「ショートショート」
ミステリ
アモンティリャードの酒瓶
アモンティリャードがあるんだ、それも極上の、とぼくが話したときのやつの顔は、カメラに撮って残しておくだけの価値がじゅうぶんにあるだろうと思われるものだった。
「アモンティリャードだって?」
アモンティリャードというのは、スペインのアルコールを強化した白ワイン、いわゆるシェリー酒というやつのうち、特殊な方法で長期間熟成させたものを指す。中辛口だが、普通のシェリー酒に比べてはるかに口当たりがいい。
……と、いうことだ。ぼくだって飲んだことはないので。バブル期には日本にも入ってきたそうだけど、そのときは一番安いので四千円以上もしたそうだ。そんな高級酒、しかも極上品なんて、ぼくみたいな貧乏人が買えるわけがない。普通は。
「明野さんか?」
やつは、後ろめたそうな顔をした。明野さんというのは、明野光恵という、照明会社のセールスマンみたいな名前をした、ぼくたちの大学の同期生だ。照明会社ではないが、ちょっとした中堅化学薬品会社の社長令嬢で、色が白くて線が細い、まさに深窓の令嬢という言葉がぴったりくる女の子だ。
やつが後ろめたそうな顔をしたのは、やつの悪癖、ひどいいたずら好きだということが原因のひとつだった。あいつは明野さんに手ひどいいたずら(なにをしたのかは明野さんの心を考えてここには書くまい)をしでかし、そのショックで明野さんは寝込んでしまったのだ。
「ああ。実はね、明野さんは、君に黙って快気祝いをやったんだよ。みんなを集めてビンゴ大会やって、銘酒を配って。ぼくに当たったのが、アモンティリャードだったのさ」
ぼくは用意してきた言葉を述べた。
「それで?」
「明野さんは君を許していないようだけど、一人で銘酒を飲むっていうのもなんだと思ってね。どうだい、いっしょに飲みに行かないか?」
やつは酒好きだ。乗ってこないはずがない。と思ったが、やつは逡巡していた。
「だって、アモンティリャードだろ?」
「アモンティリャードだよ」
やつは不安そうにいった。
「まさか、納骨堂で飲む、なんてことはいわないよな」
「納骨堂? 飲み屋街にあるのか、そんなもの? 大丈夫だ、地下は地下でも、普通のバーだよ。ぼくのなじみのバーテンさんに、飲み頃にしてもらってあるんだ」
結局やつはぼくについてきた。
「なあ、お前……」
街灯の明かりが弱々しい、真っ暗な路地を歩きながら、やつはつぶやいた。
「ポーって知ってるか?」
「萩尾望都のあれかい?」
「違うよ」
やつはいらだたしげにいった。
「エドガー・アラン・ポーの、『アモンティリャードの酒樽』っていう小説だ」
「あのね」
ぼくはうんざりしたように答えた。
「ぼくは、化け学専攻だぜ。そんなイギリスの作家なんて、知るわけないだろ」
「アメリカだ」
やつは訂正した。
「この間、英文学の講義のテキストとして、読んだんだが……嫌味なワイン通の男が、復讐に燃える男に、極上のアモンティリャードの樽酒を飲ませると言葉巧みに地下の納骨堂に誘われて」
「で?」
「生き埋めにされて殺されてしまうんだ……」
「アホかお前。いくら明野さんがお金持ちだっていっても、酒樽を配れるほどじゃないよ。ハーフボトルが一本だけ。それに、バーにはバーテンさんもいるんだぜ。だいたい、生き埋めになんかしたら警察の捜査が来るだろう。まったく、いつもいたずらなんかしているから、そんな妄想が浮かんでくるんだ。そんなことだからな……おい、ここだよ、このビルの地下」
「このビルって」
やつは唖然としたようだった。
「廃ビルじゃないか」
