「ショートショート」
ユーモア
現象学的解釈学
ぼくは日課となっているブログのコメント欄を開いた。ひとつひとつチェックをしたぼくは、脱力感を覚えて返信を始めた。
「疲れてるようだね」
画面に文字が出てきた。
「まあね」
ぼくはマイクに向かってしゃべった。
文章を打ち出してきたのは、どこかのIT企業で、AIの開発をしている先輩からもらった、「ソクラテス」という人工知能ソフトだ。何か入力すれば、哲学的な答えを返してくれる。仕事以外はいつも部屋にこもりきりで、友達もいないだろうから、話し相手兼モニターになってくれ、ということだった。
ぼくは愚痴をこぼした。
「いま書いている『颶風の街』という長編がね……」
「受けているみたいじゃないか」
「そうなんだけれども、主人公についてのコメントが変なんだよ」
主人公にした『アミ』という女の人気が高いのはいいのだが、『ふと見せる優しさが素敵』とか、『ほんとはいい人なんでしょうね』とかいうコメントが多いのだ。
「あのアミは、冷酷非情で打算的で自分のことしか考えてない根っからの悪党だぜ。それがどうして、あんなコメントばかりつくのか、まったくわからん」
「うん。それは、コメントが正しいからじゃないのか?」
「なんだって?」
ぼくは返事を打つ手を止めて、まじまじとソクラテスの打ち出した文字を読んだ。
「どうしてあんな奴がベビーフェイス扱いされなきゃならないんだよ」
「現象学的本質直観、という言葉を知っているかい」
知っていた。
「現象学的本質直観、もしくは本質看取は、人間の判断の根幹にあたるところだ」
例えば、ぼくが0歳の幼児だとする。外界に対して何の知識もない。目が見えたとして、ぼくが見ることができるものは、何の意味も持たないはずだ。たとえば、ぼくの部屋にあるテレビ。「これはテレビだ」ということを知っていなければ、たんなる黒と灰色の模様にすぎない。たまにアンパンマンが映るとしても、それは茶色とオレンジと丸と曲線でしかないことだろう。それがはいはいを覚えるようになるまでに成長したとする。そのとき、ぼくの周りにあるものが、何の意味も持たないとしたら、ぼくはどうして目の前に「はう」ことができるのか。それは、目の前に地面があって、それがぼくを支えてくれることを、ぼくがダイレクトな形で「わかって」いるからだ。ぼくは、目の前の地面が「はって進んでも大丈夫だ」という「本質」を「直観」しているのである。この構造は、大人になって日常生活で歩いているときでも変わらない。アスファルトの道に足を踏み出して歩けるのは、そこがアスファルトであり、ぼくの体重を支えてくれるものであることを「直観」しているからだ。もしそれが直観できなかった場合は、えらいことになる。ぼくは『カイジ』の鉄骨渡りのように、先に体重を支えてくれる何かがあるかどうかもわからず、恐怖のあまり足を踏み出すこともできないだろう。
「それがどうかしたのか、ソクラテス」
「コメントを寄せてくれた彼らは、きみの小説に出てくるアミの本質を直観して、『いい人』と判断しているのではないかね」
「そんなバカなことがあるかよ!」
ぼくは苛立って強い口調になった。
「それをいうなら、ぼくだって、アミの本質を直観していることになるだろ。アミの本質は、『冷酷で打算的な悪女』だ。けっして、『善人』なんかじゃない」
「ということは、どちらかの本質直観が、間違っていることになるな」
ソクラテスは面白そうに出力した。
「本質直観が間違っていることくらい、誰にだってある」
「そりゃそうだけど」
本質的に直観しているからといって、その直観がすべて正しいというわけではない。たとえば、深夜の飲み会からの帰り道、ぼくの目の前でマンホールのふたが開いていて、照明が暗かったとする。ぼくは酔っぱらっていて、普通に舗装道路が続いていると直観して、足を踏み出す。ぼくはマンホールに足を突っ込み、転んで足の骨を折るということになる。これは、「目の前の道は体重を支えてくれる」という本質の直観が間違っていたのだ。
ぼくは、ソクラテスにいった。
「じゃあなにかい、ぼくは自分の小説の登場人物の本質を直観しそこなっていたっていうのか。悪人だと思っていたけれども、実は善人というのが正しい、ってのか。あのね、ぼくは、『颶風の街』という小説の作者だぜ。作者という、特権的な立場にいるんだ。特権的な立場にいる以上、その特権の及ぶ範囲の物事を直観しそこなう、というのは不可能だ」
