ウォーゲーム歴史秘話
偽史・激闘田原坂
明治10年2月22日。熊本城を包囲にとどめ、北上を開始した西郷軍は、熊本城北方10㎞の小村、植木において新政府軍と接触した。そこまで至る経緯は、大河ドラマ「西郷どん」を毎週チェックしていればわかるので割愛するが、そんなことも面倒くさいと思う人はウィキペディアを読んでほしい。
植木に駐留していたのは、乃木希典少佐と、2個小隊400人だった。そこに、篠原国幹率いる西郷軍1個大隊1200人が襲い掛かったのである。戦闘は一方的なものであった。

乃木希典という人物は、後の日露戦争で旅順の要塞に立てこもるロシア軍に対し、血みどろの正面突撃を強行した、あの「乃木将軍」その人である。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では無能な将軍の代表のように描かれていたが、実際はそこまで軍事的能力のない人ではなかった。
対し、篠原国幹という人物は、西郷軍の中でも、いや、明治新政府の陸軍の中でも、一二を争う優秀な前線指揮官であった。常に寡黙で、必要最低限のことしかしゃべらず、軍の指揮すら身振りでとった、という逸話があるが、それがために兵士たちから畏敬の念をもたれていた。今回も、彼はその赤裏のマントをかすかに翻すと、一斉射撃の後の抜刀突撃を命じたのである。
新政府軍の兵士は、戦闘のプロである士族を中心とした西郷軍の兵士に比べてはるかに練度が低かった。それでも乃木希典は、植木を捨てて潰走する自軍部隊に、なんとか統制を保つことに成功した。
小勢を退却させただけとはいえ、勝利は勝利である。西郷軍の意気は上がった。植木を通って、桐野利秋の率いる3個小隊600人が、吉次越を通過して西進した。
桐野利秋。元の名を中村半次郎。「人斬り半次郎」という別名で通っているが、幕末に維新の志士として活動していたときにかかわった暗殺事件は一件しかない。おそらく、豪放磊落で、四書五経の体系的教養を得る機会はなかったが、豪放さにふさわしい知性と行動力を伴なっていたことから、そう呼ばれることになったのだろう。西南戦争における、西郷軍の実質的な最高司令官である。
桐野利秋は、手勢のいくらかを割くと、吉次越に防柵をつくらせ、要塞化した。その後、交差点を見下ろす位置に布陣した。木葉と伊倉、その両方の町を狙える位置に陣取ったのである。防御拠点としてだけではなく、物資の集積拠点と、インフラストラクチャーの面からしても、この町は非常に重要であった。
さて、ここで西郷軍の考えていた作戦について説明しておきたい。西郷軍には、二つの選択肢があった。ひとつは、高瀬の町を突破し、街道を北上することで、新政府軍の兵站拠点を突いて全面的な後退をさせる作戦。もうひとつは、高瀬以南の町と重要拠点(具体的にいえば要害堅固な田原坂と吉次越である)を押さえることで、新政府軍の南下を食い止め、その間に熊本城を陥落させてしまう作戦である。西郷軍は考えられる状況を検討した結果、後者の作戦は実行不可能であると判断した。攻撃は最良の防御という言葉があるが、こちらからの戦線突破以外に政府軍の南下を止める方法はない、と判断したのである。そのため、田原坂方面に少数の部隊をおいて足留めとし、その間に主力が伊倉もしくは木葉から高瀬方面に前進し、突破を図る、というのだ。
新政府軍の征討第二旅団の指揮を執っていた旅団長三好重臣は困惑した。彼は急ぎ一個大隊1200人とともに木葉に布陣した。この日のうちはどちらの町も戦闘はない、と判断したのである。本格的な布陣は援軍としてやってくる、第二旅団の参謀長である野津道貫大佐と、第一旅団長の野津鎮雄少将の隊が来てからで間に合う、というのがその目算であった。
三好重臣。戊辰戦争から軍功のあった将軍である。この時37歳。消極的判断だった、というかもしれないが、彼にとってはこれが最善策だったのである。
西郷軍は、村田新八率いる3個小隊600人が、敗走する乃木希典を追撃した。乃木希典は、兵力を半減させる大損害を受けながらも田原坂方面に退却した。
村田新八という人間も面白い。彼は文学に造詣が深く、またハイカラなものが大好きであった趣味人でもあった。戦場において、フロックコートとシルクハット姿で指揮を執ったという話が伝わっている。優秀な指揮官であったことは間違いない。
その日の戦闘を終えた村田新八はぶぜんとした表情を崩さなかった。乃木希典の部隊は、兵力を大きく減らしたとはいえ、まだ完全な壊乱には至っていなかったからである。