「廃ビルなんていうなよ。ただ単に、地上部分のテナントが、全部出ていっちゃっただけさ。この最近の不況ときたらもう、ひどいもんだ。地下のバーだけが、隠れ家みたいにして細々と営業しているけど、来月には撤退だろうな」
「ちょっとおれ……」
ぼくはやつの身体に外側から手を回した。
「さあ、行こうぜ。アモンティリャードが待っている」
バーは雰囲気がよく出ていた。壁には酒瓶が並び、グラスはぴかぴかに磨かれ、粋な格好をしたバーテンさんが、白いものの混じった頭を僕たちに向けてちらりと下げた。
「いらっしゃいませ」
「ぼくですよ。今日は、例の友達を連れてきました」
「ワインが好きでいらっしゃるかたですね」
やつはきょろきょろと落ちつかなげに周囲を見回していたが、小声で、
「おい……」
といった。
「なに、お前、帰りたいの? アモンティリャードも飲まずに? それはないんじゃないか」
ぼくは、弱い笑いをバーテンさんに向けながらいった。
「なんか、こいつ、調子悪いらしくて。とりあえず、例のボトルをお願いします」
「アモンティリャードですね」
バーテンさんはうなずいた。
「すぐに用意いたします」
ぼくは、ううん、とのびをすると、カウンターの席のひとつに腰を下ろした。
「どうした、お前、来いよ」
「ああ。……おれ、なんか」
うながされるままに隣の席に座ると、おどおどした目で、やつはぼくを見た。
「なんか、あのバーテンさんの顔に、見覚えがあるような気がするんだが」
「へえ! お前、なかなか顔が広いじゃん。この人、昔はどこの店で働いていたんだ? なにも教えてくれないので、気になっていたんだ」
「いや……そういうことじゃなくて」
ぼくは、がっかり、というように肩をすくめた。
「なんだ、違うのか。ところで、バーテンさんがワインの栓を抜くまで、ちょっと時間があるな。すみません、おつまみみたいなの、あります?」
「ございますとも。簡単なものでは、ソルトピーナツなど、いかがでしょうか?」
「じゃあ、それ」
ぼくはバーテンさんが出してくれたピーナツの皿からふた粒ばかりつまみ、口に持っていった。
「うまいぞ。お前も食えよ」
ぽりぽり噛むぼくに、やつはおびえた目を向けた。
「だって、だって、それは……」
「明野さんの好物だったな」
ぼくは声を落とし、しんみりとした口調になった。
「知ってるか? 実は、ぼくは、明野さんと、いい仲だったんだ」
「お前が?」
ぼくは力なく笑った。
「似合わないだろう? だけど、ほんとうの話さ。だから、お前が、明野さんにひどいいたずらをしたときには、そして寝込んでしまったときには、ほんとにお前を殺そうかとまで思いつめたものさ」
やつの顔が真っ青になりつつあった。
「……ごめん」
「なにを謝ることがあるんだ。明野さんは全快したよ。明日にでも大学に戻ってくるさ」
「お待たせいたしました」
バーテンさんは、ぼくたち二人の目の前に、黄金色の液体が注がれた二つのグラスを置いた。
「これが噂のアモンティリャードだぜ。飲もうじゃないか」
やつの取り乱し方は芸術的だった。手をぶるぶる震わせながら、ぐいっとグラスをつかむと、そのまま一気に流し込んだのだ。
「いい飲みっぷりだね。ねえバーテンさん?」
「まったくでございますな」
「どうだい? たまには、バーで飲むワインというのもいいだろう?」
ぼくの言葉に答えず、やつはいきなり立ち上がった。
「お、おお、おれは今日はこのへんで」
「いいじゃないか。まだ酒は残っているし。ワインなんだから、開けたら全部飲まないと失礼というものだぞ」
「お前、一人で飲んでてくれ。じゃ、おれはこれで」
「そんなこというなよ」
ぼくは立ち上がり、ゆっくりとやつの肩に手をかけると、
素早くやつの腕に隠し持ったスタンガンを押し付けてスイッチを入れた!
