち主のところに行こうぜ」

    「拾い上げて、大丈夫なんですか? 道しるべになるんじゃないですか?」

    「おれが知っている隠れ里伝説で、道しるべを作ったことで事態が好転する例はひとつもない。そこらへんが、マッピングがものをいうビデオゲームと違う、現実の酸味が効いたところさ」

     おれはためしにスイッチを入れてみた。LEDライトがついた。

    「電池も残っている。面白くなってきやがった」

    「あのう……」

    「なんだよ」

    「おなかがすいてきたんですが……」

     おれは自分の腹具合を見た。

    「補給が全くない中、食料を消費するのはあまりほめられたことじゃないが、腹が減ったら何とやらだし、雑菌が繁殖して食えなくなったらどうしようもない。いいだろう。飯にするか。だがな、食うのは生ものだけにしとけよ。菓子があったらとっておけ。水も、あまり飲まないほうがいい。水源がない以上、手持ちの水でどこまで生き延びられるか、という話になるからな」

     おれはサンドイッチを、若造はコンビニおにぎりを、それぞれもしゃもしゃと食べた。

    「この際だ。どれだけ食料があるかを、確認しておこう」

     面白いことがわかった。塚原喜八郎は、わずかな菓子のほかには、予備の食料を携行していなかったのだ。

    「だって、中華料理店で食べられると思ったんですよう」

     このくそ馬鹿……!


     4

     その後が長かった。汗と疲労感に悩まされながら、おれたちはやけくそで進んだ。延々、ただ進むのだ。時間感覚などもう存在しない。ひたすら、前に進むだけである。

    「風渡さん」

    「なんだよ」

    「ここに一式持ってきたってことは、カレー、好きなんですか?」

     挑戦的な物言いに聞こえた。

    「日本人に生まれてカレーライスが嫌いな奴はいないよ」

    「ぼくはふわふわのナンに」

    「ナン?」

     塚原喜八郎の声に脅えが混じった。

    「い、いえ、日本人だけど、ナンが好きでもいいかな、って……」

    「そりゃそうだろうな。日本くらいだぞ。どこのインド料理店へ行ってもタンドールがあるのは」

    「そうなんですか?」

    「そんなことを、タモリがいっていた気がする」

    「タモリですか」

    「だが、おれとしては、そうしたインドのカリーを、日本のカレーライスといっしょにしたくはない」

    「どうしてですか?」

    「わからないのか。日本のカレーライスは、すでに日本料理だとかインド料理だとかを離れて、もはや別の『カレーライス』としか呼べない芸術作品になっているからだ」

    「芸術って、そんなたいそうなものでしたっけ」

    「わかるまい。お前の歳ではわかるまい。インドの奥深い味に、小麦粉、福神漬、ラッキョウ、さらには牛肉などを加えた日本独自のカレー文化を」

    「全部、邪道じゃないですか!」

    「邪道でもうまければいいんだ!」

     塚原喜八郎は、目をぱちぱちしていた。キイーンと、耳が鳴ったらしかった。おれの耳も鳴ったのだから本当だ。

    「すまない。いいか、お前は日本人の工夫を邪道といって馬鹿にするが、正道とはそんなに大事なことなのか。裏を返せば、現代の日本の文化のどこに正道がある。考えてみればみんな邪道じゃないか。そして、みんな、その邪道を楽しんで生きている。おれにしてみれば、それがボーダーランドでの健全なありようだと思うね」

    「……はあ」

    「それに、おれの考えるカレーライスのカレーライスとしての理想形は、さらにそれの上を行く邪道さにあるんだ。いいか、これから、真の日本風カレーライスの奥義を教える。『SNS』だ」

    「なんですそのツイッターみたいなものは」

    「ソースと生卵としょうゆだ」

    「……へ?」

    「ソースと生卵としょうゆだよ。これをよく按配し、適量をかけてよく混ぜることによって、カレーライスはコクととろみとかすかな西洋風味と、伝統的な日本風味の入り混じった芸術品になるのさ」

    「なんです、そのゲテモノは!」

    「芸術品のどこがゲテモノだ!」

    「あのですね。やっぱり、ぼくは思うんですよ。カレーライスには、カレーライスなりの味というものがあるのであって、それをどうこうすることは、原作者の意図に対する挑戦じゃないですか!」

    「挑戦? ああそうだ、挑戦さ。生卵とソースをかけた瞬間から、おれはカレーライスの作者と、プライドと味と生命をかけた、一対一の真剣勝負に入るんだ。いかにして、そこで調理人の精妙極まる必殺剣をかわして、よりうまい味、という自分の技をもって真っ向からその額をかち割るか、そこの攻防こそがカレーライスを食べるということの意味だ。それがわからないやつに、カレーをどうこう、などと軽々しくいってほしくない」

