哲学者になれなかった男の語る哲学夜話
スピノザ「神学政治論」を思い返して
やっぱりスピノザは正しい。
祈りと信仰は真理に迫る手段でもなければスーパーナチュラルな力を持っているわけでもない、完全なるフィクションであるがゆえに、祈りと信仰がメジャーな世界は合理的な判断のみによって人が動く社会よりもより効率的に動くのだ。
「囚人のパラドックス」という思考実験がわれわれに教えてくれるのはまさにそういうパラドックスとしての真理である。
祈りと信仰は真理に迫る手段でもなければスーパーナチュラルな力を持っているわけでもない、完全なるフィクションであるがゆえに、祈りと信仰がメジャーな世界は合理的な判断のみによって人が動く社会よりもより効率的に動くのだ。
「囚人のパラドックス」という思考実験がわれわれに教えてくれるのはまさにそういうパラドックスとしての真理である。
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NoTitle
ムイミ「
おっしゃる通り私には欺瞞や矛盾にしか思えませんし
現代において宗教が力を失いつつあるのは
そのフィクション性がはっきり明るみに出たことが大きく
『フィクションと確信しながら信じる』というのが
非現実的な空論である証拠と思われますが
主張自体は理解しました
ご教授ありがとうございました」
おっしゃる通り私には欺瞞や矛盾にしか思えませんし
現代において宗教が力を失いつつあるのは
そのフィクション性がはっきり明るみに出たことが大きく
『フィクションと確信しながら信じる』というのが
非現実的な空論である証拠と思われますが
主張自体は理解しました
ご教授ありがとうございました」
- #20986 ダメ子
- URL
- 2020.03/15 09:08
- ▲EntryTop
Re: ダメ子さん
スピノザは、「神学政治論」で、徹底して「神学と哲学は完全に無関係だ」ということを主張し続けています。「哲学の目的はもっぱら真理のみであり、これに反して信仰の目的は、これまで十分示したように、服従と敬虔以外のなにものでもない。次に哲学は共通概念を基礎としもっぱら自然からのみ導き出されねばならないが、これと反対に信仰は、物語と言語を基礎としもっぱら聖書と啓示とからのみ導き出されねばならない」と明快に「神学政治論」で述べています。「なんらの相互関係もなんらの親近関係もない」とまでいってます。無関係である以上、科学を含む自然哲学から見て事実性が存在しなかったとしても、「神学はそれ自体で正しいことを主張している」と考えることに矛盾は生じません。スピノザは、「神学政治論」をどのようなつもりで書いていたかはわかりませんが、「哲学的な真理」に接近するための本として書いていたのではないことは確かであると思われます。
上野修はスピノザの主張を簡潔にこのようにまとめています。
啓示宗教は真理を教えない。
信仰は無知であってかまわない。
よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。
そして、「神学政治論」を素直に読んでいくと、たしかにスピノザはこう主張しているとしか考えられないのです。
デカルト主義者たちは読み取ったこの主張に欺瞞を感じました。ダメ子さんと同様にです。彼らにとっては「信じるべきではないが信じよ」というダブルバインドでしかなかったでしょう。
しかし、スピノザにとっては、すべてが自然法則たる神の内部法則の中で起こることであり、「自然の業」である物理法則が自然の中にあらわれるのと同様、宗教もまた自然とはまた別な形の法則が「自然の業」として人間集団の中にあらわれたもの、と考えていたようです。書簡からは、その法則の理想的な形が最も理想的な形であらわれていたのがイエス・キリストであり、スピノザは神が受肉したなどとはまったく信じていないものの、受肉を疑うくらいのことで値引きされるようであったら永遠の知恵などとはいわない、と思っていたらしいことがうかがえます。
スピノザはほんと何の躊躇もなく宗教を肯定します。聖書は敬虔の正しい文法を教え、敬虔は共同体の維持に不可欠です。キリストや預言者が説いたのも平和と敬虔である以上、聖書を擁護しないどんな理由もありません。ということで、真理を知る者は宗教と信仰を、全面的に肯定する、というわけです。それを徹底的に「証明」した試みが、「神学政治論」です。
上野修はスピノザの主張を簡潔にこのようにまとめています。
啓示宗教は真理を教えない。
信仰は無知であってかまわない。
よって、真理を知る者は宗教と信仰を肯定する。
そして、「神学政治論」を素直に読んでいくと、たしかにスピノザはこう主張しているとしか考えられないのです。