やつはよろよろっとした。カウンターの奥から飛鳥のような身のこなしで出てきたバーテンさんが、手慣れた手つきでやつの身体を後ろ手に縛った。
「さすがです、十手捕縄術」
「昔取った杵柄だよ。君も入門していれば、スタンガンなどに頼らなくてもよかったのに」
いきなり口調が変わったぼくとバーテンさんの様子に、やつは目を白黒させた。
「あ……あんた、何者だ!」
ぼくはバーテンさんを見た。
「ぼくがいいますか」
「わたしがいおう」
バーテンさんは、静かにいった。
「明野忠人。光恵の父です」
やつの目は恐怖に揺れていた。
ぼくは明野氏に頭を下げた。
「光恵さんは気の毒なことをしました」
「いや、君に危ない橋を渡らせてしまったことのほうをお詫びしよう」
「どういうことだよ! 明野さんは治ったんじゃないのかよ!」
やつはじたばたとしながら叫んだ。
「治っただと……」
ぼくはこれ以上ないほどの暗い目つきでやつをにらんだ。
「明野さんは死んだ。自殺だ」
やつの目が驚愕に見開かれた。
「うそ……ウソだろ!」
「こんなことで嘘をついてどうする。いいか、貴様のいたずらのせいで心を傷つけられた明野さんは、病院から抜け出すと、車道へふらふらと出て行った。折り悪くそこには荷物を満載にした十五トントラックが猛スピードで突っ込んできていた。後はどうなったかわかるな。遺書こそなかったが、ぼくと明野氏は、光恵さんの死を自殺と考えるしかなかった」
やつは目をぱちぱちとしていた。
「それから、ぼくは明野氏に『こうもり』というオペラに誘われ、この計画を打ち明けられた。ヨハン・シュトラウスの作品だ。面白いオペラだったよ。特に、『復讐』ということしか考えられなくなっている人間にとってはな! なんたって、そこで描かれているのは、友人から『こうもり博士』と侮辱されたひとりの男の、復讐劇だったんだからな!」
ぼくは恐ろしげな笑みを浮かべた。
「アモンティリャードの瓶を持ち出したのはぼくのアイデアだ。友人づてに、お前の英文学の授業の予定を耳にしたものでね。恐怖を味わわせるには、少ないほうがいいという話もないしな。お前がポーを持ち出したとき、ぼくは笑いをこらえるのに苦労したものさ」
やつは激しい息を漏らした。
「おれは……おれはどうなる」
「そこから先はわたしが説明しよう」
明野氏は穏やかな口調でいった。
「このビルは、テナントが全て撤退した後のものを、地下だけわたしが買い取った。君みたいな恥ずべき男には、ポーの原作どおり生き埋めがぴったりなのだが、今の日本で生き埋めなんて悠長なことをやったら、警察が出てきて虻蜂取らずになりかねない。それで、君には、同じポーでも『ちんば蛙』の王様の憂き目に遭ってもらう。読んだことは?」
やつは口をぱくぱくさせていた。答えることができなくなったらしい。
ぼくはそれを見ながら、アモンティリャードをなめるように飲んでいた。無上の快味だった。
明野氏は軽く首を振った。
「読んだことがないようだな。そこでは、ヒロインに無道な真似を働いた王とその取り巻きは、身動きができないところに火をかけられて焼き殺されるんだ。うまい具合に、このビルにいるのはわれわれ三名だけだ。火をつけても消そうなどと考えるものはほとんどないだろう。どうかな、これからスペアリブになる気分は」
「あんたら……あんたら、頭がおかしいんだ! だいいち、そんなことをしたら、警察が来るぜ! そうしたら、二人とも、逮捕されて……死刑だ! そう、死刑だよ!」
「死刑にはならない。なぜなら、わたしたちも死ぬからだ」
「光恵さんがいない世界で生きていたって空気と食料の無駄だ、ということで、ぼくと明野氏は意見が一致したんだ。じゃ、ぼくは外へ出てガソリンを取ってきますから、やつのグラスにアモンティリャードの残りを注いでやってください。そのくらいのことはしてやってもいいでしょう。死刑前には最期のご馳走を食べさせるものだというし」
「気がつかなかったな。よし、その点はやっておこう」
ぼくは扉に手をかけ、肩越しにちらりとやつに目をやった。やつは哀願も忘れ、放心状態で涙を流していた。
「安らかに眠れ!」
ポーの小説の有名な結末の文句を叫び、ぼくは扉を開けた。
ぼくは、すぐに一歩下がった。
「みんな来たかね」
明野氏が扉の奥に呼びかけた。ぼくは指を出し、ひいふうみい、と数えた。
やつの瞳が大きく見開かれた。