三好に遅れ、ようやく戦場に到着した新政府軍の征討軍第一旅団長野津鎮雄は、自軍の危機的な状況を素早く察知した。彼は弟の野津道貫に手持ちの全兵力を与えると伊倉に立てこもらせ、自分は高瀬で後続を待った。仕方もなかった。このとき、野津兄弟の手にあったのは4個大隊800人にすぎず、それだけでは敵の二正面作戦に対応しきれなかったのである。
野津鎮雄と野津道貫の兄弟は、薩摩藩生まれである。若い頃のエピソードとして、薩摩藩士奈良原繁のもとで書生をしていたとき、人を集めて餅つきをしようとしていた奈良原に、自分たち二人で十分だ、と主張し、明け方から夕暮れまで休まず餅をついて、ほんとうに餅を全部つきあげてしまった。そして会食の席では、二人して五六人分を平らげてしまったという痛快なものがある。これ以降、奈良原は「こいつらが軍人になったら大将の器だ」と公言するようになった。いずれにせよ、猛将タイプの人物であったらしい。
伊倉の軍勢が強化されたことに対し、桐野利秋は歯噛みする思いだった。防備が薄かったら攻め取るのはたやすかっただろうが、今では自軍の倍の人数が籠城している。
『……篠原殿を待つしかない』
植木には熊本藩出身の不平士族をまとめ上げた傑物、池辺吉十郎とともに、6個小隊1200人がやってきていた。伊倉を落とし、その1200人が駆け足で伊倉まで電撃的にやって来ることができれば、高瀬方面よりの突破はかなりやりやすくなる。
野津鎮雄がその事実に対して無頓着であったわけではない。だが、彼は弟の戦術能力を信頼していた。「やつなら大丈夫」と、彼は確信していたのである。
篠原国幹は、急ぎ桐野利秋のもとへやってきた。もし、野津道貫が攻勢にあることを確信して桐野利秋に逆襲をはかったらどうなるか、彼には想像がついたのである。西郷軍左翼は崩壊し、吉次越まで撤退しなくてはならないかもしれない。そうなったら戦略自体が破綻する。戦闘継続は不可能ではないまでも防戦一方になろう。そうなったらものをいうのは新政府軍の物量だ。消耗戦になったら西郷軍に勝ち目はない。自軍が戦場のイニシアチブを握っているうちに勝負をつけねばならぬ。
篠原から援軍を受けた桐野は武者震いした。この数なら、立てこもっている新政府軍に対し互角以上の戦いができる! 猛将桐野は、伊倉の政府軍に対し攻撃をかけた。野津道貫も無能ではなかった。陣地に銃隊をずらりと並べ、一斉射撃で桐野を迎え撃ったのである。ここに、凄絶な「伊倉の戦い」が行われた。
伊倉の戦いの結果は、桐野利秋の完全なる敗北であった。統制の取れた射撃に、抜刀突撃を主とする西郷軍は混乱を来し、撤退するしかなかったのである。
木葉まで進軍してきた別働第一旅団司令長官大山巌少将は、吉次越を占拠できれば、桐野と篠原の軍勢を包囲できる体制にあることに気づいた。少なくとも、たとえ伊倉を落とされても、電撃的に増援部隊を送られる可能性はなくなる。大山は部隊をまとめると、急ぎ木葉から吉次越まで南下させた。守備の任に当たっていた池辺吉十郎を駆逐し、吉次越の占拠に成功したのである。
大山巌。日本には珍しい、戦略的なものの考え方ができる将軍であった。日清・日露と武功を上げ、「海の東郷、陸の大山」といわれるほどになったが、政治的な野心は少なく、度重なる総理大臣への推挙をすべて断ったという。極端な「西洋かぶれ」であり、ルイ・ヴィトンの日本第一号の顧客として自筆サインが残っている。西郷隆盛ほどではないが、大山も極端な肥満体で、茫洋とした雰囲気を漂わせていたそうであるが、半分以上は演技だったらしい。
大山巌は、吉次峠の防御陣地ならば、新政府軍の援軍が来るまでの2日間にわたって、西郷軍の攻撃を食い止められると想定していたが、そこへ、増援を受け増強された、別府晋助の部隊1200人が襲い掛かってきた。
別府晋助。西郷隆盛が信頼していた若い才能の一人である。西郷の命を受けて朝鮮に赴き、釜山で情報収集活動をしたことで知られる。意気が盛んなうえに公正な人物で、新政府の近衛将校時代、給付される給料を部下と公平に分け合ったという逸話が残っている。前線指揮官としても有能であった。
別府は陣地に籠る大山の軍に奇襲をかけた。さしもの大山も、西郷軍が攻撃するまでには準備に時間がかかるだろうと踏んでいたらしいが、完全に逆を突かれた形になった。もとから兵力の少なかった大山の部隊は四分五裂し潰走。別府は大山を追撃し、完全に壊滅させたのである。植木~吉次越~伊倉のルートは完全に安全になった。

ここで動いたのが篠原である。彼は部隊の統制を回復すると、木葉と伊倉との中間地点に移動した。
野津鎮雄も、野津道貫も、すべての政府軍指揮官が、政府軍が容易ならぬ事態に陥ったことを悟った。今の大山の失態により、木葉はがら空き状態になっていたのである。篠原の考えは明らかだった。もし木葉を強化したなら、伊倉を討つ。伊倉を強化したなら、木葉を討つ。双方を強化したなら、その間を抜けて高瀬を、その後方の連絡線を遮断、突破する……。
