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    哲学者になれなかった男の語る哲学夜話

    特別編・ニーチェについてさらに考える

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     眠れないので、ニーチェについて考えていたのだが(よいこはまねしてはいけない)、あの人が最後にたどり着いたのは、一言でいえば「全肯定」ではないか、という結論に達した。それも特大の全肯定である。

     前にも書いた通りニーチェの生涯を通しての敵はニヒリズムである。ニヒリズムというのは恐ろしい思想で、すべての「何らかの価値を求める」行為を、「そんなの無意味だよ~、無価値だよ~、要するに無でしかないよ~、考えるだけバカバカしいよ~」と高みから見下ろすような形ですべて蒸発させてしまう効果を持つ。その恐ろしさをちょっと考えてみたまえ。きみが恋に落ちる。燃えるような灼熱の恋だ。それを横から「そんなの無意味だよ~。虚しいよ~」。きみがお金を稼いで蔵を立てる。蔵の中には金銀がぎっしり。それを横から「そんなの無意味だよ~。虚しいよ~」。きみが勉強に勉強を重ねて大学者になる。みんながきみを世界最高の知性と認める。それを横から「そんなの無意味だよ~。虚しいよ~」。全部がこのノリなのだ。最終的には「生きてるって虚しいことなんじゃないか」と考え始め、裏の陸橋の欄干にロープをかけて首を吊ってしまう。少なくとも、爛熟したドイツでニーチェが見た、もしくは見たと信じたのは、そんな明日にでも首を吊りかねないような老若男女が、そこから目をそらして、完全に無意味なその場の享楽に溺れているだけ、という光景だった。(同じような光景をワイマール共和国末期の世界で目撃したハイデガーは「存在と時間」を書いてナチスに接近するのだがそれはおいておく)

     ニーチェは悲壮な決意をもって、誰一人理解してくれない、「ニヒリズムを超克するため」の戦いを延々繰り広げた。その結果彼が証明してしまったのは、「世界は本質的に無価値であり無意味でありすべての向上は幻想にすぎない」という事実だった。いわゆる「永劫回帰」である。いわく、宇宙は有限の量の原子から成立している。である以上、原子が構成できるパターンの数もまた有限である。それに対して、「時間」は永遠である。少なくとも、「時間が終わる」とはどういうことかをわれわれは考えることすらできない。である以上、無限に続く時間の中で、有限なパターンはすべてそのパターンを描いてしまうはずだ。麻雀を無限回行えば、すべての山と配牌のパターンは卓に出きってしまうはずだし、その過程でプレイヤーが取るすべての行動のパターンも出きってしまうだろう。それを思い切り複雑にしたようなものである。となると、すべてのパターンは等価であり、優劣をつけること自体がナンセンスである。である以上、世の中は無意味であり、無価値であり、虚無と同様だ。そんな抑鬱的な思考に到達してしまった晩年のニーチェだが、なぜかその思想をほのめかした大著「ツァラトゥストラ」の結末は明るいのである。結論は「いざ、もう一度!」なのだ。同じことを無限回意味もなくやることに喜びを感じろ、というのである。ニーチェ先生、やけくそになったのか、としか思えない。

     そのことが引っかかっていて、何度も考えたのだが、案外、ニーチェは、本気で「もう一度」といったのかもしれない、という結論に至った。わたしはこれを「全肯定」と呼んでみることにする。

     ここで、畏友のダメ子さんのブログから、理屈っぽくって思想が大好きで、筋が通ったマイナス思考をさせたらダメ子さんよりもはるかにすぐれた才能を持つ中学生、ムイミちゃんに登場してもらおう。彼女は今、図書館から読みたかった厭世主義の哲学の本を借りてきてちょっとルンルン気分である。

     ニーチェはそんなルンルン気分で前向きになっているムイミちゃんが「自分の存在を肯定している」と主張する。

     ムイミちゃんは家に帰り、着替えてから厭世主義の哲学の本を読み始める。だんだんムイミちゃんの気分が暗くなってくる。ムイミちゃんは暗くなってくる自分の心を喜ぶ。

     ニーチェはそんな暗い喜びに浸っているムイミちゃんが「自分の存在を肯定している」と主張する。

     厭世主義の哲学の本は、やりすぎなほどに厭世的なことが書いてある。しだいにムイミちゃんは、世の中がバカバカしくなってきて、もうこれでおしまいにしよう、と、包丁を持ち出して、遊びに来ていたヤミホちゃんを刺し殺してしまう。