「全員いますよ。ぼくの友人知人のうち、こいつのいたずらの犠牲者軍団」
やつにもなじみの顔が、みんなにやにやしながらぞろぞろとバーに入ってきた。声をかけられるだけかけたところ、友人知人のほとんどになってしまったが。
その最後尾からは、本日のヒロインが入ってきた。
「明野……さん……?」
「快気祝いさ」
ぼくは笑いをかみ殺しながら答えた。やつの背後に回った明野氏が、ロープをひとひねりでほどいた。あらかじめほどけるように結んでおいたのだ。
「三階のプロジェクターで見ていたけど、すごく面白かったわ。胸のつかえが、すっと晴れた」
明野さんの言葉を補足するために、ぼくは瓶のひとつを指差した。
「カメラがあそことあそこに仕掛けてあったんだ。それから、ぼくのふところには、隠しマイクが。ぼくたちのおしゃべりは、全部、このビルの三階の観客席に直結していたのさ」
ぼくはグラスに残ったアモンティリャードを未練がましく舐め、やつの手を取って立ち上がらせようとした。
「ヨハン・シュトラウスの『こうもり』っていうのは、喜歌劇でね。すべてのいさかいを、シャンパンの泡のように忘れよう、っていう結末が待っているんだよ。まあ、いつもの君のいたずらのお返しって事で……おい? おい?」
「ちょっと」
明野さんがぼくの袖をちょいちょいと引いた。
「この人、気絶してるわよ」
やつはその日、安らかに眠った。眠りすぎた。
寝込んでしまったのだ。
というわけで、ぼくと明野さんは、立ち直った後のやつの復讐を恐れて、戦々兢々としているわけだ。
当分、安らかに眠れ……そうにない。
「アモンティリャードだって?」
アモンティリャードというのは、スペインのアルコールを強化した白ワイン、いわゆるシェリー酒というやつのうち、特殊な方法で長期間熟成させたものを指す。中辛口だが、普通のシェリー酒に比べてはるかに口当たりがいい。
……と、いうことだ。ぼくだって飲んだことはないので。バブル期には日本にも入ってきたそうだけど、そのときは一番安いので四千円以上もしたそうだ。そんな高級酒、しかも極上品なんて、ぼくみたいな貧乏人が買えるわけがない。普通は。
「明野さんか?」
やつは、後ろめたそうな顔をした。明野さんというのは、明野光恵という、照明会社のセールスマンみたいな名前をした、ぼくたちの大学の同期生だ。照明会社ではないが、ちょっとした中堅化学薬品会社の社長令嬢で、色が白くて線が細い、まさに深窓の令嬢という言葉がぴったりくる女の子だ。
やつが後ろめたそうな顔をしたのは、やつの悪癖、ひどいいたずら好きだということが原因のひとつだった。あいつは明野さんに手ひどいいたずら(なにをしたのかは明野さんの心を考えてここには書くまい)をしでかし、そのショックで明野さんは寝込んでしまったのだ。
「ああ。実はね、明野さんは、君に黙って快気祝いをやったんだよ。みんなを集めてビンゴ大会やって、銘酒を配って。ぼくに当たったのが、アモンティリャードだったのさ」
ぼくは用意してきた言葉を述べた。
「それで?」
「明野さんは君を許していないようだけど、一人で銘酒を飲むっていうのもなんだと思ってね。どうだい、いっしょに飲みに行かないか?」
やつは酒好きだ。乗ってこないはずがない。と思ったが、やつは逡巡していた。
「だって、アモンティリャードだろ?」
「アモンティリャードだよ」
やつは不安そうにいった。
「まさか、納骨堂で飲む、なんてことはいわないよな」
「納骨堂? 飲み屋街にあるのか、そんなもの? 大丈夫だ、地下は地下でも、普通のバーだよ。ぼくのなじみのバーテンさんに、飲み頃にしてもらってあるんだ」
結局やつはぼくについてきた。
「なあ、お前……」
街灯の明かりが弱々しい、真っ暗な路地を歩きながら、やつはつぶやいた。
「ポーって知ってるか?」
「萩尾望都のあれかい?」
「違うよ」
やつはいらだたしげにいった。
「エドガー・アラン・ポーの、『アモンティリャードの酒樽』っていう小説だ」
「あのね」
ぼくはうんざりしたように答えた。
「ぼくは、化け学専攻だぜ。そんなイギリスの作家なんて、知るわけないだろ」
「アメリカだ」
やつは訂正した。
「この間、英文学の講義のテキストとして、読んだんだが……嫌味なワイン通の男が、復讐に燃える男に、極上のアモンティリャードの樽酒を飲ませると言葉巧みに地下の納骨堂に誘われて」