起こってしまったことは仕方がない。新政府軍は、やってきた精鋭部隊を、弱体化した木葉の強化に用いた。指揮官は福原和勝大佐。別働第三旅団参謀長の肩書であったが、まともに前線指揮官となれるのは彼くらいしかいなかったのだ。
別府晋助は木葉方面に北上した。
野津道貫は、木葉と同様手薄になっている高瀬へ兵を送った。
そのとき動いたのは、完全に痛めつけられていたはずの桐野利秋であった。彼は手持ちの寡兵をもって、伊倉に取って返すと、主力部隊を移動させて隊形を変更している最中の野津道貫に襲い掛かったのである。
野津道貫も健闘したが、奇襲によって部隊が混乱させられていてはどうしようもなかった。彼は統制の取れなくなった兵を叱咤激励しつつ高瀬方面へと撤退した。
植木の池辺隊が、駆け足で伊倉まで前進してきた。これにより、後顧の憂いはないも同然である。篠原国幹は、高瀬を迂回し、やってきたばかりの新政府軍に突撃をかけた。彼らを撃退することさえできれば、敵陣を突破し、後方の兵站本部を撃破することができる。それは、新政府軍の壊滅と、熊本城の士気低下と開城にまでつながるはずだった。

篠原の突撃は、完全な奇襲となった。新政府軍の増援部隊は、たちまちのうちに三分の一が混乱状態に陥った。
新政府軍増援部隊の指揮を執っていたのは、征討総督府参軍・陸軍中将という肩書を持つ、山縣有朋という男であった。
山縣有朋。長州藩出身の軍人である。軍人というよりも軍政家といった方が正しい。軍事的才能よりも、政治家としての才能のほうが優れていた男であった。質素倹約を基とする生活を送りながら風雅の道に遊び、藩閥にかかわらない人材を育成するための文官試験制度を作りながら藩閥政治の首魁と見なされたり、いろいろと複雑な人物である。いちばんの逆説は、日本で最初の平民出身の首相である原敬の最大の後援者だったところであろう。まさに怪物、もしくは誰にでも敬愛される人物であった。
山縣は、自分が軍事的な才能だけなら桐野や篠原はおろか、野津兄弟や大山巌にも劣ることをよく自覚していた。そのため、彼は、徹底的に教科書通りにやることにした。すなわち、部隊に密集方陣を組ませて撃ちまくらせたのである。まともに方陣を組めるのは少数ではあったが、彼らは皆、自分たちのボスである山縣に心酔しているものばかりであった。篠原は二度、三度と突撃を敢行した。だが、抜刀突撃部隊の攻撃は方陣に跳ね返された。突撃のたびに、篠原の部隊の混乱は大きくなった。ついにはさすがの篠原でも収拾をつけることが困難になり、篠原は撤退を命じた。
その時、篠原国幹がどのような気持ちでいたのか、示す資料はない。もとから、口数の少ない男であった。
高瀬に陣取っていた野津鎮雄は、篠原が混乱しているのを知り、手持ちの部隊を使って篠原を追撃した。篠原は驚異的な努力で全部隊の崩壊までは至らないようにしていたが、それでも部隊は少しずつすり減っていった。伊倉から撤退してきた野津道貫は、空になった高瀬に入り、自軍の再編成を行った。
『おれの責任だ……』
もし、あの援軍が来る前に突破を試みることができていたら。それを頓挫させたのが、自分の伊倉に対する拙攻だったと、桐野利秋には思えてならなかった。
『やるしかない』
桐野は手持ちの全兵力をまとめると、高瀬方面へ向かって突進した。
高瀬川を越えて、北方へ突破しようとする西郷軍と、それを阻止せんとする新政府軍との間で、凄絶極まる殺戮戦が行われた。
篠原と桐野は、山縣の軍に波状攻撃をかけた。だが、山縣の方陣はびくともしない。篠原の軍勢に、木葉から出動してきた福原が追撃をかける。その間隙をついて別府晋助が木葉を落とし、さらに高瀬方面へ攻撃を行った。そんな西郷軍の猛攻に対し、野津兄弟は目まぐるしく位置を変えながら牽制攻撃と追撃でダメージを与えていく。西郷軍の村田新八はがら空きになった高瀬へ全力で進軍したところを、援軍でやってきた総督府参軍川村純義と征討軍第三旅団の三浦吾郎によって阻まれた。銃火がひらめき、白刃が舞い、新政府軍の火砲は敵味方おかまいなしの射撃を浴びせる。
その間に、田原坂方面を守っていた三好重臣は、軍勢を率いて吉次越に突進した。吉次越を守っていたわずか一個小隊200名の池辺隊はもろくも崩壊、撤退した。これで新政府軍は隙あらばいつでも植木を狙える体制に入ったのである。植木を落とせば、新政府軍は南方に突破し、熊本城を包囲している西郷軍を背後から突けることになる。それは西郷軍の全面的撤退につながるものであった。