     ニーチェはそんな人殺しをしてしまったムイミちゃんを「自分の存在を肯定している」と主張する。

     ヤミホちゃんを刺し殺してしまったムイミちゃんは、罪の意識と、裁かれることへの不安から、包丁を逆手に握って自分を刺して自殺する。

     ニーチェはそんな自殺したムイミちゃんを「自分の存在を肯定している」と主張するだろう。ムイミちゃんもヤミホちゃんも、難しい役をご苦労さん。はい、役から離れて、生き返って。また今度ダメ子さんのブログでお会いしましょう。

     しかし「力への意志」では、人間、いや、存在するものすべては、自分を高め、強くし、美しくする方向へ、「強い力を持つ方向へ」しか進めないのではなかったか。それが「生」の哲学、というものではなかったのか。

     ここで、世界が根本的に無意味だと仮定しよう。すると、すべての運動に「価値」は存在しないことになる。プラスもなければマイナスもない。単に運動をしているだけだ。

     それならば、プラスもマイナスもないならば、すべてを「プラスの運動」であるとみなしてもかまわないであろう。「プラスもマイナスもない」という言葉を、強引に、一律に、「プラスである」と読み替えるのだ。それにより、プラスに見える運動もマイナスに見える運動も、すべてが「力への意志」の顕現である、ということになる。生きて成長するものは「力への意志」のもとで堂々と成長するのに対し、病み衰え死に行くものは「力への意志」のもと、堂々と死んでいくのだ。

     詭弁だろうか。いや、そうではない。この無意味でしかない空虚の中にどういうわけだか「存在」している「存在そのもの」、それ自体に「価値」を認めること、これ以外に人間が「価値」を見出す方法は存在しない。いわば、「完全なる無意味そのものに、存在自体を全肯定することの根拠があり、価値の根源がある」と考えること、これ以外にニヒリズムを超克する道はない、それが、「永劫回帰」という突破不能のデッドロックをニーチェが突き抜けた方法なのである。

     それは哲学なのか? どう考えても哲学ではない。すべてのものを肯定的にとらえることは、そのまますべてのものを否定的にとらえることと表裏一体である。例えば先ほどのムイミちゃんであるが、「すべての自分の行動をマイナスに考える」ことも可能だ。本を借りてきた自分もマイナス、読んだ自分もマイナス、しでかしてしまったこともすべてマイナス、と。

     ではどうしてプラスに考えることができるのか? それは論理ではない。ウィトゲンシュタインなら、「語りえないもの」というだろう、人間が持っている、大なり小なりの「宗教的神秘体験」によって、「わかる」しかないのだ。だから、「わからない」人には永遠にわからない。哲学は宗教ではないので、論理でもって、そういう道があることを「示す」だけである。あとは個人の問題だ。

     このニーチェの到達点には、「規範」や「戒律」が存在しない。「善」もなければ「悪」もない。ただ「肯定」があるだけだ。

     人間はそれでいいのだ。

     ニーチェはそういう境地があることをニヒリズムとの戦いの中から抉り出したが、本人は発狂していたので、死ぬまでに、精神もそういう境地に達することができたのかについては、永遠の謎というしかない。

     ただわたしは、「お疲れ様でした、ニーチェ先生」といって、この巨人の魂の安寧を祈るばかりである。
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    ~ Comment ~

    Re: ひゃくの惑星さん

    これから日本で革命があるとすれば白色革命だけでしょう。

    そんなもの、クソを垂れる値打ちすらないです。

    NoTitle

    >やろうと思ったんだけど
    学生運動はもはや学生じゃないので難しいだろうけど(ていうか、シールズあたりと一緒に見られたくないよなーw)、でも、革命はこれから意外に旬なキーワードだったりするんじゃない?(爆)