「作者が特権的な立場にいることは確かだが、それはその本質直観の妥当性を証明しない」
ぼくは三秒ばかり固まっていた。
「どういうことだよ」
「SF作家のハル・クレメントに『重力の使命』という作品がある。そこの舞台となるのがメスクリンという惑星だ。自転周期がものすごく、赤道に沿って引っぱられて、やや平たい形になっている。だが、これはおかしい。計算をするとわかるが、そこまで自転が激しいと、引っ張られる強さが強くなりすぎ、惑星はつぶれるようにバラバラになってしまう。ロッシュの限界というやつだ。ハル・クレメントは、少なくともハードSFということにおいては、メスクリンという惑星の本質を直観しそこなっていたのだ」
「いいじゃないか、作者が計算ミスしたって。ぼくがいっているのは人間の設定で……」
「横溝正史に、『獄門島』というミステリがあるが、作者の横溝正史は、構想を練りプロットを組んで、途中まで書いたところで夫人に見せ、『誰が犯人だと思う?』と尋ねた。夫人は、わざとかどうかはわからないが、横溝正史が考えもしなかった人物を犯人だと答えた。横溝正史は『そんなバカなことがあるか』と怒ったが、やがて、『それも面白い』と、真犯人を修正した。『獄門島』を書き始めたときの横溝正史と、横溝夫人とでは、どちらが『獄門島』の真犯人の本質を正しく直観していたかは明らかだ」
いわせておけばくだくだと。
「じゃあなにか? ぼくが悪いってのか?」
ソクラテスは答えた。
「少なくとも、そういう解釈ができるように書いたのはきみだ」
許しておけん。
ぼくはこのくそAIをアンインストールしようとしたが、試用期間中はアンインストールできないようになっていることがわかっただけだった。
いつか復讐してやる。
※ ※ ※ ※ ※
蛇足ながらコメント
ここでソクラテスがいっていることは、明らかに「おかしい」。
これがなぜ「おかしい」のか、どこがどう「おかしい」のかを考えるのが哲学です。
「疲れてるようだね」
画面に文字が出てきた。
「まあね」
ぼくはマイクに向かってしゃべった。
文章を打ち出してきたのは、どこかのIT企業で、AIの開発をしている先輩からもらった、「ソクラテス」という人工知能ソフトだ。何か入力すれば、哲学的な答えを返してくれる。仕事以外はいつも部屋にこもりきりで、友達もいないだろうから、話し相手兼モニターになってくれ、ということだった。
ぼくは愚痴をこぼした。
「いま書いている『颶風の街』という長編がね……」
「受けているみたいじゃないか」
「そうなんだけれども、主人公についてのコメントが変なんだよ」
主人公にした『アミ』という女の人気が高いのはいいのだが、『ふと見せる優しさが素敵』とか、『ほんとはいい人なんでしょうね』とかいうコメントが多いのだ。
「あのアミは、冷酷非情で打算的で自分のことしか考えてない根っからの悪党だぜ。それがどうして、あんなコメントばかりつくのか、まったくわからん」
「うん。それは、コメントが正しいからじゃないのか?」
「なんだって?」
ぼくは返事を打つ手を止めて、まじまじとソクラテスの打ち出した文字を読んだ。
「どうしてあんな奴がベビーフェイス扱いされなきゃならないんだよ」
「現象学的本質直観、という言葉を知っているかい」
知っていた。
「現象学的本質直観、もしくは本質看取は、人間の判断の根幹にあたるところだ」
例えば、ぼくが0歳の幼児だとする。外界に対して何の知識もない。目が見えたとして、ぼくが見ることができるものは、何の意味も持たないはずだ。たとえば、ぼくの部屋にあるテレビ。「これはテレビだ」ということを知っていなければ、たんなる黒と灰色の模様にすぎない。たまにアンパンマンが映るとしても、それは茶色とオレンジと丸と曲線でしかないことだろう。それがはいはいを覚えるようになるまでに成長したとする。そのとき、ぼくの周りにあるものが、何の意味も持たないとしたら、ぼくはどうして目の前に「はう」ことができるのか。それは、目の前に地面があって、それがぼくを支えてくれることを、ぼくがダイレクトな形で「わかって」いるからだ。ぼくは、目の前の地面が「はって進んでも大丈夫だ」という「本質」を「直観」しているのである。この構造は、大人になって日常生活で歩いているときでも変わらない。アスファルトの道に足を踏み出して歩けるのは、そこがアスファルトであり、ぼくの体重を支えてくれるものであることを「直観」しているからだ。もしそれが直観できなかった場合は、えらいことになる。ぼくは『カイジ』の鉄骨渡りのように、先に体重を支えてくれる何かがあるかどうかもわからず、恐怖のあまり足を踏み出すこともできないだろう。
