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    ささげもの

    わたしの五日間

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     この季節がやって来た。チェックインしたいつもの宿屋。そして通されたいつもの部屋で、わたしは凍てついた窓越しに冬山を見ている。

     手伝いに来ていたのか、フロントで宿帳に記帳するとき、初めて見る若い娘がわたしの持っていた医療道具に気づいて「ドクターか」と聞いてきた。適当に答えておいた。医学博士はおろか医者でもないが、わたしはドクターだった。看護学博士である。専門は終末期看護だ。

     わたしが頼んだ唯一のルームサービスとして、さっきの娘が安ブランデーの大瓶と籠盛りのパンと固いチーズ、それにナイフを持ってきた。どうせ五日間の逗留に過ぎない。栄養などこれだけあれば足りる。わたしはブランデーの封を切ると飲み始めた。

     最初にこの、ホテルともいえないような小さな宿屋に来たのは十五年前だった。ちょうど妻を亡くした年だ。わたしに看取られて妻は死んだ。

     たぶん、心安らかな死ではなかったろう。わたしの勤めているホスピスで、わたしが自分の看護技術のすべてを使って看護していたときも、妻は意識がありさえすればわたしを罵倒し、呪い続けていたからだ。言葉の意味はまったくわからなかったが、その口調と形相からして、呪っていることは疑う余地もなかった。言葉の意味がわからなかったのは、妻は重度の若年性痴呆症にかかっていて、言語面はその病状が最も重く現れたところだったからだ。

     当時わたしは三十九、妻は三十八だった。結婚して十二年目だった。正常だったころは、妻はわたしに不満をこぼすことはなかったが、その表情にはいささかの憂いがあり、わたしは自分の無精子症ゆえに子供が作れないことを妻に負い目に感じていた。

     妻にとっては、子供が作れないことなどどうでもよかったのではないか、とわかってきたのは妻の発症後である。

     意味不明な罵倒と呪いをかきわけていくと、どうやら、妻は、わたしが博士課程取得退学後も、一介の看護師として、死を迎えるしかない終末期患者相手にホスピスで働き続けていることが理解できなかったらしい。妻にとって、博士とは一に「大学や高等教育機関で教授職について教鞭を執るべき存在」であり、「著書を多数執筆するもの」であったらしいのだ。

     わたしは看護師が天職であり、看護師以外の存在であることなどできない、ということを話しても、わかってもらえたかどうかはわからない。大学の紀要に論文はいくつも執筆していたが、たかが一看護師の論文などををまとめて出版しようとする出版社など存在しないことが、妻の焦りに拍車をかけたのかもしれない。そして思考能力がむしばまれたとき、唯一残ったのがわたしへの憎悪だけだった、というわけだ。

     すべてが手遅れ、ということがあるのは終末期看護のプロフェッショナルとしては当然の認識であるが、死によって、ようやく呪いと罵倒から妻が解放され、その安らかな顔を前にしたとき、わたしは自分がどうしたらいいかすらわからなくなっていた。

     行く場所のあてなどないまま、パスポートを取った。行く場所のあてなどないまま、切符を買って飛行機に乗った。

     気がついたらこの宿のこの部屋で、ブランデーの瓶を抱え、凍てついた窓から夜の雪山を見ていた。

     以来、毎年ここに来ている。いつしか五十の坂も過ぎ、髪は吹雪を抜けてきたかのようにまだらだ。

     一年の三百五十八日を一滴の酒も飲まずに働き、五日をこの部屋でブランデーを浴びるように飲んで過ごし、二日で移動し酒を抜く。

     わたしは看護師であり、看護師以外の何かになれるわけがない。

     明かりといえば貧弱なランプしかない部屋で、安ブランデーを飲みながら、見えるわけもない夜の雪山を見ている。

     わたしの五日間は始まったばかりだ。
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    ~ Comment ~

    Re: 大海彩洋さん

    志願してでもそのくらいの割合で働かなければ亡き妻の思い出から片時も逃れられないのです。この男はそーゆー奴なのです。

    酒瓶を手にスイスの冬山を見るだけで埋められるような心の空洞ではないのです。

    ちなみにこれを書いた時のわたしの想定国は日本(笑)。

    ひえ~

    1年のうちこの5日間以外358日働くって……どんな職場なんだろう(どきどき)。医者と違って、看護師は拘束時間内の密度が濃いので(医者も濃くないわけではないのですけれど、時間の使い方は融通の利く場面も多い。ただし、職場にいる時間は延びる^^;)、とてもこんな働き方はできないと思うけれど、ううむ。
    というのか、その職場の労働状況はどうなってるんだ! というよりも、その国(どこ?)の労働基準法はどうなってるんだ! と叫んでおりました。
    これもポールさんならではのハードボイルド設定でしょうか。