デカルト主義者たちは読み取ったこの主張に欺瞞を感じました。ダメ子さんと同様にです。彼らにとっては「信じるべきではないが信じよ」というダブルバインドでしかなかったでしょう。
しかし、スピノザにとっては、すべてが自然法則たる神の内部法則の中で起こることであり、「自然の業」である物理法則が自然の中にあらわれるのと同様、宗教もまた自然とはまた別な形の法則が「自然の業」として人間集団の中にあらわれたもの、と考えていたようです。書簡からは、その法則の理想的な形が最も理想的な形であらわれていたのがイエス・キリストであり、スピノザは神が受肉したなどとはまったく信じていないものの、受肉を疑うくらいのことで値引きされるようであったら永遠の知恵などとはいわない、と思っていたらしいことがうかがえます。
スピノザはほんと何の躊躇もなく宗教を肯定します。聖書は敬虔の正しい文法を教え、敬虔は共同体の維持に不可欠です。キリストや預言者が説いたのも平和と敬虔である以上、聖書を擁護しないどんな理由もありません。ということで、真理を知る者は宗教と信仰を、全面的に肯定する、というわけです。それを徹底的に「証明」した試みが、「神学政治論」です。
NoTitle
ムイミ「
それはおかしいです
例えばスピノザで考えれば
『キリスト教はフィクションであるが~』と主張している以上
宗教は科学的(当時で言うならば理性的に)偽であると
断言していることになります
『理性的に真であるもの』と『理性的に偽であるもの』が存在し
『キリスト教は後者であるが別の理由により価値がある』
と言うのがスピノザの主張であるとするならば
その二つを同一視するのは明らかに変です
また私が重要視しているのは解釈の妥当性の話ではなく
(スピノザ個人がどう思っていたかはあまり関心はないです)
その解釈された思想そのものがどれだけ現実をとらえているか
という真理に対する科学的な妥当性です
スピノザは宗教の本質を理解していなかったように思います」
それはおかしいです
例えばスピノザで考えれば
『キリスト教はフィクションであるが~』と主張している以上
宗教は科学的(当時で言うならば理性的に)偽であると
断言していることになります
『理性的に真であるもの』と『理性的に偽であるもの』が存在し
『キリスト教は後者であるが別の理由により価値がある』
と言うのがスピノザの主張であるとするならば
その二つを同一視するのは明らかに変です
また私が重要視しているのは解釈の妥当性の話ではなく
(スピノザ個人がどう思っていたかはあまり関心はないです)
その解釈された思想そのものがどれだけ現実をとらえているか
という真理に対する科学的な妥当性です
スピノザは宗教の本質を理解していなかったように思います」
- #20983 ダメ子
- URL
- 2020.03/14 20:58
- ▲EntryTop
Re: ダメ子さん
その通りです。スピノザが叩かれて有害図書としてほかならぬオランダ共和国政府から発禁処分にされ、そのことをデカルト主義者のほぼ大半が黙認した理由がまさにそれです。
そうであるからこそスピノザは真摯に宗教を守ろうとしたのであることをわたしは確信していますし、それがゆえにスピノザを支持します。
わたしはスピノザの思想を事実性はともかくとして実践哲学として支持しますし、スピノザ思想の事実性は「科学」では証明も反証も不可能であることも理解しています。
ダメ子さんも、妥当だと思えば受容すればいいし、妥当でないと思えば拒否すればいいのです。人間は誰も真理に対して十全な認識をすることは不可能です。スピノザ思想は真理に対する不十全な認識に基づいたひとつの解釈にすぎません。わたしもスピノザ思想よりも妥当かもしれない現実解釈が出たら乗り換えるなり妥当性がほんとうに妥当なのか吟味するなりするでしょう。それは相対性理論が真理に対する不十全な認識に基づいたひとつの解釈であるのと本質的に同様です。
少なくともわたしは真理に対する不十全な認識のもとでそう解釈しています。
そうであるからこそスピノザは真摯に宗教を守ろうとしたのであることをわたしは確信していますし、それがゆえにスピノザを支持します。
わたしはスピノザの思想を事実性はともかくとして実践哲学として支持しますし、スピノザ思想の事実性は「科学」では証明も反証も不可能であることも理解しています。
ダメ子さんも、妥当だと思えば受容すればいいし、妥当でないと思えば拒否すればいいのです。人間は誰も真理に対して十全な認識をすることは不可能です。スピノザ思想は真理に対する不十全な認識に基づいたひとつの解釈にすぎません。わたしもスピノザ思想よりも妥当かもしれない現実解釈が出たら乗り換えるなり妥当性がほんとうに妥当なのか吟味するなりするでしょう。それは相対性理論が真理に対する不十全な認識に基づいたひとつの解釈であるのと本質的に同様です。