「で?」
「生き埋めにされて殺されてしまうんだ……」
「アホかお前。いくら明野さんがお金持ちだっていっても、酒樽を配れるほどじゃないよ。ハーフボトルが一本だけ。それに、バーにはバーテンさんもいるんだぜ。だいたい、生き埋めになんかしたら警察の捜査が来るだろう。まったく、いつもいたずらなんかしているから、そんな妄想が浮かんでくるんだ。そんなことだからな……おい、ここだよ、このビルの地下」
「このビルって」
やつは唖然としたようだった。
「廃ビルじゃないか」
「廃ビルなんていうなよ。ただ単に、地上部分のテナントが、全部出ていっちゃっただけさ。この最近の不況ときたらもう、ひどいもんだ。地下のバーだけが、隠れ家みたいにして細々と営業しているけど、来月には撤退だろうな」
「ちょっとおれ……」
ぼくはやつの身体に外側から手を回した。
「さあ、行こうぜ。アモンティリャードが待っている」
バーは雰囲気がよく出ていた。壁には酒瓶が並び、グラスはぴかぴかに磨かれ、粋な格好をしたバーテンさんが、白いものの混じった頭を僕たちに向けてちらりと下げた。
「いらっしゃいませ」
「ぼくですよ。今日は、例の友達を連れてきました」
「ワインが好きでいらっしゃるかたですね」
やつはきょろきょろと落ちつかなげに周囲を見回していたが、小声で、
「おい……」
といった。
「なに、お前、帰りたいの? アモンティリャードも飲まずに? それはないんじゃないか」
ぼくは、弱い笑いをバーテンさんに向けながらいった。
「なんか、こいつ、調子悪いらしくて。とりあえず、例のボトルをお願いします」
「アモンティリャードですね」
バーテンさんはうなずいた。
「すぐに用意いたします」
ぼくは、ううん、とのびをすると、カウンターの席のひとつに腰を下ろした。
「どうした、お前、来いよ」
「ああ。……おれ、なんか」
うながされるままに隣の席に座ると、おどおどした目で、やつはぼくを見た。
「なんか、あのバーテンさんの顔に、見覚えがあるような気がするんだが」
「へえ! お前、なかなか顔が広いじゃん。この人、昔はどこの店で働いていたんだ? なにも教えてくれないので、気になっていたんだ」
「いや……そういうことじゃなくて」
ぼくは、がっかり、というように肩をすくめた。
「なんだ、違うのか。ところで、バーテンさんがワインの栓を抜くまで、ちょっと時間があるな。すみません、おつまみみたいなの、あります?」
「ございますとも。簡単なものでは、ソルトピーナツなど、いかがでしょうか?」
「じゃあ、それ」
ぼくはバーテンさんが出してくれたピーナツの皿からふた粒ばかりつまみ、口に持っていった。
「うまいぞ。お前も食えよ」
ぽりぽり噛むぼくに、やつはおびえた目を向けた。
「だって、だって、それは……」
「明野さんの好物だったな」
ぼくは声を落とし、しんみりとした口調になった。
「知ってるか? 実は、ぼくは、明野さんと、いい仲だったんだ」
「お前が?」
ぼくは力なく笑った。
「似合わないだろう? だけど、ほんとうの話さ。だから、お前が、明野さんにひどいいたずらをしたときには、そして寝込んでしまったときには、ほんとにお前を殺そうかとまで思いつめたものさ」
やつの顔が真っ青になりつつあった。
「……ごめん」
「なにを謝ることがあるんだ。明野さんは全快したよ。明日にでも大学に戻ってくるさ」
「お待たせいたしました」
バーテンさんは、ぼくたち二人の目の前に、黄金色の液体が注がれた二つのグラスを置いた。
「これが噂のアモンティリャードだぜ。飲もうじゃないか」
やつの取り乱し方は芸術的だった。手をぶるぶる震わせながら、ぐいっとグラスをつかむと、そのまま一気に流し込んだのだ。
「いい飲みっぷりだね。ねえバーテンさん?」
「まったくでございますな」
「どうだい? たまには、バーで飲むワインというのもいいだろう?」
ぼくの言葉に答えず、やつはいきなり立ち上がった。
「お、おお、おれは今日はこのへんで」
「いいじゃないか。まだ酒は残っているし。ワインなんだから、開けたら全部飲まないと失礼というものだぞ」
「お前、一人で飲んでてくれ。じゃ、おれはこれで」
「そんなこというなよ」
ぼくは立ち上がり、ゆっくりとやつの肩に手をかけると、
素早くやつの腕に隠し持ったスタンガンを押し付けてスイッチを入れた!
