その他いろいろ
見逃された道 イスフェークへの落穂拾い
昨日は高槻氏の評論についてのアイデアが沸いたので、興奮して小論を一気書きしてしまいました。
よって今日の「範子と文子の三十分一本勝負」はお休みいたします。
高槻真樹氏の評論「文字のないSF ―イスフェークを探して」は、非常にスリリングな論文であった。そこでは、文字のないSFの可能性の地平が、細大漏らさず縦横に語られていた……ひとつの例外を除いて。
筆者は、高槻氏が見過ごしてしまったひとつの裏道、「ゲーム」について語ることにしたい。それが、普通の人よりいくらか多くゲームをプレイしている者にとっての義務であろうからだ。
まず、文字のないSFの規定と可能性についてであるが、この評論において、高槻氏はひとつの論点先取を行なっている。それは、『「文字のないSF」の構造が、そのまま「文字のある、小説やマンガとしてのSF」の構造と同等のものでなくてはならない』、というドグマにほかならない。せっかく、無声映画まで持ち出してSFの新たな可能性を求めているにもかかわらず、そのドグマに呪縛され、自ら可能性の芽を潰しているのである。
では、通常のSFよりも、「文字のないSF」としての絵画や映画により適していると思われる可能性の芽とは何か?
筆者はそれに、「参加すること」であると答える。「読み手」――ここはもっと拡大されてしかるべきだが、筆者はあえて「読み手」と書く――は、ただ単に受け身になっているのではなく、「絵」を読み解き、そこに「参加する」のだ!
まことに惜しいことだと思うのだが、高槻氏は絵を「読み解く」ことの重要性までは理解していたものの、『文字のあるSF』にとらわれ、「参加する」というヴィジョンを無視していたのである。
では、読み手が「参加する」とはいかなることか?
筆者は、ひとつの古典的(そう、すでに「古典的」なのである)事例を挙げることにしたい。
「ゼビウス」。
読者は、おいブリッツ、真面目に答えろ、というかもしれない。
あいにくと、筆者は真面目である。ふざけたことを書くときですら真面目にふざける。
よく考えてみられたい。
「ゼビウス」の得点表示や、ソルバルウの残機数などといった「文字」を全て隠してゲームをしてみたまえ。そこに展開されている光景は、「SF」以外のいったいいかなるものであるか!
作者の意図したことやメッセージを読み解くことができない、というのか?
要所要所に隠されたソルやスペシャルフラグを発見するのはさておいても、敵の攻撃パターンを見抜き、それ以上の機動を取ることによって難所をひとつひとつ突破していくのは「作者の意図の積極的読解」といって不足はないはずだ。
センス・オブ・ワンダーということについては、初見のものにとっては「アンドアジェネシス」の存在はまさにセンス・オブ・ワンダーそのもののはずだ。ある意味「リングワールド」を見るのと同等、もしくは凌駕するだけのセンス・オブ・ワンダーがあると断言して筆者ははばからない。
そしてなにより重要なことは、「ゼビウス」から得点表示や残機数、もしくは「ゲームオーバー」などといった画面の文字表示を除いても、本質的なところで「楽しむ」ためにはまったく支障がない、という事実である。
「文字のないSF」は四半世紀前にひとつの到達点を迎えていたのである。いや、すでに、「浸透と拡散」すら終えていたのだ。
ここから、まだ可能性の途上にある「文字のないSF」の可能性限界を想起することもたやすいであろう。それは文字や言葉のない「バーチャルリアリティ」としての電脳空間でのゲームに行き着くはずである。しかしそうしたものについては、筆者のような浅学菲才のものが語らずとも、多くの識者が語るであろう。
それが果たして面白くて興味深いゲームになるかどうかは、筆者の想像の埒外である。
だが、と、高槻氏はいうであろう。
一枚の固定された絵、もしくはその連なりから、作者のSF的意図やメッセージを読み取ることに対して、「参加」することが可能なゲームは存在するのか、と。
残念ながら、筆者もそれに対する完全なヴィジョンは持っていない。
しかしながら、それについて寄与ないし重大な示唆を与える部分があるであろうと筆者が考える、いくつかの野心的なボード(カード)ゲームを取り上げて、この小論を終わりにしたい。
「DIXIT」http://www.amazon.co.jp/Asmodee-200706-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%88-DIXIT/dp/B001OH9EDW
ゲームとしては一種のレースゲームに分類される。レースゲームとはスゴロクのことである。先にゴールに着いたものが勝利というわけだ。
しかし、このゲームの本当の魅力はそのようなところにない。
ゲームの進め方について説明する。
プレイヤーは各人、数枚のカードを持つ。そのカードには、一枚一枚、童話の一場面のような様々な絵が描いてある。
まず、その回の親となったプレイヤーは手札を一枚伏せて出し、「そのカードを表している言葉」(それは、単純な単語一語でもいいし、複雑な文章でもいい)をいう。子となったほかのプレイヤーは、親の発言に沿うようなカードを手札から選び、同様に伏せて出す。