事ここに至って、西郷軍はおのれの置かれている戦況がもはやどうにもならないことを悟り、粛々とした撤退に入った。だが、粛々とした撤退を許すほど、新政府軍は甘くなかった。

山縣有朋の大軍を誇示するかのように、新政府軍は西郷軍を駆逐しながら南下していく。篠原や桐野は散発的な抵抗を続けるが、それは限定的な効果すら上げられなかった。
結局、植木と伊倉は保持できたものの、ほかの拠点はすべて新政府軍の手に落ち、ここに約一カ月間に及んだ高瀬の戦いは「新政府軍の勝利」という形で終わりを告げた。

だが、西郷軍の物語も、新政府軍の物語も、まだ終わったわけではない。九州南部をめぐるゲリラ戦が、西郷の自刃で終わるまで、半年以上も続くことになるのである。だが、それを語るのは、この小稿のするところではない……。
使用ゲーム 伏見素行「激闘 田原坂」
ソロプレイ ポール・ブリッツ
※ ※ ※ ※ ※
と、いうわけで、まああんな仰々しい記事を書いたのは、このゲームが楽しかったからなんであります(^^)
ゲームは、故・季刊タクテクス誌NO.3のとじ込み付録ゲーム「激闘 田原坂」。前にも何度かプレイしかけては、独特なシステムゆえにプレイをあきらめてたんだけど、今回、大河ドラマもあることだし、タイムリーかな、と思って、本腰を入れて挑戦してみたら、やたらと面白かった。たぶん翔企画の低価格簡単ルールゲームシリーズ「SSシリーズ」の一作としてつくられたのがボツったんだろうけど、うん、これはタクテクス誌に載せて発表したくなるのもわかる。それでもこんなマイナーにもほどがあるテーマのゲームを、ルールブック片手のソロプレイとはいえ、プレイ時間3時間というのは、やっぱり好き者しかやらんなあ。
チットを引いて手番プレイヤーを決めるというのは安易だと思ってたけど、「夜」ターンになると再編成ができる、というルールがやたらと流動的な展開を生んでる。その気になればものすごい強行軍が可能だし、ハプニング続出で面白い。
戦闘も意外とドラマチックなことが起こるからあなどれない。まさか山縣有朋(1-7-4)があんなサイコロの目を出して篠原国幹(3-6-5)を撃退するとは思わなかった。てっきり西郷軍のサドンデス勝利だと思ってたんだけど。
いやー、やっぱりヒストリカルシミュレーションゲーム、いいわ。こうして歴史小説っぽいリプレイを書くのは、やはりたまらんですなあ~~~。
次は何にしよう。
植木に駐留していたのは、乃木希典少佐と、2個小隊400人だった。そこに、篠原国幹率いる西郷軍1個大隊1200人が襲い掛かったのである。戦闘は一方的なものであった。

乃木希典という人物は、後の日露戦争で旅順の要塞に立てこもるロシア軍に対し、血みどろの正面突撃を強行した、あの「乃木将軍」その人である。司馬遼太郎の「坂の上の雲」では無能な将軍の代表のように描かれていたが、実際はそこまで軍事的能力のない人ではなかった。
対し、篠原国幹という人物は、西郷軍の中でも、いや、明治新政府の陸軍の中でも、一二を争う優秀な前線指揮官であった。常に寡黙で、必要最低限のことしかしゃべらず、軍の指揮すら身振りでとった、という逸話があるが、それがために兵士たちから畏敬の念をもたれていた。今回も、彼はその赤裏のマントをかすかに翻すと、一斉射撃の後の抜刀突撃を命じたのである。
新政府軍の兵士は、戦闘のプロである士族を中心とした西郷軍の兵士に比べてはるかに練度が低かった。それでも乃木希典は、植木を捨てて潰走する自軍部隊に、なんとか統制を保つことに成功した。
小勢を退却させただけとはいえ、勝利は勝利である。西郷軍の意気は上がった。植木を通って、桐野利秋の率いる3個小隊600人が、吉次越を通過して西進した。
桐野利秋。元の名を中村半次郎。「人斬り半次郎」という別名で通っているが、幕末に維新の志士として活動していたときにかかわった暗殺事件は一件しかない。おそらく、豪放磊落で、四書五経の体系的教養を得る機会はなかったが、豪放さにふさわしい知性と行動力を伴なっていたことから、そう呼ばれることになったのだろう。西南戦争における、西郷軍の実質的な最高司令官である。
桐野利秋は、手勢のいくらかを割くと、吉次越に防柵をつくらせ、要塞化した。その後、交差点を見下ろす位置に布陣した。木葉と伊倉、その両方の町を狙える位置に陣取ったのである。防御拠点としてだけではなく、物資の集積拠点と、インフラストラクチャーの面からしても、この町は非常に重要であった。