やつはよろよろっとした。カウンターの奥から飛鳥のような身のこなしで出てきたバーテンさんが、手慣れた手つきでやつの身体を後ろ手に縛った。
「さすがです、十手捕縄術」
「昔取った杵柄だよ。君も入門していれば、スタンガンなどに頼らなくてもよかったのに」
いきなり口調が変わったぼくとバーテンさんの様子に、やつは目を白黒させた。
「あ……あんた、何者だ!」
ぼくはバーテンさんを見た。
「ぼくがいいますか」
「わたしがいおう」
バーテンさんは、静かにいった。
「明野忠人。光恵の父です」
やつの目は恐怖に揺れていた。
ぼくは明野氏に頭を下げた。
「光恵さんは気の毒なことをしました」
「いや、君に危ない橋を渡らせてしまったことのほうをお詫びしよう」
「どういうことだよ! 明野さんは治ったんじゃないのかよ!」
やつはじたばたとしながら叫んだ。
「治っただと……」
ぼくはこれ以上ないほどの暗い目つきでやつをにらんだ。
「明野さんは死んだ。自殺だ」
やつの目が驚愕に見開かれた。
「うそ……ウソだろ!」
「こんなことで嘘をついてどうする。いいか、貴様のいたずらのせいで心を傷つけられた明野さんは、病院から抜け出すと、車道へふらふらと出て行った。折り悪くそこには荷物を満載にした十五トントラックが猛スピードで突っ込んできていた。後はどうなったかわかるな。遺書こそなかったが、ぼくと明野氏は、光恵さんの死を自殺と考えるしかなかった」
やつは目をぱちぱちとしていた。
「それから、ぼくは明野氏に『こうもり』というオペラに誘われ、この計画を打ち明けられた。ヨハン・シュトラウスの作品だ。面白いオペラだったよ。特に、『復讐』ということしか考えられなくなっている人間にとってはな! なんたって、そこで描かれているのは、友人から『こうもり博士』と侮辱されたひとりの男の、復讐劇だったんだからな!」
ぼくは恐ろしげな笑みを浮かべた。
「アモンティリャードの瓶を持ち出したのはぼくのアイデアだ。友人づてに、お前の英文学の授業の予定を耳にしたものでね。恐怖を味わわせるには、少ないほうがいいという話もないしな。お前がポーを持ち出したとき、ぼくは笑いをこらえるのに苦労したものさ」
やつは激しい息を漏らした。
「おれは……おれはどうなる」
「そこから先はわたしが説明しよう」
明野氏は穏やかな口調でいった。
「このビルは、テナントが全て撤退した後のものを、地下だけわたしが買い取った。君みたいな恥ずべき男には、ポーの原作どおり生き埋めがぴったりなのだが、今の日本で生き埋めなんて悠長なことをやったら、警察が出てきて虻蜂取らずになりかねない。それで、君には、同じポーでも『ちんば蛙』の王様の憂き目に遭ってもらう。読んだことは?」
やつは口をぱくぱくさせていた。答えることができなくなったらしい。
ぼくはそれを見ながら、アモンティリャードをなめるように飲んでいた。無上の快味だった。
明野氏は軽く首を振った。
「読んだことがないようだな。そこでは、ヒロインに無道な真似を働いた王とその取り巻きは、身動きができないところに火をかけられて焼き殺されるんだ。うまい具合に、このビルにいるのはわれわれ三名だけだ。火をつけても消そうなどと考えるものはほとんどないだろう。どうかな、これからスペアリブになる気分は」
「あんたら……あんたら、頭がおかしいんだ! だいいち、そんなことをしたら、警察が来るぜ! そうしたら、二人とも、逮捕されて……死刑だ! そう、死刑だよ!」
「死刑にはならない。なぜなら、わたしたちも死ぬからだ」
「光恵さんがいない世界で生きていたって空気と食料の無駄だ、ということで、ぼくと明野氏は意見が一致したんだ。じゃ、ぼくは外へ出てガソリンを取ってきますから、やつのグラスにアモンティリャードの残りを注いでやってください。そのくらいのことはしてやってもいいでしょう。死刑前には最期のご馳走を食べさせるものだというし」
「気がつかなかったな。よし、その点はやっておこう」
ぼくは扉に手をかけ、肩越しにちらりとやつに目をやった。やつは哀願も忘れ、放心状態で涙を流していた。