    なにより、ポールさんが夫婦愛について書こうとしても、みんながハードボイルドふうに読んでしまうあたり、妙に面白いと思ったのでした。

    Re: ダメ子さん

    ほんとに一生の人生かけても惜しくないと思うほど愛している相手から、こんな罵倒をかけられ続けて死なれたら、自分としては十五年どころではなく、死ぬまで雪山と対話でもしてないと心の空洞が埋まらないんじゃないかと思うであります……。

    NoTitle

    ハードボイルドな看護師さん
    罵倒される側も気の毒だけど
    認知症になって気付かないまま罵倒してる側も
    気の毒に思いました

    背景があいまいなので続きを書くのは大変だったのかもなあ

    Re: TOM-Fさん

    天地神明にかけて誓いますが、今年は、余計な小細工も何もかも捨てて、正面から自分の全力でまっすぐのストレートを投げたつもりだったんです。

    クセ球に見えたら、それは「すっぽ抜け」たんでしょうな(^^;) それともおれはストレートを投げてもナックルボールになってしまうんやろか(^^;)

    Re: もぐらさん

    いらっしゃいませ。ご感想ありがとうございます。

    そうですね。虚無と絶望を抱えてこの文を読んだ時の感想と、ハッピー全開でこの文を読んだ時の感想は違ってきますね。

    解釈次第では、前のコメントにも書いたように、ラブラブ夫婦のちょっとしたすれ違いからこういうことになるので遠慮せずに早いうちにいいたいことをいおう、って教訓小節にも読めますからなあ……。

    Re: blackoutさん

    いや、この主人公の男、完全に奥さんにめろめろですよ。

    どちらかといえば、奥さんの方がちょっと遠慮しすぎたのかもしれませんな。元気なうちにひとこと「あなた、大学にいるほうが素敵よ」っていってたら、この主人公、天職である看護師をあきらめるか副業にして、大学教授になっていたんじゃないかと思われます。

    奥さんも奥さんで、「こんなすごい人が世間から顧みられないのはくやしい! くやしい!」って思いを延々とため込んだ結果の発病でしょうから、この人もこの人でご主人にいかれてて。

    世の中とは無常なものであります。

    Re: 山西 サキさん

    日ごろの行いを反省してド直球のストレートを全力で投げてみたつもり、といっても、信じてもらえないだろうなあ、と体のどこかに変なアセをかいている今日である(^^;)

    おれの病気が悪化したのだろうか(^^;)

    NoTitle

    執筆、お疲れさまでした。

    男ひとり冬山へ旅を続けている主人公、人生に疲れた、というより、十五年前に妻とともに人生を終えてしまったような感じがします。空蝉のような主人公の目には、山の風景も、宿の若い娘も、なにも映らないのでしょう。
    いち小説として読めば、人生の黄昏時を迎えたさびしい男の姿を描いた作品、というところですが、これ八少女夕さんへの出題編ですよね。あいかわらずのクセ球だなぁ、と感心しました。

    NoTitle

    はじめまして。
    さとる文庫のもぐらと申します。

    文章の余白が心に触れる文章ですね。
    読む人によって変わるというか、読む人の心を映す文章ですね。

    NoTitle

    結婚は義務ではない
    好きになれない相手とするべきではない

    って思うのは自分だけじゃないかと

    そして、自分の家族にも、この手の連中がそれなりにいるので、今回のは他人事じゃない感じですな(汗)

    NoTitle

    凍てついた冬山、ひなびた宿、安ブランデー、パンと硬いチーズ、看護学博士、終末期看護、ポールさんらしいといえばらしい設定ですが、なんともやりきれない・・・。
    5日間もこんなところで過ごしたらどうにも病んでしまいそうです。
    しかも繰り返し繰り返し、15年も・・・。
    認知症、人間の脳の構造に驚きばかりを感じてしまう病気ですが、どの部分が衰えるかで人によって症状が全く異なるというのも厄介です。
    こんなどこへ向かっているか分からない謎だらけの文章、天下一品だなぁ。
    ・・・で、これだけ盛れるだけ盛っておいて夕さんにポイですか?
    ポールさんもなかなか酷いや(分かっていたけど)。

    Re: 八少女 夕さん

    「愛した妻ひとり喜ばせることができなくてなにが天職だ。それっておれのエゴじゃないのか」って葛藤と日夜格闘してる男ですから。

    十年以上の時間を自分の中で昇華するには、山とでも向き合って孤独な対話をするしかないのかもしれません。いってみればハデスとの対話かなあ。

    NoTitle

    亡くなった奥さんは、図らずも亡くなる前にご自分の意見を表明することになりましたが、そういう事情でもなかったら、全くお互いにわかり合うこともなく、長い人生を同居し続けることになったのかなあと、考えてしまいました。

    主人公は、天職に身を捧げ、連れ合いをきちんと看取り、その方の罵詈雑言から解放されて、もう少し満たされていてもいいのではと思うのは、やはり縁もゆかりもない他人の感想ということになるのでしょうか。

    ウィンタースポーツおたく以外には、冬の山は滅入ります。心ゆくまで滅入るために、ここに通っているのかなあと考えてしまいました。
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