さて、ここで西郷軍の考えていた作戦について説明しておきたい。西郷軍には、二つの選択肢があった。ひとつは、高瀬の町を突破し、街道を北上することで、新政府軍の兵站拠点を突いて全面的な後退をさせる作戦。もうひとつは、高瀬以南の町と重要拠点(具体的にいえば要害堅固な田原坂と吉次越である)を押さえることで、新政府軍の南下を食い止め、その間に熊本城を陥落させてしまう作戦である。西郷軍は考えられる状況を検討した結果、後者の作戦は実行不可能であると判断した。攻撃は最良の防御という言葉があるが、こちらからの戦線突破以外に政府軍の南下を止める方法はない、と判断したのである。そのため、田原坂方面に少数の部隊をおいて足留めとし、その間に主力が伊倉もしくは木葉から高瀬方面に前進し、突破を図る、というのだ。
新政府軍の征討第二旅団の指揮を執っていた旅団長三好重臣は困惑した。彼は急ぎ一個大隊1200人とともに木葉に布陣した。この日のうちはどちらの町も戦闘はない、と判断したのである。本格的な布陣は援軍としてやってくる、第二旅団の参謀長である野津道貫大佐と、第一旅団長の野津鎮雄少将の隊が来てからで間に合う、というのがその目算であった。
三好重臣。戊辰戦争から軍功のあった将軍である。この時37歳。消極的判断だった、というかもしれないが、彼にとってはこれが最善策だったのである。
西郷軍は、村田新八率いる3個小隊600人が、敗走する乃木希典を追撃した。乃木希典は、兵力を半減させる大損害を受けながらも田原坂方面に退却した。
村田新八という人間も面白い。彼は文学に造詣が深く、またハイカラなものが大好きであった趣味人でもあった。戦場において、フロックコートとシルクハット姿で指揮を執ったという話が伝わっている。優秀な指揮官であったことは間違いない。
その日の戦闘を終えた村田新八はぶぜんとした表情を崩さなかった。乃木希典の部隊は、兵力を大きく減らしたとはいえ、まだ完全な壊乱には至っていなかったからである。

三好に遅れ、ようやく戦場に到着した新政府軍の征討軍第一旅団長野津鎮雄は、自軍の危機的な状況を素早く察知した。彼は弟の野津道貫に手持ちの全兵力を与えると伊倉に立てこもらせ、自分は高瀬で後続を待った。仕方もなかった。このとき、野津兄弟の手にあったのは4個大隊800人にすぎず、それだけでは敵の二正面作戦に対応しきれなかったのである。
野津鎮雄と野津道貫の兄弟は、薩摩藩生まれである。若い頃のエピソードとして、薩摩藩士奈良原繁のもとで書生をしていたとき、人を集めて餅つきをしようとしていた奈良原に、自分たち二人で十分だ、と主張し、明け方から夕暮れまで休まず餅をついて、ほんとうに餅を全部つきあげてしまった。そして会食の席では、二人して五六人分を平らげてしまったという痛快なものがある。これ以降、奈良原は「こいつらが軍人になったら大将の器だ」と公言するようになった。いずれにせよ、猛将タイプの人物であったらしい。
伊倉の軍勢が強化されたことに対し、桐野利秋は歯噛みする思いだった。防備が薄かったら攻め取るのはたやすかっただろうが、今では自軍の倍の人数が籠城している。
『……篠原殿を待つしかない』
植木には熊本藩出身の不平士族をまとめ上げた傑物、池辺吉十郎とともに、6個小隊1200人がやってきていた。伊倉を落とし、その1200人が駆け足で伊倉まで電撃的にやって来ることができれば、高瀬方面よりの突破はかなりやりやすくなる。
野津鎮雄がその事実に対して無頓着であったわけではない。だが、彼は弟の戦術能力を信頼していた。「やつなら大丈夫」と、彼は確信していたのである。
篠原国幹は、急ぎ桐野利秋のもとへやってきた。もし、野津道貫が攻勢にあることを確信して桐野利秋に逆襲をはかったらどうなるか、彼には想像がついたのである。西郷軍左翼は崩壊し、吉次越まで撤退しなくてはならないかもしれない。そうなったら戦略自体が破綻する。戦闘継続は不可能ではないまでも防戦一方になろう。そうなったらものをいうのは新政府軍の物量だ。消耗戦になったら西郷軍に勝ち目はない。自軍が戦場のイニシアチブを握っているうちに勝負をつけねばならぬ。
篠原から援軍を受けた桐野は武者震いした。この数なら、立てこもっている新政府軍に対し互角以上の戦いができる! 猛将桐野は、伊倉の政府軍に対し攻撃をかけた。野津道貫も無能ではなかった。陣地に銃隊をずらりと並べ、一斉射撃で桐野を迎え撃ったのである。ここに、凄絶な「伊倉の戦い」が行われた。
伊倉の戦いの結果は、桐野利秋の完全なる敗北であった。統制の取れた射撃に、抜刀突撃を主とする西郷軍は混乱を来し、撤退するしかなかったのである。