    Re: ひゃくぺりあぁ ~決して一人では見ないでくださいさん

    いやあ、やろうと思ったんだけど、学生運動は下火で絶滅しかかってたもんで……。

    NoTitle

    >という状況で陥りがちです
    わからん!
    そんなヤツは革命でもやってなさい(-。-)y-゜゜゜

    >哲学を宗教みたいに使おうというのはちょっとどうかな
    哲学を宗教みたいに扱うって、具体的にはわからないけど、個人的には、心のためしてガッテンなんだと思いますよ、コンセプトは。
    ていうか、NHKだもん。要は、大衆にウケるように番組を作って、視聴率が上がればスタッフは満足という、いわゆるNHK職員のマス●ーベーション番組ですよね。所詮は。
    いや、面白いのは面白いんだけど(^^ゞ
    ただ、最近は画面に出てくる文字とその効果音がうるさくって、イヤんなっちゃったというのはあるかなー。
    • #20311 ひゃくぺりあぁ ~決して一人では見ないでください 
    • URL 
    • 2019.08/04 16:39 
    •  ▲EntryTop 

    Re: ひゃくそしすとさん

    そういうことで落ち込むようなやつらなら、何も心配いりません。なにかプラスなことが起こったら、気持ちが上向きになってハッピーになるでしょうから。

    哲学好きな人間がそういうことに落ち込むパターンは、勉強も対人関係も絶好調で、考えるとどんどん新しいアイデアやら何やらが湧いてくる、という状況で陥りがちです。考えがすいすい進んでオーバーランし、気がついたら、「世界は無意味だ」って結論を脳味噌がはじき出していることに気づいちゃうパターン。本人が絶好調で考えていたから、どこで道を踏み外したのか本人はまったく気づいてないしわからない、つまりこの世は無意味なんだー、という、そういうプロセス。こわいよー、マジで。

    100分で名著は面白い番組ですが、哲学を宗教みたいに使おうというのはちょっとどうかな、と思ってます。考えることで「悟り」がいったいどんなものではないのかを理解することはできますが、「悟り」そのものじゃないですからね。(そこらへんで悩んでたのが西田幾多郎であるけどそれはおいとく)

    NoTitle

    >哲学を考える人は哲学を考えるようにしか考えられない
    それはなんとなく想像できます。
    そういうタイプの人を、もっと、うーんと俗っぽくすると、簡単なことをわざと難しく言うのが大好きな人、みたいな?(^^ゞ
    私自身、そうだったし、ま、今でもそういうところは多々あると思います。
    ただ、ま、そういう俗っぽいタイプと同列に扱っちゃぁダメなんでしょうね。

    >最初に落っこちる「この世はすべて無意味じゃないか」と考えたがる罠
    そのきっかけって、ありがちがけど志望校に落ちたとか、彼女にフラれた、だったりするんです?

    >そういう面から「生(せい)の哲学」といわれる一群の哲学者の本を読み直すと、これが疲れた心には覿面に効く
    Eテレの「100分de名著」が時々話題になったりするのは、たぶんそういう側面もあるんでしょうね。
    • #20293 ひゃくそしすと 
    • URL 
    • 2019.07/28 15:37 
    •  ▲EntryTop 

    Re: ひゃくにえる夫人さん

    哲学というのは、もう一種の業というか病みたいなもんで、哲学を考える人は哲学を考えるようにしか考えられないのです。

    哲学というのは、そうした、哲学をやろうなどと考えるタイプの人間が最初に落っこちる「この世はすべて無意味じゃないか」と考えたがる罠を脱出し、その中から、なおも「生きる意味」を捜す学問という側面もあります。

    そういう面から「生(せい)の哲学」といわれる一群の哲学者の本を読み直すと、これが疲れた心には覿面に効くんですよねえ。

    普通の人はやめておいたほうがいい療法ですけど……。

    NoTitle

    そもそも、哲学って、何のためにあるの?
    哲学を志す人?、勉強したいと思う人?、あるいは歴史上哲学者と言われた人?、そういった人たちは、何でそれ(哲学)を追求しようとしたんだろ?
    もちろん、人間なんてアホだから、ちょっとでも自分なりの疑問にとり憑かれたらそれを追求せずにはいられないっていうのはあるんだろうけどさ。
    でも、世の中のあらゆることが無意味なら、そう思うことこそが一番無意味なんじゃないの!?
    だって、あらゆることが無意味なら、息吸って吐くことだって、無意味ってことになっちゃうけど、そういうことではないでしょう?
    つまり、人間として、あるいは生物として、生きていくためには、それを無意味と定義しようが意味があるものと定義しようが、それをしなきゃならないわけで。
    要は、いろいろ面倒くさいから、無意味だ、無意味だと悟った風なことを言って何もしないだけじゃないのかな?