「安らかに眠れ!」
ポーの小説の有名な結末の文句を叫び、ぼくは扉を開けた。
ぼくは、すぐに一歩下がった。
「みんな来たかね」
明野氏が扉の奥に呼びかけた。ぼくは指を出し、ひいふうみい、と数えた。
やつの瞳が大きく見開かれた。
「全員いますよ。ぼくの友人知人のうち、こいつのいたずらの犠牲者軍団」
やつにもなじみの顔が、みんなにやにやしながらぞろぞろとバーに入ってきた。声をかけられるだけかけたところ、友人知人のほとんどになってしまったが。
その最後尾からは、本日のヒロインが入ってきた。
「明野……さん……?」
「快気祝いさ」
ぼくは笑いをかみ殺しながら答えた。やつの背後に回った明野氏が、ロープをひとひねりでほどいた。あらかじめほどけるように結んでおいたのだ。
「三階のプロジェクターで見ていたけど、すごく面白かったわ。胸のつかえが、すっと晴れた」
明野さんの言葉を補足するために、ぼくは瓶のひとつを指差した。
「カメラがあそことあそこに仕掛けてあったんだ。それから、ぼくのふところには、隠しマイクが。ぼくたちのおしゃべりは、全部、このビルの三階の観客席に直結していたのさ」
ぼくはグラスに残ったアモンティリャードを未練がましく舐め、やつの手を取って立ち上がらせようとした。
「ヨハン・シュトラウスの『こうもり』っていうのは、喜歌劇でね。すべてのいさかいを、シャンパンの泡のように忘れよう、っていう結末が待っているんだよ。まあ、いつもの君のいたずらのお返しって事で……おい? おい?」
「ちょっと」
明野さんがぼくの袖をちょいちょいと引いた。
「この人、気絶してるわよ」
やつはその日、安らかに眠った。眠りすぎた。
寝込んでしまったのだ。
というわけで、ぼくと明野さんは、立ち直った後のやつの復讐を恐れて、戦々兢々としているわけだ。
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~ Comment ~
Re: limeさん
必死こいて勉強するんだけれどそれでもツッコミが来るのが、うんちくの怖いところですよね(^^)
でもそれもまた楽しい、という……(^^)
でもそれもまた楽しい、という……(^^)
面白かったです~
なるほど「こうもり」ww
あの喜劇は良いですよねぇ。どろどろしてるのにどろしてなくて。
しかしこっちは流されなさそうですね!(笑
なるほど「こうもり」ww
あの喜劇は良いですよねぇ。どろどろしてるのにどろしてなくて。
しかしこっちは流されなさそうですね!(笑
- #1831 歌
- URL
- 2010.08/10 18:10
- ▲EntryTop
NoTitle
ああそうか。近いものがあるかもしれませんね。
うんちくは好きです。
でも、いかんせん、宇佐美がそっち系の人ですから、避けられませんね。
そして、書いてて楽しい・笑
ただ、ブログだからと言って間違った記述はしないように心がけたいと思ってます。
結局、得意分野以外には足を踏み入れにくくなっちゃうんですが。
うんちくは好きです。
でも、いかんせん、宇佐美がそっち系の人ですから、避けられませんね。
そして、書いてて楽しい・笑
ただ、ブログだからと言って間違った記述はしないように心がけたいと思ってます。
結局、得意分野以外には足を踏み入れにくくなっちゃうんですが。
Re: limeさん
海外ミステリなんかを読んでいると、うんちくがバリバリ出てくるんですよ。
それを読むたび、くそうわたしもうんちく入れたいぞ、とか思うわけでありますが……なかなかそういう機会は少なく……。(^^;)
limeさんの医療ネタもそういう思いと通じるものが……ないですね。すみません(汗)
それを読むたび、くそうわたしもうんちく入れたいぞ、とか思うわけでありますが……なかなかそういう機会は少なく……。(^^;)
limeさんの医療ネタもそういう思いと通じるものが……ないですね。すみません(汗)
Re: ぴゆうさん
ありがとうございます。