木葉まで進軍してきた別働第一旅団司令長官大山巌少将は、吉次越を占拠できれば、桐野と篠原の軍勢を包囲できる体制にあることに気づいた。少なくとも、たとえ伊倉を落とされても、電撃的に増援部隊を送られる可能性はなくなる。大山は部隊をまとめると、急ぎ木葉から吉次越まで南下させた。守備の任に当たっていた池辺吉十郎を駆逐し、吉次越の占拠に成功したのである。
大山巌。日本には珍しい、戦略的なものの考え方ができる将軍であった。日清・日露と武功を上げ、「海の東郷、陸の大山」といわれるほどになったが、政治的な野心は少なく、度重なる総理大臣への推挙をすべて断ったという。極端な「西洋かぶれ」であり、ルイ・ヴィトンの日本第一号の顧客として自筆サインが残っている。西郷隆盛ほどではないが、大山も極端な肥満体で、茫洋とした雰囲気を漂わせていたそうであるが、半分以上は演技だったらしい。
大山巌は、吉次峠の防御陣地ならば、新政府軍の援軍が来るまでの2日間にわたって、西郷軍の攻撃を食い止められると想定していたが、そこへ、増援を受け増強された、別府晋助の部隊1200人が襲い掛かってきた。
別府晋助。西郷隆盛が信頼していた若い才能の一人である。西郷の命を受けて朝鮮に赴き、釜山で情報収集活動をしたことで知られる。意気が盛んなうえに公正な人物で、新政府の近衛将校時代、給付される給料を部下と公平に分け合ったという逸話が残っている。前線指揮官としても有能であった。
別府は陣地に籠る大山の軍に奇襲をかけた。さしもの大山も、西郷軍が攻撃するまでには準備に時間がかかるだろうと踏んでいたらしいが、完全に逆を突かれた形になった。もとから兵力の少なかった大山の部隊は四分五裂し潰走。別府は大山を追撃し、完全に壊滅させたのである。植木~吉次越~伊倉のルートは完全に安全になった。

ここで動いたのが篠原である。彼は部隊の統制を回復すると、木葉と伊倉との中間地点に移動した。
野津鎮雄も、野津道貫も、すべての政府軍指揮官が、政府軍が容易ならぬ事態に陥ったことを悟った。今の大山の失態により、木葉はがら空き状態になっていたのである。篠原の考えは明らかだった。もし木葉を強化したなら、伊倉を討つ。伊倉を強化したなら、木葉を討つ。双方を強化したなら、その間を抜けて高瀬を、その後方の連絡線を遮断、突破する……。
起こってしまったことは仕方がない。新政府軍は、やってきた精鋭部隊を、弱体化した木葉の強化に用いた。指揮官は福原和勝大佐。別働第三旅団参謀長の肩書であったが、まともに前線指揮官となれるのは彼くらいしかいなかったのだ。
別府晋助は木葉方面に北上した。
野津道貫は、木葉と同様手薄になっている高瀬へ兵を送った。
そのとき動いたのは、完全に痛めつけられていたはずの桐野利秋であった。彼は手持ちの寡兵をもって、伊倉に取って返すと、主力部隊を移動させて隊形を変更している最中の野津道貫に襲い掛かったのである。
野津道貫も健闘したが、奇襲によって部隊が混乱させられていてはどうしようもなかった。彼は統制の取れなくなった兵を叱咤激励しつつ高瀬方面へと撤退した。
植木の池辺隊が、駆け足で伊倉まで前進してきた。これにより、後顧の憂いはないも同然である。篠原国幹は、高瀬を迂回し、やってきたばかりの新政府軍に突撃をかけた。彼らを撃退することさえできれば、敵陣を突破し、後方の兵站本部を撃破することができる。それは、新政府軍の壊滅と、熊本城の士気低下と開城にまでつながるはずだった。

篠原の突撃は、完全な奇襲となった。新政府軍の増援部隊は、たちまちのうちに三分の一が混乱状態に陥った。
新政府軍増援部隊の指揮を執っていたのは、征討総督府参軍・陸軍中将という肩書を持つ、山縣有朋という男であった。
山縣有朋。長州藩出身の軍人である。軍人というよりも軍政家といった方が正しい。軍事的才能よりも、政治家としての才能のほうが優れていた男であった。質素倹約を基とする生活を送りながら風雅の道に遊び、藩閥にかかわらない人材を育成するための文官試験制度を作りながら藩閥政治の首魁と見なされたり、いろいろと複雑な人物である。いちばんの逆説は、日本で最初の平民出身の首相である原敬の最大の後援者だったところであろう。まさに怪物、もしくは誰にでも敬愛される人物であった。
山縣は、自分が軍事的な才能だけなら桐野や篠原はおろか、野津兄弟や大山巌にも劣ることをよく自覚していた。そのため、彼は、徹底的に教科書通りにやることにした。すなわち、部隊に密集方陣を組ませて撃ちまくらせたのである。まともに方陣を組めるのは少数ではあったが、彼らは皆、自分たちのボスである山縣に心酔しているものばかりであった。篠原は二度、三度と突撃を敢行した。だが、抜刀突撃部隊の攻撃は方陣に跳ね返された。突撃のたびに、篠原の部隊の混乱は大きくなった。ついにはさすがの篠原でも収拾をつけることが困難になり、篠原は撤退を命じた。