     おれはそこまでを一気にしゃべると、にやりと笑ってさらに付け加えた。

    「それに、お前のいう、インドのカレーだが、インド料理店の普通のインドカレーでも、たまに、『複数のカレーを混ぜたほうがうまくなる』場合もあるんだぜ。教科書には書いてないことだが、それが実戦というものさ」

    「そうはいいますけどね」

    「待て」

     おれは塚原喜八郎を止めた。

    「自分ばっかり演説して、ずるいですよ」

    「いや、周囲を見ろ。木が枯れている……」

     おれは周りを見た。いつの間にか、周りは立ち枯れの木ばかりになっていた。

    「あの……風渡さん。あそこに、横に入っていく道みたいなものがありますよ?」

     おれたちは、ゆっくりと、塚原喜八郎がいった「枝道」を目指した。

    「これは……」

     おれは、言葉もなかった。

     そこから見える、一面に広がった景色は、まさに昔ばなしでいう隠れ里だった。陶淵明のいう『桃源郷』でもあったろう。……人が住んでいたころは。

    「どうしてこんなことに」

     塚原喜八郎の問いに、おれは答えた。

    「わかりきったことだ」

     おれはその里に歩み出で、カサカサに乾いて枯れた草の跡に手を触れた。

    「水が枯れたんだ」

     墓標でしかない隠れ里……!


     5

     おれたちは一通りその、すでに廃墟同然の田園を歩き回った。

     見つけたのは、死体が6つ。うち3つは、すでに白骨化していた。

    「諸星さん、ここにたどり着いたのは、あんたの執念あっての賜物だな。もし、この里が生きていたら、あんたは堂々と胸を張れたに違いない」

     残りの三つは、乾燥しかけているが、まだ肉体のかけらが残っていた。

    「こっちは、退魔師たちのグループだな」

    「完全にからからですが、ここに元は泉があったみたいですね。動いてないようですが、汲み上げ用のポンプもありますよ。そこから、村中に水が行き渡っていたんだと思います。彼らは、なんとかここで水を見つけようとしたんでしょう。見てください、最後の力を振り絞ったのでしょうか、『水』と書いてありますよ」

    「よほどのどが渇いていたんだろうな」

     そういいながらも、おれは何かに引っ掛かっていた。

    「荷物がボロボロだ。食料はひとつ残らず食べられているみたいですね」

     ……そうだ。荷物だ。おれは退魔師たちの荷物を調べた。それから、諸星礼二郎一行の荷物も調べた。

    「なるほど」

     こういうことだったのか。おれは完全に理解した。

    「どうしましょう、風渡さん。このままじゃ、ぼくたちも死体の仲間入りですよ」

     そんなことはどうでもいい。

    「いやだああ、最後の晩餐が生臭いインスタント飯と、ノーブランドのレトルトカレーだなんていやだああ」

     塚原喜八郎は泣いていた。

     塚原喜八郎と来ていた、というのが最後のチャンスだ。塚原喜八郎に、何とかこの場にとどまりたいという思いを抱かせるものを作らなければならない。

     おれは血走った目で、からからに乾ききった大地と、水のない泉と、枯れた草を見た。

     そうだ。チャンスがあるとしたら、あれしかない。

     おれはポンプを調べた。退魔師たちのダイイング・メッセージを突き合わせると、当然、出て来る解答はひとつだけだ。

     おれはナイフを取り出すと、塚原喜八郎の持っている水筒のベルトをぶち切った。

    「なにをするんですか!」

     組みついてきたこの華奢な青年を蹴り倒すのに、おれはそう苦労はしなかった。下腹を蹴ったので、少し内蔵の痛みに苦しむだろうが、ここではやつが動けないことのほうが重要なのだ。

     おれは水筒の蓋をひねった。塚原喜八郎が絶望の叫びをあげた。

     おれは、ポンプの水管に、貴重な水を全部流し込んだ。ついでに、おれの水も流し込む。

     汲み上げ機を操作する。

     出ろ!