少なくともわたしは真理に対する不十全な認識のもとでそう解釈しています。
NoTitle
ムイミ「
内容自体はおおむね理解したつもりです
この解釈は妥当と感じましたし仮にその通りとしましょう
ですがその主張自体には賛同できません
宗教は真実であると信じること
そこまで強いものではなくても、そうであるかもしれない
そうであったら好ましい嬉しいという気持ち
それが本質であると考えるからです
フィクションであると断言されたならば
スピノザのような特殊な人間はともかく
多くの人間は怒るか信じるのをやめるかすると思います
スピノザのやっていることは
清純アイドルのスキャンダル写真を見せびらかして
『清純なんてフィクションだけどファンを続けよう』
と主張するのと同じようなものに見えます
アンチ扱いされるのは当然ではないでしょうか」
内容自体はおおむね理解したつもりです
この解釈は妥当と感じましたし仮にその通りとしましょう
ですがその主張自体には賛同できません
宗教は真実であると信じること
そこまで強いものではなくても、そうであるかもしれない
そうであったら好ましい嬉しいという気持ち
それが本質であると考えるからです
フィクションであると断言されたならば
スピノザのような特殊な人間はともかく
多くの人間は怒るか信じるのをやめるかすると思います
スピノザのやっていることは
清純アイドルのスキャンダル写真を見せびらかして
『清純なんてフィクションだけどファンを続けよう』
と主張するのと同じようなものに見えます
アンチ扱いされるのは当然ではないでしょうか」
- #20981 ダメ子
- URL
- 2020.03/14 18:19
- ▲EntryTop
NoTitle
スピノザは、キリスト教による世界の安定を切り捨てたりしたことは一度もありません。キリスト教が迷信化して、世界の安定と自由を破壊することは、民衆によるヤン・デ・ウィット兄 弟の虐殺事件に対し、抗議のビラを貼ろうとしていたところをスピノザの身を案じた下宿先の主人に身体をはって止められた、という逸話でもわかるようにかねてより懸念していましたが、同時に、下宿のおかみさんからいまのまま信仰を続けて幸福になれるか問われたとき、「あなたの宗教は立派です。あなたは静かに信心深い生活に専念なさりさえすれば、幸福になるために何も他の宗教を求めるには及びません」と答えたという逸話のある通り、宗教が迷信化せず、平和と安定と自由に対立しなければ、宗教は有用だと考えていたようです。
次に、スピノザは、自分の考えている哲学的真理でもって、安定した世界を破壊しようなどとはまったく考えたこともないと思われます。スピノザの「神学政治論」を批判したのは、神学者よりも、むしろ当時の最先端の思想であるデカルト哲学を武器に教会に対し哲学することの自由を主張していたデカルト主義者たちが大半でしたが、そのデカルト主義者たちのなかでもリベラルな共和制を支持するデカルト主義者であったファン・フェルトホイゼンから、神学政治論という書物は「すべての礼拝と宗教を除去し、これを根底からくつがえし、ひそかに無神論を導き入れるもの」「著者は遠回しのもっともらしい諸根拠によって、純然たる無神論を説くもの」という非難を受けたときには、「この人は私のいいたいことをまったくあべこべにとっている」「いったいそういうことを悪意でやっているのか無知でやっているのか私にはわかりません」と、ショックまるだしの書簡を残しています。
キリスト教がフィクションであるというのは、スピノザにとっては「聖書において書かれた『神』というものの存在の事実性」についてはまったく信じていないけれど、聖書の説く倫理の正しさは積極的に受け入れる、という態度です。『聖書の人格神』は存在しませんが、『人格神というフィクション』を信じて公正な統治が行われていた時代があるという事実は存在するし、『人格神というフィクション』を信じて公正な統治ができれば、それはキリスト教でもユダヤ教でもイスラム教だってかまわない、というのがスピノザが「神学政治論」で主張したかったことのひとつです。その『人格神というフィクション』を、迷信に陥らないように維持して行くにはどうしたらいいか、という考察において、公正を維持していくうえで必要不可欠な、いわば『公正な統治を可能とならしめるための宗教の文法』とでもいうべき要素が、神学政治論中に出てくる『普遍的信仰の教義』七箇条です。