    今の日本で、なんか妙に哲学がもてはやされているようなとことがあるのは、実生活に哲学を生かして少しでも楽に生きたい、みたいな。
    バナナや納豆を毎日食えば痩せるみたいなことばかり言ってる、健康番組のメンタル版みたいな気がしちゃって、あまり好きになれないんだけど、むしろそれはそれでわかる気もするんですよね。
    だって、楽に生きたいもん(^^ゞ
    そういう意味で、そのための哲学というのはわかるんだけど、楽に生きる、あるいはよりよい人生をおくるということを、無意味と否定するのなら、哲学こそが無意味のような気がするけどなぁ…(^^;
    • #20269 ひゃくにえる夫人 
    • URL 
    • 2019.07/21 14:35 
    •  ▲EntryTop 

    Re: ムイミさん

    永井先生は尊敬しているけど、これは納得できないな、と思うところもけっこうあるので、まあその辺はその辺ですね。

    「ルサンチマン」を重視するということは、「実存そのものに根差す価値観」と、「存在を離れて恣意的に価値秩序を世界の外部に捏造すること」の存在論的差異を認めるということそのものなので、そこら辺をニーチェの哲学説と切り離してとらえるということについて、永井先生がどう考えているのかちょっと自分には理解できないですが、まあそれはおいておきます。

    ニーチェの永劫回帰説は、現代の科学をもってしても、事実性としては証明も反証もできない代物ですので(我々の認識する宇宙が終末を迎えたとしても、ニーチェに言わせれば「永劫はまだ始まってもいない」ので)、実際にニーチェが証明したのは、「完全に無意味であり無価値であり、現在われわれがいるこの世界と矛盾しない世界があるならそれはどのようなものか」のひとつの解であると思うので、「完全に無意味無価値で、現在のわれわれがいるこの世界と矛盾しない世界」というものが他の形で証明できれば、それはそれで構わないと思われます。そうした意味で、永劫回帰は「単なる趣味」かもしれませんが、「現在のわれわれがいるこの世界は完全に無意味無価値で、宗教者の説く『来世』というものなど存在しない」ということの定式化、ととらえれば、現代においてもその価値はまだアクチュアルなのではないかと思います。

    NoTitle

    「この世界のすべてが無意味、無価値」なものなのであれば
    たとえその実存に「そのまま価値を見出す」のだとしても
    「価値を見出す」という余計なものを付け加えているのではないでしょうか?
    それは「恣意的な形でこの世の外に価値秩序を捏造」を超えることができているとは思えません

    またこれは当時としては仕方がないのでしょうが
    ニーチェの語る永劫回帰の世界は現代科学の示す世界像とは異なっており
    現代においては語り得ぬものというよりもフィクション、誤りのたぐいであると考えます

    「ニーチェの場合、力への意志などはただの哲学説で永遠回帰などはただの趣味だが、ルサンチマン説だけは現代人必修」(ツイッターより)
    という永井均教授の意見に概ね同意します

    Re: ムイミさん

    ニーチェが口を極めて痛烈に罵倒している「宗教」というものは、

    「この世界のすべては無意味、無価値だという前提のもとで、恣意的な形でこの世の外に価値秩序を捏造し、それに従って生きる」生き方ですから、「主観的」とイコールで結んでしまっていいのかについては疑問が残りますね。

    同時期に生きた哲学者であるキルケゴールの主張や著作についてニーチェは完全に無知だったようですから、自己の実存と分かちがたく結びついた形で神と対峙する、というキルケゴール的な宗教者の生き方に対してニーチェが完全否定したかどうかは議論の余地がありますが、「ツァラトストラ」で宗教的な人間を認めたように、キルケゴールも評価したんじゃないかな、とわたしは思います。時代は違いますが、シモーヌ・ヴェイユも同じような形で認めたんじゃないかな。