     水が出た。水は次から次へと出た。どんどんあふれ出てくる水を手ですくい、おれは飲んだ。

    「うまい!」

     塚原喜八郎の目に、理解の色が浮かんだ。

    「呼び水……!」

     塚原喜八郎は、よろよろと立ち上がった。

    「さんざんのどが渇いただろうところで恐縮だが」

     おれはグロックを抜いた。18発フル装弾のマシン・ピストルは、どこからどう見ても凶悪な代物だった。

    「きみにはもうちょっと仕事をしてもらわなければならない」


     6

    「ぼく、もう二度と風渡さんと山歩きなんてしませんからねっ」

     おれのおごりのワイルドターキーの瓶を横にして、塚原喜八郎はさっきからそれしかいわなかった。

     新宿のいつものバー「ソフィア」である。

     おれにも名前のわからぬ外国タバコの吸いさしを手にした、マダムの織江は話の続きをうながした。

    「それで?」

     おれはフローズン・ダイキリを楽しみながら、織江に話した。

    「そもそも、前提が間違っていたのさ。おれたちが行った先は、『隠れ里』じゃなかったんだ」

    「じゃあ、なんなのよ」

     白皙の肌をぽっと赤らめて、目をすわらせた塚原喜八郎は、バーボンをぐいぐいとあおりながらいった。

    「ふざけた話じゃないですか。この超A級退魔師さんは、あれが『現世』だっていうんですから!」

    「他に解釈のしようがない。なぜ、わずか数日間しか時をおいてない死体が、あるものは白骨化し、あるものは渇き死にをしていたのか。それは、おれたちがこちらで、この新宿で一日を過ごすうちに、あそこでは十年かそこいらが過ぎ去っていたからさ」

     塚原喜八郎は、やはり憤懣やるかたないようだった。

    「だからといって、人を脱出の道具にするのは、ぼくは違うと思います!」

    「いいじゃないか、こうして帰れたんだから。桃源郷には、目的をもってしては行くことができないそうな。それならば、桃源郷に行く目的すらないやつにランダムに歩かせれば、桃源郷にたどり着けるんじゃないか。ここでいう桃源郷は現世だから、誰か、そこに行きたがる目的のないやつをでっちあげる必要があったのさ」

     おれはフルーツの甘さを楽しんだ。

    「目の前の、たった一つしかないこんこんと湧き出る水への渇望だけで立っている若人以上に、それにふさわしいものがあるだろうか?」

    「風渡さん。絶対、あなたのイチオシの中華料理店、今度教えてもらいますからね。ぼくだけじゃない、バーテンさんも、マダムも、それだけじゃない、『ぴゅしす』の同人全員を誘って、そこで満漢全席の宴会やりましょう。決めました。決めましたからね!」

     塚原喜八郎は飽きるほど繰り返したが、きみは陶淵明をもっと読むべきだ。

     おれの大事にしているうまい店は、そこに行こうとする目的があるなら、たとえ劉子驥のような行い正しく心の正しい人間でも、たどり着くのが不可能なんだぜ。

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    ~ Comment ~

    Re: 矢端想さん

    タバコを吸わない人なので、ジッポで火をつけたことがないんですよね(^^;) でも、風渡涼一みたいな男がタバコなしで生きていけるとも思えないんで。ライターはタバコに火をつける以外にも使えますし。

    面白く思ってくださってありがとうございます(^^)

    Re: blackoutさん

    桃源郷から現世に戻るアイデア自体は気に入っています。でもちょっと消化不良だったかな。

    友人にも言われましたが、もっと時間をかけて構想し、自転車操業をやめれば、このシリーズはもっと面白くなったのではないか、と。ちょっと反省しております。

    NoTitle

    いやあ、このシリーズ面白いですね。ワクワクしてきました。ところでジッポのライターは「ガシャッ」とか「カキィン」とかの方が(余計なお世話)

    NoTitle

    桃源郷の解釈は、なるへそ、って感じでした
    確かに、意図して行けるような場所じゃないですからね
    それに、我々が現世だと思っている場所が、実は異界だったってのもあるあるでしょうし

    ええ、カレーライスについては、風渡氏の言い分に賛同しますw

    ちなみに、中華の天津飯なるものも、このカレーライス的な位置付けらしいですw

    でも、中国人も風渡氏と同様、美味けりゃいんぢゃね?ってスタンスみたいですw

    Re: 椿さん

    お読みくださりありがとうございます(^o^)

    次の飯テロと舞台は、「回転寿司」にしようと、鋭意執筆中(^_^)

    がんばるど!

    NoTitle

    カレー食べたい……
    自分で家で作るカレーも好きですが、お店で食べるカレーもそれはそれで別物で美味しい。いなばのエスニックカレーの缶詰も好きです。

    しかしカレーと隠れ里とはなかなか面白い取り合わせ。
    飯テロネタとメインネタとの取り合わせの妙もこのシリーズの楽しみですね。
    異界譚はやっぱりSF感があって良いですね。次も楽しみにしております^^

    Re: 面白半分さん

    諸星大二郎先生を持ち出すくらい、焦ってひいひいいいながら書いてます。(^^;)

    目指せあと120枚!(目を血走らせながら)

    NoTitle

    諸星がでてくるあたり
    さすが異界譚テイストが強かったですね
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