ぶっちゃけいってしまえば、自分の思想を他者に伝えるというところで、スピノザはダブルスタンダードの立場をとっています。スピノザは自分の思想が『民衆』に理解される日がくるなどとは思ってもいません。終始『民衆が「迷信」によって暴徒化する』ことの可能性を危険視しながらも、なおかつそうした暴徒化によって民衆が民衆自身を傷つけないようにするにはどうしたらよいか、という問題意識がスピノザにはあります。真理は『エチカ』で書かれている通りに『神即自然』の『意志もなければ知性もない内的必然性だけで動く神』ですが、人間が人間社会を円滑にかつ公正に動かすには、『真理』が万人の共有認識である必要はない、とスピノザは考えていたようです。そういう意味で、『聖書と宗教は真理に近づく手段ではまったくない』ですが、『聖書なり宗教なりの述べていることは正しい』のです。
わたしはそういう解釈です。
次に、スピノザは、自分の考えている哲学的真理でもって、安定した世界を破壊しようなどとはまったく考えたこともないと思われます。スピノザの「神学政治論」を批判したのは、神学者よりも、むしろ当時の最先端の思想であるデカルト哲学を武器に教会に対し哲学することの自由を主張していたデカルト主義者たちが大半でしたが、そのデカルト主義者たちのなかでもリベラルな共和制を支持するデカルト主義者であったファン・フェルトホイゼンから、神学政治論という書物は「すべての礼拝と宗教を除去し、これを根底からくつがえし、ひそかに無神論を導き入れるもの」「著者は遠回しのもっともらしい諸根拠によって、純然たる無神論を説くもの」という非難を受けたときには、「この人は私のいいたいことをまったくあべこべにとっている」「いったいそういうことを悪意でやっているのか無知でやっているのか私にはわかりません」と、ショックまるだしの書簡を残しています。
キリスト教がフィクションであるというのは、スピノザにとっては「聖書において書かれた『神』というものの存在の事実性」についてはまったく信じていないけれど、聖書の説く倫理の正しさは積極的に受け入れる、という態度です。『聖書の人格神』は存在しませんが、『人格神というフィクション』を信じて公正な統治が行われていた時代があるという事実は存在するし、『人格神というフィクション』を信じて公正な統治ができれば、それはキリスト教でもユダヤ教でもイスラム教だってかまわない、というのがスピノザが「神学政治論」で主張したかったことのひとつです。その『人格神というフィクション』を、迷信に陥らないように維持して行くにはどうしたらいいか、という考察において、公正を維持していくうえで必要不可欠な、いわば『公正な統治を可能とならしめるための宗教の文法』とでもいうべき要素が、神学政治論中に出てくる『普遍的信仰の教義』七箇条です。
ぶっちゃけいってしまえば、自分の思想を他者に伝えるというところで、スピノザはダブルスタンダードの立場をとっています。スピノザは自分の思想が『民衆』に理解される日がくるなどとは思ってもいません。終始『民衆が「迷信」によって暴徒化する』ことの可能性を危険視しながらも、なおかつそうした暴徒化によって民衆が民衆自身を傷つけないようにするにはどうしたらよいか、という問題意識がスピノザにはあります。真理は『エチカ』で書かれている通りに『神即自然』の『意志もなければ知性もない内的必然性だけで動く神』ですが、人間が人間社会を円滑にかつ公正に動かすには、『真理』が万人の共有認識である必要はない、とスピノザは考えていたようです。そういう意味で、『聖書と宗教は真理に近づく手段ではまったくない』ですが、『聖書なり宗教なりの述べていることは正しい』のです。
わたしはそういう解釈です。
NoTitle
ムイミ「
スピノザが無神論であろうとなんらかの神を信じていようと
目の前の『キリスト教というフィクションによる社会の安定』を
否定していたことには変わらないと思います
(仮にそれを肯定していたとすれば自分の著作によって
それを破壊するというとんでもない行いをしていることになる)
またもしキリスト教というフィクションを否定しながら
古代ヘブライのフィクションを肯定しているのであれば
それはダブルスタンダードではないでしょうか?」
スピノザが無神論であろうとなんらかの神を信じていようと
目の前の『キリスト教というフィクションによる社会の安定』を
否定していたことには変わらないと思います
(仮にそれを肯定していたとすれば自分の著作によって
それを破壊するというとんでもない行いをしていることになる)
またもしキリスト教というフィクションを否定しながら
古代ヘブライのフィクションを肯定しているのであれば
それはダブルスタンダードではないでしょうか?」
- #20978 ダメ子
- URL
- 2020.03/14 13:57
- ▲EntryTop
Re: ダメ子さん