全員がカードを出し終わったところで、親はよくカードを切り、自分の前におもてにして並べる。子のプレイヤーは、その並べられたカードの中から、「親が出したもの」を推理し、それを選んで賭ける。
子のプレイヤーのうち、親のカードを選べたプレイヤーと、自分の出したカードを他の子プレイヤーが選んでいたプレイヤーは(他のプレイヤーを騙せたプレイヤーということである)、それぞれルールに従ってコマを進める。
親のプレイヤーは、基本的にコマを進めるのだが、他のプレイヤーが全員自分のカードを選ばなかったり(問題が難しすぎたり)、他のプレイヤーが全員自分のカードを選んだり(問題が易しすぎたり)したときはペナルティがある。
ひと手番が終わったら親を左隣のプレイヤーと交替する。
最初にゴールに着いたペアが勝利である。
親が、いったいどのような論理構造の末にカードを選んだかを推理するのが無性に楽しいゲームである。
入手はまだ易しいゲームのはずである。傑作なのでプレイされることをお奨めする。
「どきどきワクワク相性チェックゲーム」http://ejf.cside.ne.jp/review/compatibility.html
各プレイヤーは二人でペアを組んでゲームに臨む。このゲームも基本的にレースゲームである。
各プレイヤーには、写真や絵や文字の描かれた全員同一、同内容のカード(数十枚に及ぶ)が手札として渡されている。
まず、問題の山から問題カードがめくられる。そこには、いくつかの単語が書いてあり、サイコロを振ってそのひとつを選ぶ。それが今回の問題である。
各プレイヤーは、それぞれペアを組むことになった相手にわからないように、出された問題にぴったり合うと思ったカードを手札から取り出し(コマの場所により二枚から五枚までばらつきがある)、その順位を決め、自分たちの前に裏向きに置く。
全員が置き終わったら、プレイヤーはそれぞれ自分の一位に選んだカードからおもてにしていく。
全部おもてにし終えたとき、選んだカードを一枚ずつ突き合わせ、ペアを組んだ相手と、「順位も内容も合っているカード」一枚ごとに三マス、「内容だけ合っているカード」一枚ごとに二マス、と計算していき、その総計だけコマを進める。
最初にゴールにたどり着いたペアが勝利。
相手の趣味嗜好、それと思考と論理を読み解き、カードを選んでいく行為は、どこかファースト・コンタクトテーマを思わせるものがある。
傑作ゲームではあるが入手は困難である。ヤフオクなどではプレミアまでついているといわれる。
「DARK CULTS」http://www.boardgamegeek.com/boardgame/1784/dark-cults
カードを並べてホラー小説の物語を作っていくゲーム。
基本的に二人用で、善のプレイヤーと悪のプレイヤーに分かれ、ある夜家から外出した男を、善のプレイヤーは可能な限り生き残らせるようにし、悪のプレイヤーは可能な限り殺そうとする。
カードには、ホラーの一場面を描いたおどろおどろしい絵と、短い説明文、それにカードのアイコンがついている。プレイヤーはカードのアイコンの指示に従って、次のカードをつなげていくことから、勝利の方法は数理的に分析できるのであろうが、このゲームにおいて重要なのは得点を得てゲームに勝利することではない。
プレイヤーは、カードを出していくことにより、闇の中をさまよう男を主人公にしたひとつの絵物語を作っていくのだ。これは英語版だったため、当時プレイした筆者は、説明文などほとんど読めずにカードを出していったのであるが、「絵だけでもなにが起こっているのかわかる」のだ。
最終的には順列組み合わせに支配されてしまうだろうが、それでも人間の思考能力にとっては無限といってもいい数の物語が生成されるであろうゲームである。
今となっては入手困難ではあるまいか。
ゲームとSFの幸福なる婚姻を切に願う。
よって今日の「範子と文子の三十分一本勝負」はお休みいたします。
高槻真樹氏の評論「文字のないSF ―イスフェークを探して」は、非常にスリリングな論文であった。そこでは、文字のないSFの可能性の地平が、細大漏らさず縦横に語られていた……ひとつの例外を除いて。
筆者は、高槻氏が見過ごしてしまったひとつの裏道、「ゲーム」について語ることにしたい。それが、普通の人よりいくらか多くゲームをプレイしている者にとっての義務であろうからだ。
まず、文字のないSFの規定と可能性についてであるが、この評論において、高槻氏はひとつの論点先取を行なっている。それは、『「文字のないSF」の構造が、そのまま「文字のある、小説やマンガとしてのSF」の構造と同等のものでなくてはならない』、というドグマにほかならない。せっかく、無声映画まで持ち出してSFの新たな可能性を求めているにもかかわらず、そのドグマに呪縛され、自ら可能性の芽を潰しているのである。
では、通常のSFよりも、「文字のないSF」としての絵画や映画により適していると思われる可能性の芽とは何か?