ポイントの絶対的な差から考えて、この1位は「譲ってもらったもの」と思い、慢心せずにがんばりたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
ポイントの絶対的な差から考えて、この1位は「譲ってもらったもの」と思い、慢心せずにがんばりたいと思います。
これからもよろしくお願いします。
Re: 秋沙さん
読んでいて嫌な気持ちになったらぶちこわしですもんね。
楽しく読み終われるほうがいいよな絶対。
楽しく読み終われるほうがいいよな絶対。
Re: ネミエルさん
これを書いたときはノリまくっていたんでしょうね。たしか「天使を吊るせ」の連載の真っ最中に書いたと記憶しているのですが。
最後の展開は、ひねり方が当たり前すぎてつまらん、と友人にいわれました。
でもまあ読んでいて気分がよくなるショートショートという目的は達したからまあいいや(^^)
最後の展開は、ひねり方が当たり前すぎてつまらん、と友人にいわれました。
でもまあ読んでいて気分がよくなるショートショートという目的は達したからまあいいや(^^)
Re: 茶倶楽さん
さあ注文だ!(^^)
http://www.eswine.jp/product/item/itm_8800702072.html
ポオの原典はさすがに名作であります。アメリカ文壇が生んだ最初の創造的天才のひとりですね。
あんな作品をわたしも書きたい……ですが、生涯極貧、死んだ後で認められるというのはいやじゃあ!(笑)
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ポオの原典はさすがに名作であります。アメリカ文壇が生んだ最初の創造的天才のひとりですね。
あんな作品をわたしも書きたい……ですが、生涯極貧、死んだ後で認められるというのはいやじゃあ!(笑)
NoTitle
物語の合間にある雑学が、全体を渋く感じさせていますね。
軽めのオチでも、中盤の雰囲気がショートショートには不可欠ですもんね。
読み応えのあるショートでした!
軽めのオチでも、中盤の雰囲気がショートショートには不可欠ですもんね。
読み応えのあるショートでした!
NoTitle
久しぶりにながーいのが来ましたね!←
あいからわずの捻り具合です。
僕は好きですけどね。
こういうのがポールさんっぽくて好きです。
大好きです。
あいからわずの捻り具合です。
僕は好きですけどね。
こういうのがポールさんっぽくて好きです。
大好きです。
- #1818 ねみえる
- URL
- 2010.08/10 00:00
- ▲EntryTop
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アルマセニスタ・アモンティリャード・デ・ヘレス。某漫画でこのお酒の話を読んで、少し探した過去があったりします。見つかりませんでしたが……orz
アモンティリャードの酒樽って小説名が出たので、逆に殺人事件にはならないだろうと思っていたら予想が当たりましたw
ポールさんならきっとひねるかなとw
アモンティリャードの酒樽って小説名が出たので、逆に殺人事件にはならないだろうと思っていたら予想が当たりましたw
ポールさんならきっとひねるかなとw
- #1816 茶倶楽
- URL
- 2010.08/09 23:10
- ▲EntryTop
覚え書き
mixi「本格小説」アプリに発表したサスペンス。
自分ではちょっと気に入ってるが人気は出なかった。
新味がまったくないのは自分でもつらいところである。
自分ではちょっと気に入ってるが人気は出なかった。
新味がまったくないのは自分でもつらいところである。
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Re: 歌さん
それを考えると、喜歌劇って貴重ですよねえ。
君主論で有名なマキャベリは、晩年は喜劇作者で食っていた、という、ウソのようなホントの話があります……。