「それがどうかしたのか、ソクラテス」
「コメントを寄せてくれた彼らは、きみの小説に出てくるアミの本質を直観して、『いい人』と判断しているのではないかね」
「そんなバカなことがあるかよ!」
ぼくは苛立って強い口調になった。
「それをいうなら、ぼくだって、アミの本質を直観していることになるだろ。アミの本質は、『冷酷で打算的な悪女』だ。けっして、『善人』なんかじゃない」
「ということは、どちらかの本質直観が、間違っていることになるな」
ソクラテスは面白そうに出力した。
「本質直観が間違っていることくらい、誰にだってある」
「そりゃそうだけど」
本質的に直観しているからといって、その直観がすべて正しいというわけではない。たとえば、深夜の飲み会からの帰り道、ぼくの目の前でマンホールのふたが開いていて、照明が暗かったとする。ぼくは酔っぱらっていて、普通に舗装道路が続いていると直観して、足を踏み出す。ぼくはマンホールに足を突っ込み、転んで足の骨を折るということになる。これは、「目の前の道は体重を支えてくれる」という本質の直観が間違っていたのだ。
ぼくは、ソクラテスにいった。
「じゃあなにかい、ぼくは自分の小説の登場人物の本質を直観しそこなっていたっていうのか。悪人だと思っていたけれども、実は善人というのが正しい、ってのか。あのね、ぼくは、『颶風の街』という小説の作者だぜ。作者という、特権的な立場にいるんだ。特権的な立場にいる以上、その特権の及ぶ範囲の物事を直観しそこなう、というのは不可能だ」
「作者が特権的な立場にいることは確かだが、それはその本質直観の妥当性を証明しない」
ぼくは三秒ばかり固まっていた。
「どういうことだよ」
「SF作家のハル・クレメントに『重力の使命』という作品がある。そこの舞台となるのがメスクリンという惑星だ。自転周期がものすごく、赤道に沿って引っぱられて、やや平たい形になっている。だが、これはおかしい。計算をするとわかるが、そこまで自転が激しいと、引っ張られる強さが強くなりすぎ、惑星はつぶれるようにバラバラになってしまう。ロッシュの限界というやつだ。ハル・クレメントは、少なくともハードSFということにおいては、メスクリンという惑星の本質を直観しそこなっていたのだ」
「いいじゃないか、作者が計算ミスしたって。ぼくがいっているのは人間の設定で……」
「横溝正史に、『獄門島』というミステリがあるが、作者の横溝正史は、構想を練りプロットを組んで、途中まで書いたところで夫人に見せ、『誰が犯人だと思う?』と尋ねた。夫人は、わざとかどうかはわからないが、横溝正史が考えもしなかった人物を犯人だと答えた。横溝正史は『そんなバカなことがあるか』と怒ったが、やがて、『それも面白い』と、真犯人を修正した。『獄門島』を書き始めたときの横溝正史と、横溝夫人とでは、どちらが『獄門島』の真犯人の本質を正しく直観していたかは明らかだ」
いわせておけばくだくだと。
「じゃあなにか? ぼくが悪いってのか?」
ソクラテスは答えた。
「少なくとも、そういう解釈ができるように書いたのはきみだ」
許しておけん。
ぼくはこのくそAIをアンインストールしようとしたが、試用期間中はアンインストールできないようになっていることがわかっただけだった。
いつか復讐してやる。
※ ※ ※ ※ ※
蛇足ながらコメント
ここでソクラテスがいっていることは、明らかに「おかしい」。
これがなぜ「おかしい」のか、どこがどう「おかしい」のかを考えるのが哲学です。
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Re: 面白半分さん
横溝夫人ものすごいファインプレーですな(笑)