筆者はそれに、「参加すること」であると答える。「読み手」――ここはもっと拡大されてしかるべきだが、筆者はあえて「読み手」と書く――は、ただ単に受け身になっているのではなく、「絵」を読み解き、そこに「参加する」のだ!
まことに惜しいことだと思うのだが、高槻氏は絵を「読み解く」ことの重要性までは理解していたものの、『文字のあるSF』にとらわれ、「参加する」というヴィジョンを無視していたのである。
では、読み手が「参加する」とはいかなることか?
筆者は、ひとつの古典的(そう、すでに「古典的」なのである)事例を挙げることにしたい。
「ゼビウス」。
読者は、おいブリッツ、真面目に答えろ、というかもしれない。
あいにくと、筆者は真面目である。ふざけたことを書くときですら真面目にふざける。
よく考えてみられたい。
「ゼビウス」の得点表示や、ソルバルウの残機数などといった「文字」を全て隠してゲームをしてみたまえ。そこに展開されている光景は、「SF」以外のいったいいかなるものであるか!
作者の意図したことやメッセージを読み解くことができない、というのか?
要所要所に隠されたソルやスペシャルフラグを発見するのはさておいても、敵の攻撃パターンを見抜き、それ以上の機動を取ることによって難所をひとつひとつ突破していくのは「作者の意図の積極的読解」といって不足はないはずだ。
センス・オブ・ワンダーということについては、初見のものにとっては「アンドアジェネシス」の存在はまさにセンス・オブ・ワンダーそのもののはずだ。ある意味「リングワールド」を見るのと同等、もしくは凌駕するだけのセンス・オブ・ワンダーがあると断言して筆者ははばからない。
そしてなにより重要なことは、「ゼビウス」から得点表示や残機数、もしくは「ゲームオーバー」などといった画面の文字表示を除いても、本質的なところで「楽しむ」ためにはまったく支障がない、という事実である。
「文字のないSF」は四半世紀前にひとつの到達点を迎えていたのである。いや、すでに、「浸透と拡散」すら終えていたのだ。
ここから、まだ可能性の途上にある「文字のないSF」の可能性限界を想起することもたやすいであろう。それは文字や言葉のない「バーチャルリアリティ」としての電脳空間でのゲームに行き着くはずである。しかしそうしたものについては、筆者のような浅学菲才のものが語らずとも、多くの識者が語るであろう。
それが果たして面白くて興味深いゲームになるかどうかは、筆者の想像の埒外である。
だが、と、高槻氏はいうであろう。
一枚の固定された絵、もしくはその連なりから、作者のSF的意図やメッセージを読み取ることに対して、「参加」することが可能なゲームは存在するのか、と。
残念ながら、筆者もそれに対する完全なヴィジョンは持っていない。
しかしながら、それについて寄与ないし重大な示唆を与える部分があるであろうと筆者が考える、いくつかの野心的なボード(カード)ゲームを取り上げて、この小論を終わりにしたい。
「DIXIT」http://www.amazon.co.jp/Asmodee-200706-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%83%E3%83%88-DIXIT/dp/B001OH9EDW
ゲームとしては一種のレースゲームに分類される。レースゲームとはスゴロクのことである。先にゴールに着いたものが勝利というわけだ。
しかし、このゲームの本当の魅力はそのようなところにない。
ゲームの進め方について説明する。
プレイヤーは各人、数枚のカードを持つ。そのカードには、一枚一枚、童話の一場面のような様々な絵が描いてある。
まず、その回の親となったプレイヤーは手札を一枚伏せて出し、「そのカードを表している言葉」(それは、単純な単語一語でもいいし、複雑な文章でもいい)をいう。子となったほかのプレイヤーは、親の発言に沿うようなカードを手札から選び、同様に伏せて出す。
全員がカードを出し終わったところで、親はよくカードを切り、自分の前におもてにして並べる。子のプレイヤーは、その並べられたカードの中から、「親が出したもの」を推理し、それを選んで賭ける。