    ニーチェがたどり着いた価値というものが、「「実存」と結びついた「存在そのもの」に直結するものにそのまま価値を見出すこと」に立脚していたとして、それが、ウィトゲンシュタインの喝破するように「語りえないもの」であったとしたら、それを論理で語ろうとするのはすなわち誤謬であるとしかいいようがありません。それが「何であると考えられるか」についての指摘であれば、「語りえないもの」だとしても、論理でもってかなりな位置まで接近できると思いますが、「それがなんであるか」を語ることは不可能です。哲学が、論理でもって対象に限りなく接近していく営みとすると、ニーチェの思索は接近可能なぎりぎりまで至っており、それによってあぶりだされてきたものを「正しいと考える」ことによってのみ、ニヒリズムは超克可能である、とわたしは考えます。裏を返せばもちろん、ニヒリズムを超克したくない人は超克しなければいい、というそれだけの話です。

    野球のプレーヤーとして、「スポーツの意味とは何か」と問われたら、野球のプレーヤーはとにかく野球をプレーすることと思われます。その野球をするという行為において、「スポーツの意味とは何か」にぎりぎりまで迫れるかもしれませんが、野球のルールにのっとって、野球をプレーすることで「スポーツの意味とは何か」を明確に定義することは不可能でしょう。しかし、野球をプレーすることは、「スポーツの意味とは何か」について考えるためのひとつの方法ではあります。「語りえないものを語る」とはそういうことだとわたしは思います。

    NoTitle

    私は真実を見ようとしてはいますが
    それに(客観的に)価値があるとは述べていません

    ただニーチェは哲学者と名乗っている(周りがそう認識している)
    のですから客観的、論理的な学問の視点から解釈すべきと思います
    (野球そのものに価値があるかどうかとは関係なく
    野球をプレーするのであれば野球のルールを用いるのは自然)

    そしてニーチェは他人の様々な価値(例えばキリスト教)を
    容赦なく否定していますから同レベル(主観的)の価値を肯定するのは
    明らかに矛盾しています
    ニーチェ哲学はニヒリズムを全く超えられず
    過去に自分で否定していた宗教に走っただけではないでしょうか?

    Re: ムイミさん

    「客観的に意味などない」と考えること、そしてそのうえで「真実を見ようとしているだけ」ということ自体がひとつの「価値」であり、その限りにおいて、「自分の価値を信じて自己を肯定して生きている」と最終段階のニーチェだったらいうと思いますが、まあ、それもひとつの「解釈」でしかないですし、世界がすべて「解釈」である、ということは中期以降からのニーチェの主張でしたから、まあニーチェの視界内にいることは確かですな。もっとも、「解釈」なので、ニーチェの考えの埒外にいると解釈することもまた可能でありますが。

    「恋や金銀」が価値だと考えるのだったら、それはそれでいい、と最終段階のニーチェは考えるでしょうね。ニーチェが戦おうとしているのは、あくまでもそれに対し「それは無意味で無価値だ」と説くニヒリズムですから。

    Re: miss.keyさん

    飲むとわたし哲学のことでくだ巻きますけどいいですか(笑)

    NoTitle

    「なぜか世界(何か)が存在している」と言うことは
    事実(正確には最も蓋然性の高い仮説)と考えられ
    そのことを認める(=肯定する?)ことは私にも自然に思われます

    ですがそれを「力への意志」と呼びプラスの価値ととらえることは
    おっしゃるように論理ではなく宗教的体験=主観であり
    そうであるならばこの文章の初めの方にある
    「恋や金銀に価値がある」等の内容と
    主観でしかないという意味においては同等のものと思います

    やはり私の行動、ヤミホさんを〇すことも自〇することも
    そのことには究極的に客観的には意味などない
    (プラスやマイナスの価値はない)と考えます
    (もちろん現実には私は一人間として生まれているため
    他の人間のことは配慮すべきと思いますが)

    また私はマイナス思考と思われがちですが
    それは世の中に根拠のないプラス思考があふれているため
    相対的にそう見られるだけで
    私自身は真実を見ようとしているだけと思っています

    無意味

     突き詰めてしまいますとですな、意味が無い事を考える事自体に意味が無いのであります。つまりですな、
     ごちゃごちゃ言ってねーで飲めよー
     なのであります。
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