その時、篠原国幹がどのような気持ちでいたのか、示す資料はない。もとから、口数の少ない男であった。
高瀬に陣取っていた野津鎮雄は、篠原が混乱しているのを知り、手持ちの部隊を使って篠原を追撃した。篠原は驚異的な努力で全部隊の崩壊までは至らないようにしていたが、それでも部隊は少しずつすり減っていった。伊倉から撤退してきた野津道貫は、空になった高瀬に入り、自軍の再編成を行った。
『おれの責任だ……』
もし、あの援軍が来る前に突破を試みることができていたら。それを頓挫させたのが、自分の伊倉に対する拙攻だったと、桐野利秋には思えてならなかった。
『やるしかない』
桐野は手持ちの全兵力をまとめると、高瀬方面へ向かって突進した。
高瀬川を越えて、北方へ突破しようとする西郷軍と、それを阻止せんとする新政府軍との間で、凄絶極まる殺戮戦が行われた。
篠原と桐野は、山縣の軍に波状攻撃をかけた。だが、山縣の方陣はびくともしない。篠原の軍勢に、木葉から出動してきた福原が追撃をかける。その間隙をついて別府晋助が木葉を落とし、さらに高瀬方面へ攻撃を行った。そんな西郷軍の猛攻に対し、野津兄弟は目まぐるしく位置を変えながら牽制攻撃と追撃でダメージを与えていく。西郷軍の村田新八はがら空きになった高瀬へ全力で進軍したところを、援軍でやってきた総督府参軍川村純義と征討軍第三旅団の三浦吾郎によって阻まれた。銃火がひらめき、白刃が舞い、新政府軍の火砲は敵味方おかまいなしの射撃を浴びせる。
その間に、田原坂方面を守っていた三好重臣は、軍勢を率いて吉次越に突進した。吉次越を守っていたわずか一個小隊200名の池辺隊はもろくも崩壊、撤退した。これで新政府軍は隙あらばいつでも植木を狙える体制に入ったのである。植木を落とせば、新政府軍は南方に突破し、熊本城を包囲している西郷軍を背後から突けることになる。それは西郷軍の全面的撤退につながるものであった。

事ここに至って、西郷軍はおのれの置かれている戦況がもはやどうにもならないことを悟り、粛々とした撤退に入った。だが、粛々とした撤退を許すほど、新政府軍は甘くなかった。

山縣有朋の大軍を誇示するかのように、新政府軍は西郷軍を駆逐しながら南下していく。篠原や桐野は散発的な抵抗を続けるが、それは限定的な効果すら上げられなかった。
結局、植木と伊倉は保持できたものの、ほかの拠点はすべて新政府軍の手に落ち、ここに約一カ月間に及んだ高瀬の戦いは「新政府軍の勝利」という形で終わりを告げた。

だが、西郷軍の物語も、新政府軍の物語も、まだ終わったわけではない。九州南部をめぐるゲリラ戦が、西郷の自刃で終わるまで、半年以上も続くことになるのである。だが、それを語るのは、この小稿のするところではない……。
使用ゲーム 伏見素行「激闘 田原坂」
ソロプレイ ポール・ブリッツ
※ ※ ※ ※ ※
と、いうわけで、まああんな仰々しい記事を書いたのは、このゲームが楽しかったからなんであります(^^)
ゲームは、故・季刊タクテクス誌NO.3のとじ込み付録ゲーム「激闘 田原坂」。前にも何度かプレイしかけては、独特なシステムゆえにプレイをあきらめてたんだけど、今回、大河ドラマもあることだし、タイムリーかな、と思って、本腰を入れて挑戦してみたら、やたらと面白かった。たぶん翔企画の低価格簡単ルールゲームシリーズ「SSシリーズ」の一作としてつくられたのがボツったんだろうけど、うん、これはタクテクス誌に載せて発表したくなるのもわかる。それでもこんなマイナーにもほどがあるテーマのゲームを、ルールブック片手のソロプレイとはいえ、プレイ時間3時間というのは、やっぱり好き者しかやらんなあ。
チットを引いて手番プレイヤーを決めるというのは安易だと思ってたけど、「夜」ターンになると再編成ができる、というルールがやたらと流動的な展開を生んでる。その気になればものすごい強行軍が可能だし、ハプニング続出で面白い。
戦闘も意外とドラマチックなことが起こるからあなどれない。まさか山縣有朋(1-7-4)があんなサイコロの目を出して篠原国幹(3-6-5)を撃退するとは思わなかった。てっきり西郷軍のサドンデス勝利だと思ってたんだけど。
いやー、やっぱりヒストリカルシミュレーションゲーム、いいわ。こうして歴史小説っぽいリプレイを書くのは、やはりたまらんですなあ~~~。
次は何にしよう。
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明けましておめでとうございます。
タクテクス・・・懐かしいですね!