子のプレイヤーのうち、親のカードを選べたプレイヤーと、自分の出したカードを他の子プレイヤーが選んでいたプレイヤーは(他のプレイヤーを騙せたプレイヤーということである)、それぞれルールに従ってコマを進める。
親のプレイヤーは、基本的にコマを進めるのだが、他のプレイヤーが全員自分のカードを選ばなかったり(問題が難しすぎたり)、他のプレイヤーが全員自分のカードを選んだり(問題が易しすぎたり)したときはペナルティがある。
ひと手番が終わったら親を左隣のプレイヤーと交替する。
最初にゴールに着いたペアが勝利である。
親が、いったいどのような論理構造の末にカードを選んだかを推理するのが無性に楽しいゲームである。
入手はまだ易しいゲームのはずである。傑作なのでプレイされることをお奨めする。
「どきどきワクワク相性チェックゲーム」http://ejf.cside.ne.jp/review/compatibility.html
各プレイヤーは二人でペアを組んでゲームに臨む。このゲームも基本的にレースゲームである。
各プレイヤーには、写真や絵や文字の描かれた全員同一、同内容のカード(数十枚に及ぶ)が手札として渡されている。
まず、問題の山から問題カードがめくられる。そこには、いくつかの単語が書いてあり、サイコロを振ってそのひとつを選ぶ。それが今回の問題である。
各プレイヤーは、それぞれペアを組むことになった相手にわからないように、出された問題にぴったり合うと思ったカードを手札から取り出し(コマの場所により二枚から五枚までばらつきがある)、その順位を決め、自分たちの前に裏向きに置く。
全員が置き終わったら、プレイヤーはそれぞれ自分の一位に選んだカードからおもてにしていく。
全部おもてにし終えたとき、選んだカードを一枚ずつ突き合わせ、ペアを組んだ相手と、「順位も内容も合っているカード」一枚ごとに三マス、「内容だけ合っているカード」一枚ごとに二マス、と計算していき、その総計だけコマを進める。
最初にゴールにたどり着いたペアが勝利。
相手の趣味嗜好、それと思考と論理を読み解き、カードを選んでいく行為は、どこかファースト・コンタクトテーマを思わせるものがある。
傑作ゲームではあるが入手は困難である。ヤフオクなどではプレミアまでついているといわれる。
「DARK CULTS」http://www.boardgamegeek.com/boardgame/1784/dark-cults
カードを並べてホラー小説の物語を作っていくゲーム。
基本的に二人用で、善のプレイヤーと悪のプレイヤーに分かれ、ある夜家から外出した男を、善のプレイヤーは可能な限り生き残らせるようにし、悪のプレイヤーは可能な限り殺そうとする。
カードには、ホラーの一場面を描いたおどろおどろしい絵と、短い説明文、それにカードのアイコンがついている。プレイヤーはカードのアイコンの指示に従って、次のカードをつなげていくことから、勝利の方法は数理的に分析できるのであろうが、このゲームにおいて重要なのは得点を得てゲームに勝利することではない。
プレイヤーは、カードを出していくことにより、闇の中をさまよう男を主人公にしたひとつの絵物語を作っていくのだ。これは英語版だったため、当時プレイした筆者は、説明文などほとんど読めずにカードを出していったのであるが、「絵だけでもなにが起こっているのかわかる」のだ。
最終的には順列組み合わせに支配されてしまうだろうが、それでも人間の思考能力にとっては無限といってもいい数の物語が生成されるであろうゲームである。
今となっては入手困難ではあるまいか。
ゲームとSFの幸福なる婚姻を切に願う。
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Re: ネミエルさん
あまりジャンルにこだわると、昔よくいたマニアみたいに、「お前の小説はSFじゃない!」だの、「そんなファンタジーは邪道だ!」だのと論争以前の口げんかになってしまいかねないので、気にせずにゆるく構えていればいいかと。
自分の小説はジャンルなどを超越した傑作だ、と考えていればたいてい大丈夫であります。