まず、この「前書き」は前半部分を訳したところで切断されている、ということを指摘せねばなりませんし、そのうえで、かなり恣意的な訳文になっているのではないかと思います。
また、吉田氏の解釈の解釈を読んだわけではないのではっきりとはいえませんが、ダメ子さんの解釈は、多分に「神学・政治論」という書物を戦闘的な無神論を説くもの、としているようですね。しかし、素直に読んでいくと、それとはまるっきり逆なことを主張している本だ、という印象をわたしは受けます。
もちろん、レオ・シュトラウスの解釈のように、スピノザのその書き方は無神論者が無神論を説くための偽装であり、読者はスピノザの発言の裏を読み取っていくべきだ、というものもあります。それは解釈の範囲内です。
しかし、スピノザが、真剣に、古代ヘブライ人の神聖国家の分析などを行っている様子を見れば(そこでスピノザが描き出しているのが、まさに「フィクションとしての神を皆が信じることにより世の中が効率的にかつ平和に動いている社会」であることを考え合わせると)、スピノザは本書でストレートに自分の宗教観を、当時のデカルト主義者たちに対して(スピノザは「前書き」の後半部で、「わたしのこの本は民衆には絶対読んでほしくない」と書いている)説いているように思えます。
わたしのこの解釈は、上野修「スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか」(NHK出版)の解釈に依るものが大きいので、そちらを読まれた方がいいかもしれません。
吉田氏の光文社文庫版が、たしか土浦市立図書館にもあったはずなので、吉田氏の解釈も、このコロナ禍が収まったら読んでみようと思います。
また、吉田氏の解釈の解釈を読んだわけではないのではっきりとはいえませんが、ダメ子さんの解釈は、多分に「神学・政治論」という書物を戦闘的な無神論を説くもの、としているようですね。しかし、素直に読んでいくと、それとはまるっきり逆なことを主張している本だ、という印象をわたしは受けます。
もちろん、レオ・シュトラウスの解釈のように、スピノザのその書き方は無神論者が無神論を説くための偽装であり、読者はスピノザの発言の裏を読み取っていくべきだ、というものもあります。それは解釈の範囲内です。
しかし、スピノザが、真剣に、古代ヘブライ人の神聖国家の分析などを行っている様子を見れば(そこでスピノザが描き出しているのが、まさに「フィクションとしての神を皆が信じることにより世の中が効率的にかつ平和に動いている社会」であることを考え合わせると)、スピノザは本書でストレートに自分の宗教観を、当時のデカルト主義者たちに対して(スピノザは「前書き」の後半部で、「わたしのこの本は民衆には絶対読んでほしくない」と書いている)説いているように思えます。
わたしのこの解釈は、上野修「スピノザ 「無神論者」は宗教を肯定できるか」(NHK出版)の解釈に依るものが大きいので、そちらを読まれた方がいいかもしれません。
吉田氏の光文社文庫版が、たしか土浦市立図書館にもあったはずなので、吉田氏の解釈も、このコロナ禍が収まったら読んでみようと思います。
NoTitle
ムイミ「
キリスト教による社会の安定よりも正しさを重視して
キリスト教を批判したスピノザやニーチェの態度は
それとは真逆のものと思います
「神学政治論」の前書きがここで試し読みできますが
https://booklive.jp/product/index/title_id/290708/vol_no/001
訳者の解説でも一つの宗教を信じる安定は間違いだというのが
スピノザの主張と書かれています」
キリスト教による社会の安定よりも正しさを重視して
キリスト教を批判したスピノザやニーチェの態度は
それとは真逆のものと思います
「神学政治論」の前書きがここで試し読みできますが
https://booklive.jp/product/index/title_id/290708/vol_no/001
訳者の解説でも一つの宗教を信じる安定は間違いだというのが
スピノザの主張と書かれています」
- #20976 ダメ子
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- 2020.03/14 10:10
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Re: ダメ子さん
そういった人たちが、スピノザのように、「宗教がフィクションに立脚したものであることを理解しながらもその倫理と行動を認めて社会に受け入れる」という立場を取ってくれたら、宗教戦争は全廃され、われわれ人類はもうちょっとマシな社会を築いていたのではないかと思います。
それがマシな社会かどうかは、解釈の問題でしかないですが……。