私は、エポック社の「バルジ大作戦」持ってました。
年がばれますね(^_^;)
タクテクス・・・懐かしいですね!
私は、エポック社の「バルジ大作戦」持ってました。
年がばれますね(^_^;)
- #19808 ペイシュー
- URL
- 2019.01/04 16:22
- ▲EntryTop
Re: ECMさん
ゲームバランスは難しくて、デザイナーが悩むのもそこです。
ほんのちょっと生産ルールを優遇したがゆえに、日米両軍が空母と航空機をがんがん作りまくり、空母と航空機のユニットがなくなったら戦艦を作り、それでもポイントが余るようになって最後はすべての勢力が原爆を一心に作り始めるようになる戦略級太平洋戦争ゲームが昔ありまして、それを見た佐藤大輔は、それ以降のゲームで「生産」ルールを作るのをやめてしまった、という話があります。
また、独ソ戦のボードゲームで、レニングラードを陥落させたフィンランド軍が、鉄道を使ってとっとことっとこロシアを縦断して、スターリングラード攻防戦に参加した、という実話もあるので、まあ、ゲームを作るのは大変であります。
歴史通りと論理的な戦術ということで、昔から論争になっているのが、「太平洋戦争ゲームで日本の潜水艦を通商破壊に使うのは許されるか」という問題があります。潜水艦の使い方としてはそちらのほうが明らかに合理的ですが、現実の日本軍は敵艦隊漸減作戦のために温存していたことは周知の事実です。歴史のIFだったらそれを認めてもいいんじゃないか、ばかいえ認められるわけないじゃないか、という論争が今まで続いていて……。
ほんのちょっと生産ルールを優遇したがゆえに、日米両軍が空母と航空機をがんがん作りまくり、空母と航空機のユニットがなくなったら戦艦を作り、それでもポイントが余るようになって最後はすべての勢力が原爆を一心に作り始めるようになる戦略級太平洋戦争ゲームが昔ありまして、それを見た佐藤大輔は、それ以降のゲームで「生産」ルールを作るのをやめてしまった、という話があります。
また、独ソ戦のボードゲームで、レニングラードを陥落させたフィンランド軍が、鉄道を使ってとっとことっとこロシアを縦断して、スターリングラード攻防戦に参加した、という実話もあるので、まあ、ゲームを作るのは大変であります。
歴史通りと論理的な戦術ということで、昔から論争になっているのが、「太平洋戦争ゲームで日本の潜水艦を通商破壊に使うのは許されるか」という問題があります。潜水艦の使い方としてはそちらのほうが明らかに合理的ですが、現実の日本軍は敵艦隊漸減作戦のために温存していたことは周知の事実です。歴史のIFだったらそれを認めてもいいんじゃないか、ばかいえ認められるわけないじゃないか、という論争が今まで続いていて……。
Re: 椿さん
意外とよくできたゲームで、まさかここまで波乱万丈な展開になるとは思いませんでした。例会に持って行ってプレイしたいゲームです。
拾い物です~
拾い物です~
NoTitle
昔MSX2版の「提督の決断」というシミュレーションゲームで、大和が無事に沖縄まで行ってしまったといってしまったという人がいましたが、ゲームバランスというのが難しいですよね。
一方的に歴史通りにしようとするのも面白くないですし。
一方的に歴史通りにしようとするのも面白くないですし。
NoTitle
逆転、また逆転の展開に驚いていたら、なるほどそういうシステムなんですね。順番に攻防するわけではない? それだったらいろんな展開がありそうですね。
面白かったです!
面白かったです!
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Re: ペイシューさん
わたしはやったことないですが、ドイツ軍がかなり善戦できるみたいですね。それともエポックのEWEバルジですか(笑)